遊戯盤の上を、駒が進んでいく。
宇宙船の中の一室だった。ターレスが気まぐれに作らせた、テーブルと椅子と、蜜色に光る木製の盤と駒しかない部屋。それでも殺風景に見えないのは、壁一面に、暗い星の海が映し出されているからだろう。
悟飯は手持ちの駒を指先で弄びながら、テーブルの上の盤を見つめた。このゲームに勝ったら地球に帰してやると、目の前の男がいい出したのは、もうずいぶんと昔の話だ。
ある日地球へやってきた侵略者は、地球育ちのサイヤ人に戦闘で敗れ、けれどその息子を攫うことには成功した。それが勝者へのせめてもの意趣返しだったのか、あるいはただの気まぐれだったのかは、自分にはわからない。それでも、この宇宙船で暮らすようになってから、もう十年近くがたっている。そしてこのゲームを始めてからも。
最初に駒に触れたときから、何度同じ事を繰り返しただろう。短ければ三日に一度、長くとも一週間に一度は、この勝負を繰り返した。そして敗戦の記録が伸びるのと同じように、悟飯の戦闘力も上がっていった。素質があるのさと、目の前の男は笑う。そうなのだろうと、悟飯も頷く。自分の父親は本当にすごい人で、だから、その血を継ぐ自分もそれなりなのだろう。
(きっと、お父さんもとうに、スーパーサイヤ人になれているんだろう)
それは、想像というよりはずっと、確信に近かった。引き離されてから十年近くがたって、優しい面影も大らかな声もおぼろになってしまっているというのに、そんなことだけはすでに知っている事実のように感じられる。もっとも、お父さんは宇宙で一番強い人だから、という考えまでいくと、それは身内の欲目だろうと理性が冷静に告げてくるのだけれど。
「おまえの番だぜ」
「わかってるよ」
そっけなく返せば、ターレスはだるそうな顔でふわっとあくびをした。頬杖をついて、暗い海を眺めるその横顔には、一滴の緊張も含まれていない。退屈そうで、眠そうだ。それならいっそ、こんなゲームなどやめてしまえばいいのにと、何度となく思った事を、今また苦い思いで奥歯を噛みしめる。
悟飯の戦闘力は、とうにターレスを超えていた。
悟飯がその気になれば、なにもかもが簡単だ。復讐だといって、ターレスを殺す事もできる。絶対的な力のもとにこの船の全員を脅して、針路を地球に向けさせる事だってできる。簡単なことだ。こんなゲームになど付き合う必要はない。一瞬で、悟飯はすべての望みを果たすことができる。
(ボクの、望み、か ──── )
指先でいじり続けた駒は、ほんのりと温もっていた。その温かさがいっそう、自分の喉を詰まらせる。暴力がいやなら、ほかにだって方法はある。なにも絶対に、力を振るわなくてはいけないわけではなくて、もっと簡単に、地球へ帰ることもできる。このゲームに勝てばいいのだ。
今の自分になら、それだって決して、不可能ではないのだから。
「前に聞いた話だが ──── 」
頬杖をついたまま、視線だけをこちらへ向けて、ターレスがいった。
「おまえ、銀の盆の生首の話を知ってるか?」
「銀の盆の生首?」
なにそれ?と首を傾げれば、ターレスはくっと笑った。
「聞いた話だ。とある国に、それはそれは美しい王女がいたそうだ。ある日王女は、たった一目見て、捕らわれの身の罪人に心を奪われる。それで王女は熱心に罪人を口説くんだが、罪人は王女に目もくれない。なぜなら罪人には、すでに心を捧げた神がいたからだ。その男は、罪人は、王女の誘惑を退けて、神への誓いを守り続ける。そして最後に、王女は、つれない男の首を胴から離して銀の盆に載せ、ようやく自分のものになったと笑うんだが……」
「それ、ボクもどこかで読んだけど、銀の盆の生首なんて題名じゃなかったと思うよ」
「そうだったか?」
ターレスがどうでも良さそうに首を傾げるのを見て、悟飯ははぁっとため息をついた。この人は、好奇心旺盛で知識も豊富なくせに、どうしてこう、興味のない分野になると、一気に知識が適当になるのだろう。
