一人になるのを見計らっていたかのように、青年はかさりと足音を立てた。
「いやですねえ、忍人。黙って人の後を付け回すなど。姫の世界ではすとーかーと言うらしいですよ?」
「なぜ、何も言わない」
戯れの言葉に付き合う気は一切ないというように、現れた青年は厳しい表情を崩さない。柊はこれ見よがしなため息を一つ付いて、弟弟子に向き直った。
ただひとりの、あなたのための
周囲に人の気配がないことが幸いだ。もっとも、忍人もそれを待っていたのだろうが。
「勘違いするな。はじめから策を話せと言うつもりはない。軍をまとめるものとして、兵たちを疑われることは愉快ではないが、どこに敵の手の者が潜んでいるかわからないという配慮は理解できる。だから、事前に何も話さなかったことを、とやかく言う気は一切ない。そこはお前の領分だ」
「それはそれは…。不敗の葛城将軍にそういっていただけるとは、思っても見ませんでした。私もようやく、君の信頼を取り戻せたということでしょうか」
「だが、事前に何も話さないことと、事が終わってからも何も話さないことは、別だ」
柊は、はあっと深くため息をついた。どうやら弟弟子は、こちらの言葉には一切耳を貸さないことにしたらしい。それは全くもって正しい判断だ。付き合いが長いだけのことはある。
自分から真実を引き出そうと思ったら、自分の戯言になど一切取り合わないのが一番賢い。
もっとも、だからといって、真実を引き出せるとは限らないが。
「なぜ、何も言わない。この勝利はお前の功績だろう、柊。もう策を明かしてもいいはずだ。それともまだ、終わりではないのか?」
「いいえ?ムドガラ将軍との戦いは、我が君の勝利を持って幕引きです。それだけは保証しますよ」
「ならなぜ何も明かさない!」
「……なにを、苛立っているんですか、忍人」
ゆったりとした声で尋ねれば、青年は厳しい眼差しでこちらを見た。まったく、目をそらさずにいるのが苦痛なほど、まっすぐな瞳だ。
「貴様こそ、何をそんなに悠長に構えているんだ。自分の立場の危うさを理解していないのか。俺が散々裏切り者と呼んだことを忘れたのか。そう思っているのは、俺一人ではないんだぞ。狭井君も、決してお前をよく思っていない。なのになぜ、立てられる功績すら掴もうとしないんだ!」
「忍人……」
「今すぐ姫の元へ戻って、策を明かしてこい。常世最強の武将と戦って、一人の負傷者も出さずに勝利を得たのは、自分の手柄だといって見せろ。そうすれば、周りの目も少しは変わる。功績を積んでおけば、軍師が不要になった後でも、姫の傍に仕えることはできるだろう」
柊は笑った。笑わなければ、悲しみの波に飲み込まれてしまいそうだったので、できうる限り優しく笑った。
「残念ですが、忍人。私は何もしていませんよ。あくまで布都彦の夢に従ったまでのこと。この奇跡のような勝利は、すべて、龍の加護を得る我が君の成せる業です。私ごときの小賢しい策略が及ぶ範囲ではありません。大いなる神の導きによって、姫が勝利を得られた。素晴らしいことではありませんか」
きっと眦を吊り上げ、怒りの表情を見せた忍人に、柊は一発殴られるかなと思った。
けれど忍人は目を閉じた。目を閉じて、歯を食いしばり、何かを飲み込んだ。
「……本気か」
「ええ、もちろん」
「わかった。ならばこれ以上は、なにもいわん。……だが、覚えておけ。いつかお前がいなくなって、姫が泣いたら、俺はお前がどこにいようと必ず見つけ出して、破魂刀の錆にしてくれる」
「……心して、おきますよ」
「…でもねえ、忍人。素晴らしいことではありませんか」
弟弟子が去った後で、柊は一人空を見上げて、風に囁くようにいった。
素晴らしいことではないか。王となった主の傍に入られない自分が、王となった主のために役立てるなんて。
「私の功績なんて、いりませんよ」
最後まで傍にいることは、できないのだから。
もし、もしも、自分がずっと姫の傍にいられるとしたら、自分は何を踏み台にしてでも揺るぎない地位を築いて見せるだろう。忍人に言われるまでもない。使えるものはすべて使って、後ろ盾も何もない自分が、主の傍にいられるように手を尽くすだろう。
(だが、私の運命は、もうすぐ尽きる)
だから、不要なのだ、功績など。むしろ邪魔だ。そんなものを立ててしまった後で姫の元から消えたら、姫の名誉に傷がつくかもしれないではないか。『あれほどの功績を立てた者がいなくなるなど、姫に何か問題があったからでは』などといわれた日には、死んでも死に切れない。
火神岳で策を弄して見せたのは、あれが必要なことだったからだ。いずれ王となる主に、告げておかなければならなかった。大義というものの残酷さ、ひいては、国というものの残酷さを。それは決してすべてではないが、目を逸らすことの許されない側面だ。そしてそれを教えることは、忍人や風早にはできない。彼らは姫に王たる者の正道を教えるべきなのだから。こういう役目は、自分の領分と決まっている。
だが、今回は違う。今回は、策を明かす必要もなければ、そもそも自分の策であったことを知らしめる必要もない。常世の皇子はどうやら勘付いていたようだが、しょせん彼らは客分だ。わざわざ触れ回ることもないだろう。
この先、中つ国が復興した後には、この戦いはおそらくこう伝わる。『龍神の導きによって、女王陛下は、常世最強の武将相手に、一兵の負傷者を出すこともなく、勝利を収めて見せたのだ』と。
民はきっと、口々に女王陛下を称えるだろう。さすがは龍神の加護を得る神子王だと、誉めそやすだろう。真実などどうでもいい。自分にとって大事なことは、民が主を称え、それによって主に敵対しようとする者の力を削ぐことだ。
奇跡のような武勲は、姫を守る盾の一つになる。女王陛下への反逆を企てる者が現れても、王の持つ龍の加護を考えずにはいられまい。兵を挙げても、ムドガラ将軍の二の舞になるのではと、怯えずにはいられないだろう。
(素晴らしい。ええ、本当に、素晴らしいことです、我が君。今の私が、後のあなたのお役に立てるとは)
陶酔にも似た心地で、柊は微笑んだ。布都彦の夢に細工をしたのは、同じ白虎の加護を持つだけあって、彼の夢が一番入りやすかったからだが、いま考えれば布都彦で本当によかった。布都彦ならば、彼自身に巫の力があるなどと思う者はいないだろう。これがうっかり遠夜の夢に細工していたら、ややこしいことになってしまっていたところだった。
(すべてはあなたに良いように回っている。…ふふっ、本当は、私が策を弄する必要などないのかもしれませんね)
なにもしなくとも、姫は約束された玉座へ登るだろう。
それでも、何かせずにはいられない。手を尽くさずにいられない。
傍にいられるのは、今だけだとわかっているから。
(戦いが終われば、私はもう、あなたのために何もできない。敵を滅ぼすことも、その身を守ることも、風除けの一つになることすらできない。……あなたの笑顔を見つめることも、叶わなくなる)
ならばせめて今だけは。
あらゆる手を打ち、あらゆる困難からあなたを守らせてほしい。
そして願わくば今だけは。
星の一族でも、未来を知る者でも、やがて死ぬ定めの者でもなく。
あなたのための、軍師でいさせて欲しい。
願わくば、どうか、唯一のあなたのための、存在でいさせて欲しい。
-end-