孫悟飯は22歳で死んだ。
死後、彼の魂は闇の中を彷徨い、光差す場所へと還ってきたときには長い時間が過ぎていた。
暗闇で過ごした時間は、永遠のようでもあり、一瞬のようでもあり、あやふやな夢のようでもあった。そのほとんどを、彼はよく覚えていない。心のどこかが凍えている感覚が、今でも残っているだけだ。
時間を飛び越えた世界に降り立ったとき、彼は、こちらこそが夢なのではないかと疑った。疑わざるを得なかった。そして、この疑いが消えるまでは、長い時間がかかるだろうと悟った。それは仕方のないことであったから、彼は静かに受け入れた。
チチの作ってくれた盛大なご馳走をテーブルの上に並べていた悟飯は、近づいてくる気に気づいて顔をほころばせた。
(ずいぶん飛ばしてるな)
超化までして急がなくても、料理はなくならないのにと思う。それに、よく探ってみると、もう一つ小さな気がある。
(まさかあの子は、ブルマさんを担いできてるのか?)
だとしたら、今頃彼女は声も出せない恐怖にさらされているだろう。スーパーサイヤ人の全力の舞空術は、疾風よりも速く刀剣よりも鋭く大気を切っていく。悟飯は軽く額を抑えた。立派な青年に成長しても、食い気には負けてしまうのがサイヤ人の特徴なのだろうか。
そんなことを思いながらドアを開けると、ちょうど金色の気が着地したところだった。
「悟飯さん!」
「いらっしゃい、トランクス。それに、ブルマさんも……大丈夫ですか、ブルマさん」
「平気よ〜!ジェットコースターみたいで快感だったわ!」
ジェットフライヤーをカプセルにしまって、ブルマが親指を立てた。幸いなことに愛弟子は、生身のブルマではなく、ブルマの乗ったジェットフライヤーを担いできたらしい。
「そんなに急がなくても、トランクスの分はちゃんと取ってあるよ」
「え?ち、違いますよ、悟飯さん!オレはお腹が空いてるわけじゃなくて!」
「あ、そういえば、会社のパーティがあったんだもんな?もしかしてもうお腹いっぱいかい?」
残念だなと呟けば、トランクスはがしっと悟飯の肩を掴んでいった。
「そんなことは全くありません!!腹ぺこです!!悟飯さんと一緒に食べるために水も飲まずに来ましたから安心してください!」
「アンタ、水くらい飲んできなさいよ…」
呆れ顔のブルマと、鬼気迫るほどに真剣なトランクスを見比べて、悟飯は小さく笑った。
「じゃあ、どうぞ中へ。準備は整ってますよ」
近隣の村で催されたクリスマスパーティにも顔は出したが、本命はやはり、身内の集まるパーティの方だった。それはチチや牛魔王も同じなようで、チチは昨日から準備に余念がなかったし、牛魔王は山のような酒樽を持ってきてくれた。
「じゃあ、クリスマスと、何より悟飯くんが帰ってきてくれたことを祝って、カンパーイ!」
ブルマの華やかな声に合わせて、グラスが鳴る。あとはもう飲めや食えやの大騒ぎだった。
美味しいを連呼する愛弟子は、なぜか悟飯を太らせることに執念を燃やしているらしく、あれも食べてこれも食べてと勧めてきた。悟飯とてサイヤ人の血を引いているのだから、地球人からすれば胃袋がブラックホールなのに、弟子の目には小食と映るらしい。悟飯は少し、愛弟子の中の常識に不安を覚えた。
酒樽を担いできた祖父は、その割にあまり悟飯に酒を勧めなかった。飲み慣れていないことをすぐに悟ってくれたのだろう。果物のジュースや、飲みやすいシャンパンなどを回してくれた。それはどこか、まだ父が生きていた頃のクリスマスを思い出させるもので、悟飯は少し寂しく笑った。けれど目を上げると、牛魔王がとても優しい目で自分を見ていて、同じことを考えているのだとわかった。だから悟飯は、今度は柔らかく笑った。共有できる人がいるかぎり、思い出は決して冷たいものではなかった。
会社用のドレス姿のまま、ローストチキンを豪快に食していたブルマは、食事をしながらも話す口は決して止めなかった。母をつかまえて、次の休みには二人で買い物に出かけることを確約させていた。楽しまなくちゃ損よ!と力説する彼女はとてもパワフルで頼もしい。悟飯が戻ってからは、めったに遠出することのなかった母だが、ブルマの誘いには目を輝かせて頷いていた。買い物というのには、女性を虜にする何かがあるのか、あるいは母も落ち着いてきたのかもしれない。
この現実こそが夢ではないかと疑っているのは、母も同じだった。その気持ちが悟飯には痛いほどよくわかったから、帰ってきてからしばらくの間は、お互いにあまり離れないでいた。心が、これこそが現実なのだと受け入れられるまで、静かに寄り添っていたかった。
(でも、お母さんはそろそろ大丈夫なのかもしれない)
よかったと、悟飯は微笑んだ。重傷なのはむしろ自分の方だという自覚があったから、母親をあまり付き合わせたくなかった。
「悟飯さん!食べてますか!?」
「食べてるよ。トランクス、キミ、ひょっとして酔ってる?」
「酔ってませんよ?だってオレ、母さんと同じですから」
ブルマを示されては、悟飯も納得するしかない。どうやらこの親子は酒樽の一つや二つ、平気で飲み干せるようだ。
(でも、それならどうして、そんなに目が据わってるんだ?)
