満月がさんさんと空に輝く真夜中に、柊はふと眼を覚ました。
 光を残す片目を開いて、ぼんやりと室内を探る。腕の中には、唯一の姫の温かな体があった。眠りを妨げないよう静かに体を起して、柊は、先ほどよりはしっかりとした意識で、もう一度周囲を探った。
(なんだ……?)
 喉の渇きを覚えて目を覚ましたわけではない。何かが自分の意識をひっかいた。
 柊は音もなく床に降りると、手早く着替えて部屋を出た。夜の波のように低く淀みない詠唱を終えて、先ほどよりも厳重な結界を部屋に施す。
 静かな眠りについた宿を抜け出し、月明かりのもとを歩き出した柊は、数歩の内に足を止めた。
「……なぜ」
 べとついた喉から絞り出した声は、絶望の響きを孕んでいた。
「なぜ、君がここにいるのです…、風早」
 満月の光を受けて、青年は穏やかにたたずんでいた。



この美しき世界



 二ノ姫を愛し、慈しんできた青年が人でないことなど、柊は初めから知っていた。
 彼は獣の神だ。白き龍に仕える聖なる存在。いくら二ノ姫を愛し導こうとも、風早の真の主は姫ではない。だから柊はいつも、主に忠誠を誓ってきた。私こそが、あなたのもっとも忠実なしもべです、と。
 とはいえ、風早が姫に注ぐ愛情を疑ったことも、また、なかった。彼の想いは真実だ。真実だと信じきれる程度には、自分と彼は友人だっただろう。黒き龍との戦いで風早が助力してくれたことには驚いたが、姫を守りたいのだと思えば納得もできた。
 そして、戦いが終わった後には、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。
 自分が既定伝承に縛られていたように、風早もまた己の役割に縛られている。彼が二ノ姫に仕えたのは白き龍がそう命じたからだ。逆にいえば、白き龍が命じなければ、神である彼が、ただの人である姫に仕えることは許されない。陳腐な物言いになるが、それこそ生きる世界が違う。白麒麟である風早には真に仕えるべき主があり、主の命令なくして別の者に仕えることは、白龍に対する明確な裏切りだ。
 そしてここは、既定伝承を破り捨てた世界。神に逆らい、運命の箱庭を捨てた、人の世界 ──── であるはずだ。神の手のひらから飛び降りた世界で、神の使いが、再び現れることなどありえない。そう思っていたのに。
 夜の風は、戯れのように空色の髪を揺らす。
 柊は、かすれた声で尋ねた。
「君がまだここにいるということは、運命を変えられたなどというのは、幻想にすぎなかったということでしょうか…、風早?」
 低く笑う。姫の手で一度は溶かされた心が、急速に凍りついていくようだった。
「星にも知らされていない既定伝承があるとはね…。ははっ…、神というのは、いったいどこまで傲慢になれば気が済むのか。それで、風早?この時空での姫の運命はどうなっているのです?あなたが現れた以上、星に隠す必要はないでしょう」
 憎むものかと思いながら、柊は冷ややかに嘲笑した。憎むものか、憎むものか。たとえこの一日が、神の見せた残酷な夢であったとしても、主の心に偽りはない。自分にとっては、それだけが真実だ。
 真白き神よ。知らないのだろう。この身を救ったのは、姫のもたらした勝利ではない。あの方の心だ。この命を望んでくださった、あの方の涙だ。
 残酷な巡りが続いているのだとしても、この心一つ、神のためになど動かしてやるものか。この身はただ一人の主のためにあるのだから。
 風早は、穏やかにいった。
「あなた自身の未来を尋ねようとは、思わないんですか」
「私の未来、ねえ。君がそう聞くということは、私はまた死ぬわけですか。まあ、どうでもいいですね。死ぬ未来など、物心ついたころから見ているのでね、見飽きています」
「そうやって、悪いほうに決めつけるのは、あなたの良くない癖だと思いますよ、柊」
 教師のように諭してくる風早を、柊は蔑むように見つめた。
「あまり愚かなことをいわないでくれますか、風早。決めつけるも何も、運命はすでに決まっている」
 そういうと、初めて風早の表情が動いた。普段とは違う、冷たい微笑を浮かべる。
「いいえ。ここは確かに、人の世界ですよ」
「……どういうことです」
