そのときボクは、お茶とお茶菓子の用意をしていた。
 家にはちょうど、お父さんもお母さんもいなかった。悟天は幼年学校の宇宙遠足に出かけたばかりで、あと一ヶ月は帰ってこない。まあ、家にいたとしても、悟天にヤカンを触らせるなんて危ないことはさせられないけど。
 まっすぐに家に近づいてくるおじいちゃんの気を感じて、ボクはやりかけのレポートをそのままに、あたふたと家の中を片付けた。お茶とお茶菓子の用意もして、お客様を迎える支度を整える。
 呼び鈴が役目を果たさないまま、玄関のドアが開けられて、おじいちゃんが大股でボクのほうに近づいてきたのは、そんな時だった。



甘い生活



「いらっしゃい、おじいちゃん。ちょっと座って待っててもらえますか?もうすぐお湯が沸きますから」
「悟飯、これにサインしろ」
 はい?と振り返ってみれば、ボクの目の前に突きつけられたのは、一枚の紙切れだった。ボクが動いただけで、ぺらぺらの紙がふわりと揺れる。握り締めたまま飛んできたのだろうか、紙には大きく皺がよっていた。
 ボクは顔を近づけ、目を細めて、一番上に書いてある文字を、声に出して読んでみた。
「けっこん……とどけ……?」
 瞬いて見返す。首を傾げて、もう一回見直す。一度強く目をつむってから、ぱっと開いて見てみる。うん、勉強のしすぎで目が疲れているわけじゃなさそうだ。
 結婚届。きちんと印字された字でそう書いてある。あれ、いまおじいちゃん何ていったっけ?これにサインしろとか何とか……。
 そこでボクは恐ろしいことに気づいてしまった。結婚は一人ではできないので、当然二人分の名前欄がある。その片方はすでに埋まっていた。この右肩上がりで鋭角な、特徴のある字は、ボクの記憶が正しければ、目の前の人の筆跡で、それを裏付けるように、目の前の人の名前が記入されていた……。
 これは、いったい、なにごとだ?
「あのー、おじいちゃん……?」
 紙を覗き込んだ中腰の姿勢のまま、顔だけをおずおずとあげて、上目遣いで様子を伺う。
 子供の頃はよく遊んでもらったけれど、最近はあまり会っていなかった。それでも、生粋の戦闘種族であるこの人は、いつ会っても老いなんて感じさせなくて、ボクの記憶のままの、若々しい容姿をしている。そしてその、お父さんによく似た凛々しい顔が、いつになくに剣呑にしかめられていた。
 眉間には皺が寄り、目つきは鋭いを通り越して険しく、全身からは不機嫌なオーラが滲み出ている。本当に、何ごとなんだろう。視線でそれとなく尋ねるが、冷たく睨み返されるだけだ。さっさとしろ、と、その眼が語っている。
 うーん、これは、説明してもらえそうにないなあ……。
 そもそも、おじいちゃんはお父さんと違って、いう必要のあることはハッキリいうので(お父さんはときどき忘れる。覚えていてもとぼけることもある)、おじいちゃんが黙っているということは尋ねても無駄なんだろう。ボクは事情を聞きだすことを諦めて、体を戻した。
「……今すぐ、サインしなきゃダメでしょうか…?」
 一応お伺いを立ててみる。だけどやっぱり、返ってきたのは、それだけで人を殺せそうな殺気のこもった視線と、テーブルの上に結婚届が叩きつけられる音だけだった。はい、わかってます、ゴメンなさい。おじいちゃんに二度同じことを言わせてはいけない。というか、絶対にいってくれないから、聞き返してはいけない。これはわが家の常識だ。常識を無視できるのはお父さんくらいだ。
 ボクはのろのろと、さっきまで経済学のレポートの下書きをしていたボールペンを取ってきて、できる限りゆっくりと自分の名前を書いた。途中で、お母さんかお父さん、ラディッツおじさんかベジータさんでもいいから、玄関のドアを開けて、「何をやっているんだ?」と声をかけてくれることを祈りつつ。
 祈りつつ、名前を、書き終わってしまった。
 密やかに混乱しているボクの前で、おじいちゃんは結婚届をさっさとしまいこむと、ボクの腕を引っ張った。容赦なく、思いっきり。うわっ、たっ、ひっ!と悲鳴を上げながらも、何とか転ばずに踏みとどまると、おじいちゃんに面倒くさそうに舌打ちされた。なんでだ。ボクが何をしたっていうんだ!いくら温厚なボクでも怒りますよ!おじいちゃんが怖いから怒れないけど!
 ああ、だけど、怒らないから、誰かボクに説明してくれ!!


 どうしてボクは、荷物同然におじいちゃんの小脇に抱えられて、空を飛んでいるんでしょうか。




 抵抗もできないまま連れ去られて、到着したのはおじいちゃんの家だった。ウチと違って一軒家ではない。マンションとアパートの境目のような集合住宅だ。いや、ほんとは、マンションなんだろうけど、あちこちに修繕の跡があるんだよね、ここ……。明らかに、誰かが、気功波を放って壊しただろうっていう跡が、チラホラと……。
 宅配便よろしく抱えられたまま家の中に入り、ぺいっとソファの上に投げ出される。
「あるモンは好きに使え。なけりゃこれで買え」
 その言葉と同時にクレジットカードが降ってくる。ボクが慌ててキャッチするのを待たずに、おじいちゃんはさっさと踵を返して、玄関に向かってしまう。
「おじいちゃん!?」
「なんだ」
「どこに行くんですか!?」
「仕事だ」
 ずんずん歩いていくおじいちゃんを追いかけると、あっという間に玄関まで戻ってきた。そこでおじいちゃんはようやく振り向いて、普段より三倍は険しい眼でボクを睨みつけた。
「いいか、悟飯」
「 ─── はい」
「好きに食って寝て遊んでろ。なにしてても構わねえ。オレのことも気にしなくていい。だが、勝手に帰りやがったら殺すぞ」
 ボクはひと呼吸分沈黙して、考えた。いったい何事なのか、いったい“何のため”なのかは、聞いても絶対に答えは返ってこないだろう。わかっているのは、ボクがここにいることが、おじいちゃんにとって必要なんだろうという推測だけだ。
 それなら、ボクはいまここで、一つだけ真実を聞いておきたい。
「おじいちゃんは、ボクがいて大丈夫ですか?ご迷惑になりませんか?」
 そのとき、おじいちゃんの体から、すうっと殺気が消えていくのが見えた気がした。
 お父さんによく似た顔が、お父さんとはまったく違う、ほんの少しだけ甘やかな笑みを浮かべる。手が伸びて、ボクの髪がぐしゃりと撫でられた。
 その手の心地良さに、ボクは肩の力が抜けて、自然と呟いていた。
「いってらっしゃい」
「………ああ、いってくる」


 こうして、ボクとおじいちゃんの、新婚生活らしきものが始まった。








 新婚さんのお約束その1:挨拶。