「わあ…!すごい、きれい…。これは常世の花なのかしら」
窓の外に身を乗り出して感嘆の声を上げている主を、柊は数歩離れた後ろで見守っていた。唇にはいつもと変わらない微笑を浮かべていたが、目は笑っていなかった。いや、笑えていなかった。
(どうしたものでしょうね…)
狭い室内には、椅子が一つに卓が一つ、そして寝台が一つあるだけだった。
ただ一つの祈り
黒き龍を倒し、常世の恵みを取り戻した二人は、柊の発案により、常世の外れの村で宿を借りることにした。豊葦原に急いだほうがいいのでは?と不安を覗かせる主に、柊は微笑一つで答えた。愛しい主を、豊葦原の王とするために、まだこちらでしなければならないことがあった。
笑んで語らない自分に、主は困った顔をしたが、それ以上の追求はなかった。おそらく、別の時空の自分で慣れているのだろう。ただしっかりと手を握り締められて、柊は貼り付けた微笑ではなく、心からの優しい笑みを浮かべた。
────どうか、ご心配なく、心優しい我が姫。自分は決してあなたのためにならないことはしない。愛しいあなたを悲しませるような真似もいたしません。
常世についたこの数年の間で、大まかな地理は頭に叩き込んであったから、宿がありそうな村を探すことは難しくなかった。ただ一つ、想定外だったことといえば、
(まさか、部屋が一室しかないとは思いませんでしたね…)
常世の荒廃の酷さを侮っていたらしい。宿屋の主人にすまなそうな顔で、ほかの部屋は客がいないため手入れがされておらず、使える状態ではないのだと詫びられれば、心優しい姫に否があるはずもなく。
柊が止める間もなく朗らかに了承して、通された部屋には、予想どおり寝台が一つしかなかった。
青ざめた姫の隣で、絶好の好機だ、とか、据え膳だ、とか思えるような人間は、たぶん八葉には選ばれないのだ。きっとそうだ。
(私は床でもかまわないんですが…、姫は嫌がるでしょうねえ。まぁ、私も似たようなものですが)
本当は、今でさえ、気を緩めれば、腕が震えそうになるのだ。
どれほど思考をめぐらせても、これが夢ではないという保証が見つからない。目を覚ませば、すべては泡のように消えてしまうのではないのかという恐れがぬぐえない。喜びが深ければ深いほど、影は心を黒く染め上げる。もしもこれが夢だというのなら、どうか目を覚ます前にこの心臓を一突きにしてほしいとすら願う。…おそらくは、姫も、同じだろう。
目の前で死んだという自分。亡骸にすがり付いて、消えていく温もりを確かめるのは、どれほど恐ろしかったことだろう。どれほどの悲痛が主を襲ったのか。自分には計り知れないことだけれど、そのために、ただ一つの、失われた命のために ──── 主はすべてを捨てたのだ。平穏な未来の何もかもを捨てて、もう一度荒ぶる神と戦うことを選んだ。その絶望の深さを、柊はそっと指でなぞる。
せめて今宵だけは。この先、王と臣下となり、触れることも難しい立場になるとしても、どうかこの一夜だけは許して欲しい。自分も、姫も、怖くて怖くて、暗闇の中で一人眠りにつくことなど到底できないのだから。千の言葉よりも確かな温もりがなくては、呼吸することも難しい。
(しかしそうなると、残された道はただ一つ、私が我が君と同じ寝台で休むということになりますが…)
ちらりと、壁際の寝台に目をやる。狭い。
毛布が古びていることも、下敷きが薄っぺらいことも、大目に見よう。だが狭い。あれに二人で横になるとしたら、それこそ自分が姫を抱きかかえるような格好で眠るしかないだろう。でなければ、確実に床に落ちる。
(なんですか、これ。龍神の嫌がらせですか)
きっとそうだ、姫の心を得た自分を妬んでの仕業に違いない。神のくせになんてせせこましい真似をするのだろう。
(私が、姫を、抱いて……理性の保証ができませんね)
別の時空の自分の辛抱強さを心から褒め称えたい。柊はうつろに視線を漂わせた。恋に狂うような思いを抱いて、それでもあの唇の触れることすらしなかった別の自分は本当にえらいと思う。狭井君にお褒め頂いてもいいくらいではないだろうか。…終わりを知っていたからだと、わかっているけれど。