「──── 本当はね、助けに行ったわけじゃなかったんです。時空を越えることができるのは、獣と星だけです。神子には許されていない。神子は必ず王にならなければいけない。なぜなら、白龍が何度も同じ歴史を繰り返して、違う結果を見たいと望んでいるのは、神子が王となることを前提とした世界だから」
 それは柊も理解していた。数多の既定伝承を読み解けば、おのずと導き出されることだった。
 白き龍は、その手のうちに世界を閉じ込めて、何度も同じやり方で人を試している。まるで卓上の遊戯のようだった。同じ駒を使い、同じ戦略を用いて、違う結果が出るのを待っている。
 だから必ず黒き龍は復活し、必ず一ノ姫は死に、必ず中つ国は滅び、そして必ず二ノ姫は王となる。どれほど瑣末なことを変えようと、また変えることができようと、そこだけは決して変わらない。そして、役目を終えた星は、必ず地に落ちる。
「なのに、千尋は時空を超えてしまった。あなたの命を惜しんで、全てを捨ててしまった。これは白龍の望みに逆らうことです。千尋はあの時空で、あなたを亡くしても王にならなくてはいけなかったのに。千尋が王にならなくては、白龍の望む結果は得られない」
「知ったことか、という気分ですがね」
 冷やかに挑発すれば、風早の唇は、ゆるく笑みを描いた。
「そうでしょうね。でも神からすれば、人の恋心こそ、知ったことではないんですよ。だから白龍は俺に命じたんです。神の手から逃れ、逆らった神子は不要であると」
 風早が言葉を紡ぎ終えるより早く、柊は峨嵋刺を構えた。一瞬の内に、神経の隅から隅までが覚醒し、敵に備える。息を整え、術を構成し、間合いをはかった。
(勝てるか ──── っ!?)
 全身が総毛立つ。自問の答えは瞬時に出た。だが、そんな答えを受け入れるわけにはいかない。
 常世の大軍が押し寄せてきても、これほどの脅威は感じないだろう。人ならば、策一つで操ることもできる。だが、相手は神だ。息が乱れるのを必死で抑えた。冷静さを欠いて勝利できる相手ではない。
 けれど指が震える。自身の死などよりはるかに恐ろしかった。自分が死ぬことはいい。それは耐えられる。だが姫が、あの優しい人が、失われることだけは耐えられない。
「俺と戦うつもりですか」
「ええ。君が、風早ではなく、白麒麟であるというなら」
 穏やかに微笑む青年は、月の光との境目をなくしたように、ゆらゆらと輝いて見えた。柊は、かつてないほど暴れる心臓を、必死に抑えつけた。どうすればいい。どんな手がある。取引できるものはないのか。せめて姫だけは。無事に逃がすためにはどうすればいい。抜け道はないのか。
 相手は神だ。星の一族が、長きにわたって戦い続け、そして敗北し続けてきた相手。
 ──── それでも、何を犠牲にしようと、あの方だけは失えない。
 今なら、声を封じた月読の気持ちが痛いほどわかる。姫を失えば、星もまた闇に落ちるだろう。空に輝く数多の星々は、永遠に世界を呪い続ける。
「あなた一人では、俺には勝てませんよ、柊」
 青年の示唆するところを理解して、柊は眼差しをいっそう凍てつかせた。
「さて。それは、やってみなくてはわからないでしょう」
 平然と嘘をついて、柊は神と対峙した。本当は分かっている。ただの人である自分では、神を倒すことはできない。青年の言う通り、それができるのは、運命の神子である主ただ一人だ。けれど。
「我が君を、君と戦わせるわけにはいきません。今の君が、ただの神にすぎず、人の心など持ち合わせていないのだとしても、姫には大切な思い出が残っている。君と違ってね、姫は優しいのですよ。よりにもよって君が自分を殺しに来たと知ったら、悲しみに心を引き裂かれてしまわれる。今の君を、姫に合わせることは、たとえ全ての星を闇に落としてでも許しません」
 誓いを立てて、柊は心の中で主に囁いた。
(申し訳ございません、我が君)
 あなたを独りにすることよりも、あなたを失うことのほうが恐ろしい。
「……死ぬつもりですか」
「安いものでしょう。──── 刺し違えても、君をこの先へは行かせませんよ、風早」
 頬をなでる夜風は、花の香りをまとっている。満月はきらきらと輝き、草木はささやくように揺れる。
(この世のすべてが、あなたに幸いを与えるように、祈っております)
 星が落ちても、この美しい世界が、きっとあなたを優しく包むだろう。
 術を動かそうとした瞬間、風早の顔から微笑みが消えた。

