大通りを端から端まで歩いて、ゼオンは軽く頭を振った。
「やはり戻ろう。この街のホテルは、どれも使えん」
「……やめておけ。そろそろ、通報される」
ゼオンは小さく舌打ちした。まったく、子供というのは不自由なものだ。気に入ったホテルに、長期間滞在することもできないなんて。
「……別に、2、3日眠らなくても問題ない。どうしても睡眠が必要になったら、体が勝手に寝る」
それはほとんど気絶だ。ゼオンはこめかみを押さえて、道に並ぶホテルの数々を睨みつけた。
数ばかりあっても仕方ない。必要なのは、完全防音の設備が整っている部屋だった。
おやすみの前のお話
ゼオンがそれに気づいたのは、デュフォーと出会って数日が過ぎてからのことだった。
デュフォーは、静かな場所でなければ眠れない。魔物のように、数日間眠らなくてもびくともしないから眠らない、というわけではなく、ただただ眠れない。
うるさいんだ、と呟いたことがある。どこか愚痴めいた呟きは、後にも先にもあの一度きりだ。騒がしくて眠れないというデュフォーのために、壁の厚いホテルを選んでとまった。
それでもデュフォーは眠れなかった。
毛布を肩に掛けて、ベッドサイドの明かりに薄く照らされて、物音ひとつ聞こえない部屋の中で、うるさいんだとデュフォーは呟いた。
仕方なく選んだホテルの一室で、ゼオンは眉間に皺を寄せていた。
デュフォーがシャワーを浴びている間にと、部屋中を歩き回って見たのだが、どこも駄目だ。このホテルに入る前からわかっていたことだが、軽く壁を叩いてみるといっそうはっきりする。
(これではデュフォーは眠れまいな)
壁が薄いとはいわない。その気になれば、隣室や廊下の音をはっきりと聞き取ることができたが、それはゼオンが魔物だからだ。人間にはまったく聞こえないだろう。壁は厚く、部屋の中の調度も、シンプルではあるが安っぽさは感じない。全体的にしっかりとした造りだ。
(だが……)
シャワーを浴びている本の持ち主を思って、ゼオンは小さく頭を振った。
この程度の防音では駄目だ。これではデュフォーにはうるさすぎる。
もっと、一日中大音量でバイオリンをかき鳴らしても、メロディひとつ部屋の外にこぼれないような部屋でなくては、彼を休ませてやることができない。
(やはり前のホテルに戻ればよかったか)
あのホテルの防音は完璧だった。おかげで長期滞在しすぎて、ホテルの従業員から不審の目を向けられるようになった。金はきちんと払っているのだから、他人の事情など気にしなければいいものを!
「……どうした」
背後からの声に、ゼオンは怒りに震わせた拳をといて振り向いた。デュフォーはまだ、髪から滴をたらしたままで、わずかに首をかしげていた。
「……皺が寄ってる」
デュフォーがとんとんと、自分の眉間を叩いて示す。ゼオンは仕方なく力を抜いて、デュフォーの肩にかかっているタオルを取った。
目で促せば、デュフォーはおとなしくベッドに腰掛ける。手ごろな高さまで降りてきた銀の髪をタオルで掬って、ゼオンは忌々しく吐き捨てた。
「このホテルは駄目だ。明日には前のホテルに戻るぞ」
「……いっただろう。通報される。お前にとっては蟻ほどにも感じないだろうが、蟻もたくさん集まれば面倒だ。余計な手間を増やすことはない」
それは事実だった。ゼオンにとってというより、むしろデュフォーにとって。自分はしょせん、魔界に帰る身だ。だが、彼はこの先もこの世界で生きていかなければならない。
「……気にするな。このホテルだって、別に悪くない」
わずかに気遣いの見える声だった。ゼオンは唇を緩め、そして次の言葉に凍りついた。
「……おかしいのはオレだ。ホテルも、お前も、悪くはない。普通の人間なら気にしないものを、騒がしく感じるオレがおかしい」
まるでニュースを読み上げるような声だった。今日の出来事を淡々と読み上げる、キャスターのような表情だった。
おかしいのは自分で、世界はなにもおかしくないと、なにも悪くはないと。
「違う!!」
薄い肩をつかんで、ゼオンは怒鳴りつけた。火を飲んだようだった。腹の底から熱くて、怒りのあまり目が眩む。
(おかしいのか!!十年近くもあんな場所に閉じ込められ、誰ひとり傍におらず!誰もお前の声を聞かず、誰もお前を愛さずに!空調の音と、自分の息をする音だけが、唯一存在するような場所で!狂気に耐えて眠りについていたお前が、今、あふれかえる人の気配に過敏になることの、いったい何がおかしい!?)