触れるわけにはいかなかった。どれほど恋しくとも、そして主が同じように想ってくれていると知っていても。
(未来のない私が、あなたに触れることなど許せるはずがない。私はただ、あなたの頬をなでる風のようでありたかったのだ。一時の気まぐれのように、あなたに何ひとつ痕を残さず消えなくてはならなかった。……はずなんですけどねえ)
つくづく、龍神の神子は、予想の遥か上を行く。ああ、もう龍神の神子は辞めたのだったか。柊は、窓の外の景色を愛で続ける主の細い背中をそっと見つめた。この方がもはや龍神の神子でないというなら、定められた終末が倒れたというなら、自分の手を押しとどめるものなど何もない。触れてしまいたい。
(……駄目です。まだ、駄目です)
姫がそれを意識していることはわかっている。さきほどから、ちらりとも振り向かない薄い背中を、柊はじっと見詰めた。はしゃぐ声が嘘だとは言わないが、ところどころに緊張が走っている。おそらく、この方は覚悟を決めているのだろう。自惚れではなく、自分と夜を共にしてもよいと思ってくださっているのだろう。
触れてしまうことは、たやすい。
(だが、いま触れてしまえば、私は死ぬまで疑い続けるだろう。我が君が愛してくださったのは、本当に私なのか。別の存在ではないのか。ただ一夜の過ちゆえに、離れられずにいるだけではないのか、と)
いかに記憶を受け継ごうと、主と旅をし、絆を深めていったのは、ここにいる自分ではない。主もそれはわかっている。わかっていて、いいと言ってくれている。それでもこの心から疑いは消えない。
柊は自嘲気味に口の端を上げた。唯一の主と称えながら、その言葉すら信じられない。何かを信じることなど、とうにやめてしまっている。我ながら嫌になるほどだ。
けれど、だからこそ、信じてみたい。
かつて別の自分がそうしたように。主と旅をして、いくつもの想いを共有して、長い時間を経た末には、きっと信じられるようになるだろう。この方が愛しているのは、間違いなく自分なのだと。
(だからこそ、いま触れてはならない。……申し訳ありません、我が君。私はあなたの何もかもが欲しい。別の自分に想いを捧げているのではないかと疑いながら過ごすことなど、到底耐えられないのです)
しかし、そうすると ──── ……最初の問題に戻ってしまう。さて、今夜はどうしましょうか。
柊がいつになく冷たい汗をかいていると、金の髪がくるりと舞った。
「柊、あのね…!その……っ!」
こわばった顔が一生懸命言葉をさがすのを、柊は一言で押しとどめた。
「我が君、どうか案じられますな」
そうだ、案じることなど何もなかった。欲しいものはいろいろとあるが、祈りは常に一つだ。
「私とて、いくつかの物語はそらんじてございます。風早ほどには、姫のお望みに沿わないかもしれませんが、数でしたら私のほうが上です。いくらでも、姫のお望みのままに、語ってごらんにいれましょう」
「………えーと、寝る前に、お話してくれるってこと?」
「さようでございます」
「私、そんな年じゃないよ?」
「むろん、存じております」
にっこりと笑って、押しの姿勢を崩さない。最初ほっとした顔になった姫は、すぐに落胆したように眉を下げて、柊をじっと見詰めた。
それから徐々に笑顔になった。
窓から離れた主は、柊の手にそっと触れる。ひんやりとした皮の感触を気にする様子もなく、指先を絡ませた。
「柊」
「どういたしました、我が君」
「……柊が、生きていてくれて、嬉しい」
言葉が、なかった。感謝も賛辞も、何一つ出てこなかった。
なにを言えばいいのだろう。ふさわしい言葉があるなら、教えてもらえないだろうか。胸が詰まって、頭が甘く痺れて、混沌とうずまく心からは何ひとつ出てこない。
「……我が君…」
ああ、それでも、ただ一つだけ、伝えたいことがあるとすれば。
「あなたが…、笑っていてくださることが、私の、…幸いです」
-end-