「ありがとう。姉様と一緒に戦ってくれて」
 いわなければならないと思った。声を震わせてはいけない。泣いてはいけない。微笑んで、告げなければならない。
(私があなたに伝えたいことは、たった一つなんだと)



光の差す方へ



 いつもなら布団に入っている時間に部屋を訪ねれば、風早はさすがに驚いた顔をした。けれど何かを察したようで、すぐに優しく招き入れてくれた。
「豆茶でいいですか?」
「うん…」
 寝台に腰掛けて、千尋は小さくうなずく。風早の部屋には、小さな火鉢がある。いろいろと便利だから、という理由で、柊が勝手に持ち込んだらしい。茶を呑みたいだけだろうと忍人は額に青筋を浮かべていたが、風早はまあまあと取り成していた。
 その小さな火鉢の上から、うっすらと湯気が昇る。熱湯になる前に器を取り上げた風早は、小さな湯飲みにお湯を注いだ。
「どうぞ。体が温まりますよ」
 温かな湯飲みを受け取って、千尋はそっとうつむいた。
 鼻をくすぐる、かすかな匂い。どこか懐かしいこの香りは、前に、堅庭でもかいだことがあった。
 あのとき彼らは、誰も、二人の結末を知らないように見えたのだ。
「……風早は、姉様のことを知ってる…?姉様と、羽張彦さんの、本当のことを…」
「千尋?」
 いぶかしむ声に、しまったと思った。こんな聞き方じゃ、裏があるのだといっているようなものだ。
(風早が何も知らないなら…!羽張彦さんのことは…)
 言いたくない。今の自分には、とてもいえない。でも、真実を話すべきなのだろうか?その人は、風早の大切な友達は、もういないのだと?
「千尋…、泣かないで」
 堪えきれずにこぼれ落ちた涙を、風早の指がそっとぬぐう。兄のような青年は、覚悟を決めるかのように、軽く目を閉じた。
「柊が、話したんですか?」
「知っていたの!?」
 目を見開いた千尋に、風早は小さくかぶりを振った。
「知っていたわけではないんです。一ノ姫と羽張彦の出奔は、許されない関係ゆえのものと、みな思っていましたし」
「でも狭井君は知っていたわ」
 いって、また一粒涙がこぼれた。狭井君は知っていた。知っていて、全てを隠していた。羽張彦に全ての罪をなすり付けて。
(狭井君だけが悪いんじゃない…。きっと、それが、そのときの上の人たちの望みだったんだ…)
 当然、母である女王の意向でもあったのだ。
 どうしてか、なんてことは、自分にだってわかる。龍神の神子が、こともあろうに龍神を倒しに行ったなんて、公表できるわけがないから。そしてそれが、常世の国との密約のためだったなんて、もっといえるわけがないから。
 全てを恋のせいにして、真実を葬った。全てを、愚かな恋のせいにして。
(姉様…!)
 震える肩をいたわるように、風早の手が背中をさする。風早の胸に額を押し付けるようにして、千尋は泣いた。しゃくりあげる声は、兄代わりの人の体に、全部吸い込まれていくようだった。
「……俺も、聞いたわけではないんです。ただ、一ノ姫が失踪してから、数日後に、柊だけが帰ってきました。全身にひどい怪我を負っていて、師君は、詮議よりも手当てが先だと狭井君を突っぱねましたが、当の柊が、先に報告をしたいと申し出ました。それから、狭井君と、師君と、先代の女王陛下と、柊だけで謁見の間にこもり…、その日のうちに、触れが出されました。一ノ姫の失踪は、許されぬ思いを抱いた羽張彦が、唆したものだと」
「うそだわ」
「ええ…。俺もそう思いました」
 思い出の砂を、一つ一つ拾い上げるような口調で、風早はいった。
「でも、どれほど尋ねても、柊は何も答えなかった。忍人が、剣の切っ先を突きつけて脅しかけても、微笑むだけでした。そして、傷が癒えるのも待たずに、柊は姿を消した」
 そこまでいって、風早は深く息をついた。
 続きは聞かなくてもわかった。姿を消し、再び現れた柊は常世の軍師になっていた。だから、忍人はあんなに怒っていたのだろう。
「……姉様と、柊と、羽張彦さんは、黒い龍を倒しに行ったの…。常世の、禍日神を」
「やはり、そうでしたか…」
 千尋は、風早の服をきつく握り締めた。その一言をいうのに、ひどく力がいった。
「──── 姉様は…っ、龍を、倒すために…、命を捨てて…っ!」
「…千尋」
「姉様、死んじゃった…!!」
 絶対に生きていると思っていたわけじゃない。こんな、戦ばかり起きている状況だ。戦でなくても、病や、飢えることだってあるだろう。命を落としているかもしれないと、頭ではわかっていた。
 でも、同じくらい、生きているんじゃないかとも思っていた。生きていて欲しかった。逃げていて欲しかった。どこか遠い場所で、戦いに巻き込まれることなく、幸せに暮らしていて欲しかった。
 優しい姉だった。母親にも疎まれていた自分を、ためらいなく愛してくれる人だった。記憶のほとんどをなくしていても、体が覚えている。とても、とても、大切な人だった ────!
 生きていて欲しかった。いつか、帰ってきて欲しかった。帰ってこなくてもいいから、幸せであって欲しかった。だけどもう、どこにもいない。
 二度と帰ってくることはない。自分がどれほど泣き叫んでも。──── 柊が、どれほど苦しんでも。
「ねえ、さま、死んじゃって…っ、それ…で、ひいらっ、ぎ…が、じぶんを、責めて、て…っ」
 涙があふれ出る。拭うこともできずに、ただ風早の服にすがって泣いた。
 柊の前では、泣くわけにはいかなかった。告げられた真実と同じくらいに、彼の目の暗さが、心臓に突き刺さっていた。
(柊は、私に責めて欲しかったんだわ…!)
 姉が死んだのはあなたのせいだと、そういえばよかったのか?そういえば、柊は少しは救われたのだろうか。楽になれたのだろうか。
(ちがう!それは絶対にちがう…!)
 傷口を抉りたくなんかない。たとえ彼自身がそれを望んでいても、罰を望んでいても。
(あなたのせいじゃない…っ!)
 自分はただ悲しいだけだ。苦しいだけだ。姉が、もうどこにもいないことが、たまらなく寂しいだけだ。
 柊のせいだなんて思わない。
「ひいらぎも、すごく、傷ついてて…っ」
 流れる血が、見えるのだ。心から流れ落ちる血が見えるのだ。真紅の血溜まり浮かぶ、引き裂かれた心が見えるのだ。
 手当てもされず、乾くこともなく、真っ赤な血が流れ出ている。だから千尋は微笑んだ。姉の死がどれほど衝撃でも、柊の前では泣きたくなかった。微笑んでいたかった。
 少しでも、彼の涙をぬぐいたかった。滴り落ちる血に、手を当てたかった。
(私たちは、きっと、同じだから)
 お互いに、大切な人を亡くした。かけがえのない人を奪われた。
 それでも自分には風早がいたけれど、柊はどうだったのだろう。誰かいたのだろうか。それとも、ずっと、ひとりで ──── …?
「柊のせいじゃないの…っ」
「ええ。わかっています」
「でも、柊が、わかってくれないの…!」
 二人の死は自分のせいだと思っている。いや、もしかしたら、頭ではわかっているのかもしれない。物言いこそねじれているけれど、思慮深い人だ。自分のせいではないと、とうに理解していて、それでも自分を責めずにはいられないのかもしれない。
(そうしないと、もう、生きていけないから……?)
 頬を伝って落ちる雫が、風早の服を濡らすのを、千尋はじっと見ていた。自分に何ができるだろうと思った。
 なにも望まないあの人に、何ができるだろう。ありがとうさえ、心の深淵までは届かないあの人に。
「私は、柊に、何もできない…、かも知れない」
「そんなことはありませんよ!」
「ううん、わかってるの」
 小さく鼻をすすって、千尋は首を振った。
「何もできないかもしれない。言葉は簡単に、柊をすり抜けていってしまうから。何もできないかもしれない」
 そういって、千尋は顔を上げた。何もできないかもしれないと繰り返して、千尋は微笑んだ。
「でも、あきらめないわ」
「千尋……」
「あきらめない。そんなに簡単に、手を放してあげたりしないわ」