「あなたは、相変わらず、変なところで愚かですね。俺と刺し違えてどうするんですか。まったく、千尋が何のために時空を超えたと思っているんです。頭が悪いんじゃないですか」

「……元凶に言われたくありませんね」
「目を離したすきに、俺の姫と一つの寝台で寝ていたりするんだから、このくらい言わないと気が済みません。…まあ、でも、千尋を守ろうとする姿勢だけは、ほんのちょっとだけ認めてあげますよ」
 はーっと首を振る風早に、柊の頬がはっきりとひきつった。
「君に認めてもらう必要を感じませんね、風早。なにが俺の姫ですか。姫を害そうとする分際で」
「嘘ですよ」
「──── ……今なんと?」
 白麒麟もとい風早は、なぜか誇らしそうに胸を張った。
「嘘です。俺が千尋を傷つけるはずがないじゃないですか。そんなこともわからないようじゃ、俺の姫との交際は認められませんね」
 ひゅるるると生温い風が吹いた、ような気がした。
 柊は思わず峨嵋刺を取り落としそうになって、空いた手で額を抑えた。
「……なら、なぜ君がここにいるんです」
「白龍に命じられたのは本当なんですけどね。そんな命令を聞けるわけがないので」
 風早は、楽しそうに柊を見た。
「わかりませんか?あなたなら、わかると思ったんですけどね」
 なんのことかと眉をひそめて、ふいに気づいた。
 目の前にたたずむ青年からは、あるはずの星の巡りが消えていた。
「まさか…!」
「ああ、やっぱり、わかりますか?ええ、今の俺は人間です。もう白麒麟ではない。あなたがもう少し冷静だったら、はじめから気づいていたと思うんですけどねえ」
 やれやれと嬉しそうにいう友人に、柊は本気で暗器を投げつけたくなった。指先がウズウズするのを我慢して、つかつかと歩み寄る。いつでも喉を切り裂ける距離まで来てから、柊は口を開いた。
「どういうことです」
「白龍と喧嘩して、首になりました。千尋を助けて戻ったら、すごく怒ってましてね。二度と帰ってくるなといわれたので、じゃあ退職金代わりに人間にしてくれと頼み込んだんですよ」
 あははと、風早が軽く笑う。柊はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。なにが退職金だ。そんな理由で白麒麟を人間にするなんて、白龍は何を考えているのか。いや、頼むほうも頼むほうだ。頭が春めいているにもほどがある。
「では、先ほどまでの戯言は、いったい何事ですか…」
「それは…、俺が少し目を離したすきに、俺の姫に手を出してるから…。ちょっとした、嫌がらせです」
 語尾にハートマークが付いていそうなほど朗らかな笑顔で、友人がいう。
 柊はそれはそれは優しく笑って、術を唱えた。



「いきなり何するんですか!俺はもう白麒麟じゃないんですよ!死んだらどうするんです」
「そこら辺に墓を造って木の枝でも刺しておいてあげますから、おとなしく逝きなさい」
「俺が死んだら千尋が悲しむでしょう!」
「私が慰めて差し上げますよ!」
「冗談じゃないです!あなたなんかに慰めさせたら、不届きな真似をするにきまってます!」
「君のちっとも笑えない冗談以上に、不届きな真似が存在するとは思えませんね!なにが『死ぬ気ですか』だ!人間になったのならちょうどいい、今ここで私があなたを葬ってあげますよ!」
「俺だっていろいろ大変だったんです!やっとの思いで白龍を説得して、人間になって、ようやく千尋に会いに来たら、千尋と一つの寝台にあなたが…!俺がどれほど衝撃を受けたと思ってるんですか!俺の許可も得ずに姫に触れるなんて…!」
「いつから姫に触れるのに君の許可が必要になったんです!」
「生まれた時からですよ!俺の許しなく姫に触れるものには、制裁を…!」
「ふ、ふふっ、やれるものならやってごらんなさい…!」



 そうして。
 星の一族と元白麒麟の、非常にくだらない争いは、千尋が目を覚ます十秒前まで続いたという。
 後に星の一族の間では、『神子のため麒麟と死闘を繰り広げた』という伝説になるが、その原因が『神子と一つの寝台で寝ていたから』などというしょうもない理由であることは、誰にも知られていない。






 -end-