はらわたが煮えくり返るような怒りが、ゼオンの喉をふさいでいた。
なぜ、生まれる前に勝手に誰かに決められたようなことで、デュフォーが苦しまなければならないのか。人と違って生まれたのは、決して彼のせいではない。自分がバオウを得られなかったことが、この手ではどうにもならないことであるように!
努力も意志も関係ない。どうにもならないところで、奪われていく。
(ふざけるな!)
ゼオンは、王たる者の目でデュフォーを見た。自分はこの人間に信じさせなければならないのだと、強く思った。
「お前は、お前として生きているだけだ。ただそれだけだ。なにもおかしくなどない。何も、悪くない」
心からの言葉だった。それでもデュフォーの瞳には、さざ波ひとつ立たない。
(……わかっている)
彼が諦めてしまっていることは、わかっている。だからいま悲しいのは、ただ、彼の冷たくなってしまった指に触れているからだ。
「………大丈夫だ、ゼオン」
「…大丈夫?なにがだ」
「……そのうち、眠れるようになる。今はまだ、体の適応能力が追いついていないだけだ。すぐに慣れる」
ゼオンは心の内で、密やかに息をついた。体が慣れていない、それは事実だ。デュフォーの心は、慣れる慣れないの問題など通り越しているから、体さえ適応できれば、やがて眠れるようになるだろう。
骸となった心を抱えて、体だけは世界に慣れていく。
死んでしまった心は、世界がどれほど変わろうとも、何の影響も受けはしない。絶望の雪だけが、心の死骸に降り積もる。
(ああ、だが、それは、わかっていても、オレは、それだけは───)
あらかた乾いた銀の髪に触れ、ゼオンはしばし考え込むと、ツインベッドのの片方に自分のマントを広げた。意識して、人一人は余裕で包める広さまでマントを伸ばす。
「デュフォー、ひとつ聞くが、お前はオレが近いとうるさいか?オレの気配や、心音などが…」
「まさか」
珍しく即答だった。
「お前は別だ。どれほど近くても、お前は別だ」
「そうか。では、少し狭いが、しばらくはオレの隣で寝ろ」
そういって、大きく広げたマントをデュフォーに頭から被せてやる。すべてに答えを出す彼は、珍しくきょとんとした顔になった。
「静かだろう?」
「……ああ」
「魔力さえ通せば、灼熱の溶岩をも防ぐマントだ。多少の雑音など、ひとつ残らず弾いてくれる。しばらくはそれに包まって寝るといい」
「……ゼオン、魔力の無駄遣いだ」
真顔でそういってくるパートナーに、ゼオンは軽く頬を引きつらせると、問答無用で彼をマントとシーツの中へ押し込んだ。
「お前に寝不足で気絶されるほうが、よほどオレの神経と魔力と体力を無駄に使うわ!おとなしく寝ろ!」
「……いざというときに魔力が足りなくなる可能性も…」
「ない!このオレがそんなマヌケな真似をすると思うか!」
「………思わない」
「だろう」
「……おやすみ」
「ああ、おやすみ」
冬コミの無料配布本の再録です。あんな場所で十年近く生活していたら、外の世界の騒がしさにはなかなか慣れないんじゃないかなあと思って。