妙に気合いが入っているように感じられる。酒のせいでないとしたら、いったいどうしたんだろう。
「悟飯さん、オレ…」
「うん?」
言いかけたまま、トランクスは口をつぐんでしまう。ただその青い眼差しだけが、射抜くように鋭く悟飯を見ていた。
(目の高さが、もう、同じなんだよな…)
もう、見上げてくる青い瞳はないのだ。見下ろす必要もない。目を開けばそこに青い瞳があって、優しく、ときに包み込むように自分を見ている。
(たぶん、オレを一番混乱させているのは、キミなんだろうな)
悪い意味でではないし、誤解で傷つけたくもないから、決していわないけれど。
会社から真っ直ぐに飛んできたトランクスは、落ち着いた色のスーツに身を包んだままだ。上着だけは脱いで、ネクタイを緩めている。筋肉を覆う白いワイシャツは、成長した弟子に違和感なく馴染んでいて、それがいっそう、目の眩むような感覚を呼び起こした。
自分の小さな弟子はもういない。そのことが少しだけ寂しく、けれどそれ以上に誇らしかった。小さな光だった少年は、成長して、大きな希望の光となった。
(ただオレは、どうすればいいのかわからないんだ。わからないから、少し、怖いんだろう)
極端なことをいってしまえば、かつて悟飯にとって世界には、敵か守るべき存在しかいなかったのだ。
子供の頃に仲間はみんな殺されてしまって、それからずっと一人で戦ってきた。もちろん精神的に支えてくれる人はいたけれど、戦いの場においては、悟飯は一人だった。守られていた記憶はあっという間に遠ざかり、悟飯は一人で戦うことに慣れた。慣れなくては死んでいた。二対一で苦戦していても、誰かが加勢に来てくれることはないし、殺されそうになっても、誰かが危機を救ってくれることはない。それを骨の髄まで叩き込んで戦わなければ、悟飯はとうに殺されていただろう。
だから、どうにも、慣れない。トランクスが、自分と同じ ─── いや、実戦面を考えれば、何年も悪夢の中にいた自分より、現実で戦ってきた彼の方が強いかもしれない ─── 場所にいることが落ち着かない。頼ることができるもの、助けを求められる相手、それらは失われて、二度と戻らないはずではなかったのか。
トランクスが、頼って欲しいと思っているのはわかる。実際そういわれたこともある。確かに十年のブランクがある自分は、彼から見れば危なっかしいのだろう。
(だけど、頼り方なんて、オレにはもう思い出せないんだよ、トランクス)
信頼してない訳じゃない。子供だと思っている訳でもない。だけど、立派に成長したトランクスは、自分にはどうにも落ち着かないし、誰かを頼るというのがどういうことだったかも、よく思い出せないのだ。
悟飯は心の中で溜息をついた。過去の世界の自分だったら、きっと、頼り方がわからないなんてことはないんだろう。のんびりとした顔を思い出す。同じ孫悟飯といっても、あそこまでいくと偶然名前が同じなだけの相手にしか思えない。環境が人を育てるというのは真実だと、つくづく思う。だいたい、あの歳になってまでピッコロさんに甘えているってどうなんだ。なんて羨ましい。
(あぁ、でも、今のオレじゃ、ピッコロさんが相手でも甘え方なんてわからないなあ)
頼るってなんだっけ?甘えるってなんだっけ?と、頭の中で大量のハテナマークが飛んでいるような状態だ。
(自分がもの凄いバカに思えてきたな…)
うんざりした気持ちでシャンパンをあおる。すると、そっとトランクスが左腕の袖を引っ張った。まるで彼が幼かった頃のような動作に目を見張ると、トランクスは優しい顔で微笑んだ。
「プレゼントがあるんですよ。すぐ用意しますから、少し待っていてくださいね」
「ああ…、ありがとう」
席を立ったトランクスの後ろ姿を眺めて、悟飯はとうとう右手で顔を覆った。
(本当に、トランクスは大人になったなあ)
昔から気遣いのできる子だったけれど、今ではさりげなさまで加わって、完璧すぎて、こちらがいたたまれなくなるほどだ。もちろんあの子はなにひとつ悪くないのだけど、ダメな大人は走って逃げ出したくなる。
プレゼントだって、きっと、自分が欲しがっていた本か何かをくれるのだろう。黒こげのクッキーをくれた頃が懐かしい。
「悟飯さん、いきますよ!」
そんなかけ声が聞こえたので、ブルマやチチもお喋りをやめて、ドアの方を見た。悟飯も体をずらして、ドアへと向き直る。
期待にしんと静まりかえった部屋の中で、がちゃりという音とともにドアノブが回り、悟飯は言葉を失った。
そこにはクマが立っていた。