ターレスが語ったのは、たしか、どこかの惑星の古典名作だ。間違っても銀の盆の生首なんていう、真夏の怪談に出てきそうなタイトルではなかった。
「それで、その話がどうしたの?」
何気なく尋ねれば、ターレスは面白そうに、唇をゆがめた。
そのいびつな三日月を見た途端に、全身がぞっと粟立った。彼がこれから口にすることは、間違いなく自分の心臓を射抜くだろう。その予感に息を呑んだとき、ターレスがいった。
それは、いっそ慈愛すら感じさせるほど、温かみのある声で。
「おまえも、ずっと、銀の盆に首を載せて欲しいような顔をしてるな、悟飯」
まるで信仰と( ─── 両親への愛情と)、王女からの愛で( ─── 男の傍の温もりとで)、身動きが取れなくなった罪人のようだ。ターレスの眼差しがそう告げる。
からからに干上がった口の中で、無理やりにつばを飲み込んだ。努めて、冷静な声を出す。
「あなたは、ほんとうに、自分が人攫いだって自覚がないだろう」
「そんなことはないぜ?ちゃーんと覚えてるさ。おまえは、オレが、カカロットの元から奪ってきたガキだってな」
「……ボクはね、いつも、あなたが口にする言葉の一割にでも、罪悪感が含まれていたら、どんなによかっただろうと思ってるよ」
じっと睨みつけても、ターレスは揶揄するような笑みを崩さない。
悟飯は、手が震えないように苦心しながら、駒を盤の上に置いた。勝てないことはない。最初の頃はまるで見込みがなかったけれど、今なら、このゲームに勝つ事もできるだろう。
けれど、勝利に向けて駒を進めるたびに、自然と思い出すのだ。この船で暮らした、十年近くを。
ダイーズと喧嘩したこと。喧嘩して、宇宙船を壊して、二人そろってアモンドに怒られたこと。罰として食事を抜かれて、二人して空腹に倒れていたときに、カカオが差し入れしてくれたこと。呆れ顔のレズンとラカセイに指導されながら、二人で頑張って宇宙船を修理したこと。……そんなことばかりを、次から次へと、思い出す。
そしてターレスを。目の前で、やる気のなさそうな顔で駒を進める男の、眼差しを、声を、手を、なにもかもを思い出すのだ。
ずっと一緒にいた。それがどれほど歪んだ形であっても、積み上げた思い出はたしかで、悟飯はたまらなくなる。両手で顔を覆って泣きたくなる。なにを秤にかければ、選ぶことができるのだろう。両親と引き離されたばかりの頃の、辛い思い出を?それとも、ここでの生活になじんでしまってからの、幸せな思い出を?
そう、幸せなのだ。幸せだったのだ、自分は。これがどんなにいびつな形が、誰よりも自分自身が一番よくわかっているというのに、この決して正しくはない生活の中で、けれどたしかに幸せだった。幸せなことが、どうしようもなく辛い。これは両親に対する明確な裏切りだろう。それなのに。
信仰と、王女からの愛情を秤にかけた男は、どうやって想いを貫いたのだろう。あるいは、貫けなかったのだろうか?迷い、選べなかったからこそ、その男は首を差し出したのだろうか。
何一つ捨てられない自分の、せめてもの誠意として。
悟飯は静かに息を吐いた。自分の番だ。今度の駒を右に置けば、あと数手でチェックメイトになる。この駒の並びなら、ターレスに打つ手はないだろう。
「ターレス」
精一杯のさりげなさを装って、悟飯は尋ねた。
「あなたもボクの首が欲しい?」
「まさか」
即答だった。思わず顔を上げれば、男は、珍しく、ほんとうに優しい笑みを浮かべていた。いつもの冷ややかさも、からかいも、拭い去ったような甘やかな笑みを。
「オレは王女ほど愚かではないし、気短でもないぜ?」
男はいっそ静謐といえる眼差しを向けて、静かに囁いた。
「いくらでも待つさ、悟飯。おまえが、真実、オレに敗北するまで」
そうして、悟飯の指先は、今日もまた、勝利を逃すのだ。
end