「あぁ、お帰り」
部屋に入るなりいわれた言葉に、柊は一瞬、言葉を失った。
世界はいまだ美しい
天鳥船内の岩長姫の部屋は、かつて通っていた彼女の屋敷の中と、そう代わり映えしなかった。一言でいうなら豪快だ。部屋の主の性格をよく表している。
剣が、腰に纏うもののほかにも、寝台の隣や、壁にかかる形で置いてあった。部屋の中央には、師が持ち込んだとは到底思えない、よく磨かれた卓があり──── 道臣辺りが持ってきたのかもしれない────数枚の書類が判を待っているようだった。
可愛らしい敷布や、美しい造花などはどこにも見当たらない。師君の部屋の装飾品にして、剣より卓よりでんと幅をきかせているのは、あの頃と変わらない酒瓶の数々だ。
その部屋で柊は、自分がまるで酒瓶の一つになったような気持ちで、立ち尽くしていた。ひょっとして、私は師君の所有する酒瓶の一つで、いま酒蔵から戻ってきたところなのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが頭をよぎって、柊は打ち払うように口を開いた。
「…師君、私はつい先日まで、土雷のもとに身を寄せておりましたが」
「知ってるよ。当たり前だろう、あんたがずっと国見砦にいたんなら、お帰りなんていいやしないさ。なんだい、ボケ老人扱いしようってのかい?いい度胸じゃないか、柊」
「ボケ老人だなどとは、めっそうもない。師君の溌剌たるお姿は、豊葦原のみならず、常世の国にまで広く伝わっておりましょう。ですが…、いささか不思議でしたので」
振り向いた師に、柊は含みのある微笑を向けた。
「お帰り、とは、裏切り者に対して使う挨拶でしたでしょうか」
自分の笑みが、言葉が、どれほど不信を抱かせるか、柊は熟知していた。
けれど岩長姫は、眉一つ動かさずに、逆に柊に向かって尋ねた。
「裏切り者が、どこにいるんだい」
「師君の目の前に」
「見えないね。あんたが内からレヴァンタを抑えてくれたおかげで、国見砦は落とされずにすんだ。あのイノシシ頭が、むやみやたらと兵を出さずに、守りに重点を置いたのは、あんたがそう仕向けたからだろう」
一度言葉を切って、岩長姫は深く頭を下げた。
「汚れ役を押し付けちまって、すまなかった」
大将軍を退いたとはいえ、いまだ多くの尊敬を集める人が、駒に過ぎない一兵に頭を下げる。潔い姿だった。
柊はただ、声が震えないよう祈った。
「師君が、それほど私を買い被って下さっていたとは、存じませんでした。まるで美しい夢物語を聞いたような心地です。ですが残念ながら、私は私の利のために行動したに過ぎません。どうかそのような御伽噺は、師君の夢のうちに留めて置かれますよう。万が一にも、お優しい姫が信じてしまわれたら、大変ですから」
「柊。千尋は、そんなに弱かないよ」
「存じております」
太刀のように切りつけてくる眼差しに、柊はうっそうと微笑んだ。知っている。神子はそれほどに弱くはない。弱いのは自分のほうだ。
この先、自分に未来がないことを知っていて、主の心に足跡を残すことなどできない。あの方の悲しみを想えば、とうてい耐え切れない。
「ですが、慈悲深い姫をあざむくとなれば、さすがの私も心が痛みます。忍人に知られでもしたら、今度こそ問答無用で切り捨てられることでしょう」
岩長姫は、やがて根負けしたように、首を振った。
「馬鹿だね、あんた」
「これは手厳しい。もっとも師君から見れば、私もまだまだ雛鳥のようなものでしょうが」
「ふん、雛だったら、首根っこ捕まえて、尻を蹴飛ばしてやってるところさ」
悪態をつくと、師は厳しい眼差しで続けた。
「覚えておきな、柊」
「はい」
「あんたが死んだら、千尋は泣くよ」
返す言葉はなかった。柊はただ微笑んで一礼し、部屋を辞した。
(あぁ、きっと、泣いてくださるだろう)
月を見上げて、ささやくように想う。
泣いてくれるだろう。姫はもちろん、岩長姫や、風早や、多分忍人も、泣いてくれるだろう。
(だからこそ、意味がある)
定められた世界。変えられない未来。それでも、彼らが生きているのなら。
力を尽くすことに、まだ、意味はあるだろう。
-end-