蝶の夢



それは、何度目かのときだった。
ボロボロに破れ、使い物にならなくなった橙色の道着を見て、ピッコロはいつも通り手をかざした。
「あっ、あの、ピッコロさん!お願いがあるんです…」
「なんだ」
修行を始めて数ヶ月が過ぎ、初めの頃のような泣き言は一切口にしなくなっていた子供の、珍しい言葉に、ピッコロは手を止めた。
まさかとは思うが、この期におよんで、ベッドが欲しいだの風呂が欲しいだの言い出したら、今日は地獄を見せてやる。
そんな事を考えながら、もじもじと言い迷う子供を促す。すると、悟飯は、意を決したように、
「ピッコロさんと、同じ道着にしてもらえませんか」
と、いった。
予想もしなかった言葉だ。ピッコロは、一瞬、その意味が理解できずにうろたえた。
「……ダメですか…?」
悟飯が、しょんぼりと肩を落としていう。ピッコロは、渇ききった喉から、かろうじて言葉をひねり出した。
「なぜだ」
「なぜって……、ボク、ピッコロさんの弟子だから、同じやつが着たいなと思ったんですけど…」
ダメですか、と、悟飯が繰り返す。
同じやつ、というなら、橙色の道着こそ、父親とそろいのものだった。背中と胸の文字こそ違ったが、悟飯がそれを意識していたかはわからない。そもそも、亀と魔の字が読めて ─── なおかつ、その意味を、四歳の子供が理解できていたのかなど ─── ピッコロは知らなかった。
知りたいと、思った事もなかった。
魔族にしてやると口では言いながらも、子供の心に毒を流すどころか、触れたことさえなかったのだ。ただその幼く、甘く、温かなものを、遠くからじっと眺めていただけだ。
(だというのに、いつの間に、おまえは俺の弟子になったんだ)
いくら武芸を教え、叩き込んでいるといっても、それがこの子供の望みではないことはわかっている。無理やりに連れてこられ、無理やりに鍛えられているのだ。もしも、恨んでいると言われたのであったら、知ったことかとピッコロはせせら笑っただろう。
だが、悟飯が口にしたのは、まったく違う言葉だった。
いったい、この過酷な日々のいつ、厳しい修行のどこで、自分はこの子供の師になったのか。
わからなかった。だが、ふざけるなと、怒鳴りつける事もできなかった。怒鳴りつけてしまえば、不意に触れてきた柔らかな何かを、失ってしまうような気がした。
何かを、本当に微かな何かを惜しんで、ピッコロは声を出せなかった。
「ピッコロさん…」
不安そうな顔で自分を見上げて、悟飯が答えを待っている。
ピッコロは不意に腕を動かし、当初予定していたものとは違う道着を、子供に与えた。
わっと子供の顔が輝き、パタパタと腕を回したり、服を引っ張ったりして、嬉しそうに新しい道着を確かめる。そして満面の笑みを浮かべて、弾んだ声でいった。
「ピッコロさん、ありがとうございます!」
その笑みに、ピッコロは耐え切れず踵を返した。そのまま、空へ上がり、悟飯が追って来れないだけの距離を取った。



橙の道着は、お前の父親と同じものなのだと言ってしまえばよかった。
きっと、あの子供は忘れてしまったのだ。厳しい修行の日々の中で、幼い頭は、父親の記憶をおぼろにしてしまったのだろう。だから、あんな事を言い出した。
いってしまえばよかった。父親と同じものだと知れば、悟飯は願いを取り下げただろう。前と同じ、橙色の道着を望んだはずだ。
ハッと、ピッコロは息を吐き出した。罪悪感のようなものを感じている自分が馬鹿馬鹿しく、愚かしかった。
(どうせ、今だけだ ─── )
今だけだ。自分の時間は、そう長くない。サイヤ人との戦いが最後になるかどうかはわからないが、忌々しい予感はある。
あの子供が大きくなる頃には、自分はいない。
だから、今だけだ。悟飯があの道着を喜んで着るのも、師弟ゴッコのような真似をするのも、今この一時だけだ。
ならば、そう……、少しくらい、戯れを許してもいいのかも知れない。
あの子供の師匠となって、自分の全てをあの子供に託す。そんな夢をいっとき見るのも、悪くないだろうか。
悟飯は、大人になれば忘れるだろう。
辛かった日々のことは思い出しても、魔族と同じ道着をねだったことなど、記憶の隅にも残りはしまい。
覚えているのは、自分だけだ。この些細な夢を、己の魂だけが覚えているのだろう。
そして、いつか、悟飯の満面の笑みとともに思い返すのか。
ピッコロは、微かに息を吐いて、片手で目を覆った。

いつの日か、地獄の底で、今日この日を思い出す。悟飯の、嬉しそうな笑顔とともに。
それは、確かに ─── 価値のあることかもしれなかった。









211話までは亀仙流の道着を着てるのに、212話でいきなり魔道着になってることに萌えて書いてみた話。