 誰もが姫と呼び、いずれ玉座に座る者として扱ってくれているけれど、そんな存在じゃないことは自分が一番よく知っている。姉が生きていれば、玉座を継ぐことはなかった。むしろ忌まわしい存在として、王宮の隅で生きていただろう。だから今でも、無償で与えられることには慣れない。綺麗な服も、高価な飾りも、見知らぬ人からの敬意も、本当はいつでも戸惑っている。
 でも、その代わり、戦うことを知っている。
 欲しいものがあるなら、頑張って、自分の手で掴み取らなくてはいけないのだ。何度傷ついても、何度悲しんでも、望みを叶えるために立ち上がる。そうして初めて何かを手に入れることができる。自分はいつだって、その繰り返しで生きてきた。
(あなたが何を諦めていても。あなた自身を諦めていても。私は諦めたくないの)
 拒絶されてもいい。百回叫んでも届かないなら、千回叫べばいい。得られないことには慣れている。でも、得られたものがどれほど尊いかも知っている。
 何もできないかもしれない。でも、何かできるかもしれない。その可能性がある限り、自分は諦めない。傷ついてもいい。それでも諦めたくない。
 柊の手を、放したくない。


 風早が、ぽんぽんと千尋の頭を撫でた。
「さすがは俺の姫です」
 優しい顔でいわれて、千尋はくすりと笑った。みんなに親バカといわれても、風早は一向に改める気はないらしい。
「柊は、たぶん、墓まで真相を持っていくつもりだったんでしょう。俺や忍人にも沈黙を貫いてましたからね。俺がそうではないかと思ったのは、一ノ姫が行方不明になってしばらくしてからで…、それも、色々な噂を総合してのことでしたから、確証はなかったんです。今までなら、彼らは、常世との戦が始まるまでは中つ国にいたはずだった…」
「今まで?」
 首をかしげると、風早はあいまいに微笑んで首を振った。
「いえ…。柊は、ああ見えて頑固ですからね。この先もずっと、嘘を貫くだろうと思っていましたが ─── 、千尋には話した。昔の柊だったら考えられないことですよ?」
「昔から、ああだったの?」
「それはもう。秘密主義もいいところで、言わないと決めたことは、拷問にかけられても口を割らないだろう男でしたね。…いいことですよ。柊は、少しずつ、あなたに嘘をつけなくなっている」
 優しさの中に真摯な色を隠して、風早は言葉を重ねた。
「いいことです。嘘がつけない相手ができるというのは」
「…うん」
 うなずいて、千尋は涙に濡れた頬をぬぐった。
 明日には、また、笑えるだろうと思った。微笑みかけたいと願う限り、自分は、彼に、剣ではなく花束を差し出すことができるだろう。


 たとえ柊が、罰を望んでいても。
 罪の茨にがんじがらめになって、諦めに目を閉ざしていても。
 私は彼の血を拭うことから始める。
 一度で、ひと言で、望みを叶えるほどの力は持っていないから。
 私は何度でも柊の元へ歩いていこう。
 いつかあの人が、光を取り戻して微笑む、その日まで。








 -end-