それは、温かいコップを両手で包んで、千尋がほっと一息ついたときのこと。
同席していた布都彦が、しごく真面目な顔で口を開いた。
「陛下は、柊殿の素顔を見たことがおありですか?」
…同じく同席していた那岐が、和菓子を喉に詰まらせたのはいうまでもない。
幸福のありか
別に、秘め事を話すのに最適な真夜中、というわけではない。
普通に昼間だ。むしろ執務中だ。今はただの休憩時間で、たまたま書類を持ってきてくれた那岐と布都彦を、千尋が笑顔で引き止めて、強制的にお茶飲み会に参加させているだけだ。
(ででででも、えええええ、そういう意味なの!?どういう意味なの、布都彦!?)
艶っぽい話をするような時間帯ではないし、そもそも相手が布都彦だ。これが同じ白虎の加護を受ける者でも、もう片方の男だったらそういう意味に決まっているし、千尋としても習得したスルースキルを遺憾なく発揮することができる。
(でも布都彦だし!)
コップを握り締めて凍りついた千尋の前で、那岐がうんざりとした顔をした。
「なにそれ。なにが聞きたいわけ?」
「いや、それがな」
布都彦はやや口調を崩すと、那岐に向かって話し始めた。
「この前、岩長姫の屋敷で宴会があっただろう。あの晩、お屋敷の浴場をお借りしたのだが、たまたま柊殿と一緒になったんだ」
付け加えておくと、岩長姫の屋敷のお風呂はとても広い。千尋の最初の感想が、「わあ、銭湯みたい」だったくらいの広さだ。
「そのとき驚いたことに、柊殿は、始終眼帯をつけたままだったのだ、那岐。私とてじろじろ見ていたわけではないが、しかし、顔を洗うのにも頭を洗うのにも、一切外されなかったんだぞ!」
「あー…」
「目上の方にこのようなことを申し上げるのは失礼だろうと思うが、しかしあれでは、あの眼帯の下はいったいいつ洗われているのだ。不衛生ではないか!?」
ああ、なんだ、そういうことね。と、千尋は、ほっとしたような、困ったような、微妙な笑みを浮かべた。
「えーと、大丈夫よ、布都彦。眼帯の下も、その、たまには、洗ってるから」
「たまには!?ですが、陛下。それではやはり不衛生かと存じます。あの眼帯の下に傷跡がおありになるのでしたら、なおのこと清潔に保たなくては。いかに傷がふさがっていようと、目というのは人体の中でも特に弱い場所。傷跡が汚れれば、いずれもう片方の目にも影響が出るやも知れません」
「う、うん…。そうね、柊にもよく言っておくから」
だから大袈裟にしないでーという心の叫びもむなしく、布都彦はむっつりと黙り込んだ。
二、三年前までは弟みたいに可愛らしかったのに、最近の布都彦はすっかりミニ忍人さんだ。いや、柊や風早の冗談に慣れていない分、布都彦のほうが融通が利かなくて恐ろしい。
「わかりました…。陛下の前ですら、たまにしか外されないのであれば、私のほうから進言いたしましょう」
「えっ、布都彦!?」
「宰相殿のお考えは、私のような若輩者にはわかりかねますが…。あの方も、辛い過去を持たれる身です。傷跡を晒されることに、抵抗を感じられるのかもしれません」
それは買い被りじゃないかなーと、千尋は思った。
柊はああ見えて大雑把だ。特に自身の事に関しては、大雑把を超えてめんどくさがりである。忙しい時期なんかは、ほうっておけば執務室から三日は平気で出てこない。四日目に知らせを受けた千尋が扉を開けさせると、智謀の宰相殿はペンを握ったまま、机に突っ伏して熟睡していた。髪はぼさぼさで、額には本の跡ができていて、目の下には盛大な隈、頬は青白く唇はかさかさだった。そんな男に爽やかに「おはようございます、我が君。本日も麗しい」といわれたときには、千尋もなんでこんな人が好きなんだろうと何十回目かのため息をついたものだ。
そんな柊だから、外せるものなら、たぶん平気で、眼帯の下もがしゃがしゃ洗っている。
けれど布都彦の目は、恐ろしいほどに真剣だった。
「どうぞ、陛下。この布都彦にお任せください。必ずや、柊殿を説得してまいります」
「ちょ、ちょっと待って!」
「ご安心ください。私のような若輩者の言葉を、そう簡単に宰相殿がお聞き入れくださるとは思えませんが、この布都彦、諦めの悪さには自信がございます。かならずや成し遂げて見せましょう」
そんな自信は持たなくていいです。
というか、あなたはいつからそんな、タチの悪い目の輝かせ方をする大人に?誰の悪影響なの!?
そう、困惑のあまり言葉の出ない千尋の前で、布都彦は姿勢正しく立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。
お任せくださいという、頼もしいのだけど非常に困る言葉を残して。
「あーあ、張り切っちゃって」
「那岐…」
頭を抱えた千尋が、そっと見上げると、幼馴染は意地の悪い笑みを浮かべていた。
「たまには、洗ってるって?」
「う…、那岐…。やっぱり、わかってた?」
「当たり前だろ。あんなの一目でわかるさ。どうせ、遠夜も知ってるんだろ」
「うん…、何回か、診てもらったから」
そうと、気のない返事を返して、那岐は椅子の背にもたれかかった。
「僕はむしろ、千尋が知ってたことのほうが驚きだね。本人が話したの?」
「話したっていうか…。気づいて…、問い詰めちゃったの」
柊は、一度も眼帯を外さなかった。それこそ寝所の中でさえ、彼は隠した瞳を晒そうとはしなかった。だから、千尋はいつも、眼帯の上から口付けた。柊が過去の傷を晒したくないというなら、それでもよかった。強がりではなく、本当にかまわなかった。彼の、痛みや悲しみごと抱きしめたかった。
そうして、幾度目だっただろう。いつものように眼帯に口付けたときに、何かが引っかかった。それはたぶん、神子としての直感だったのだ。一粒の水滴が、凪いだ湖の上に波紋を広げていくように、かすかな引っかかりは、徐々に大きくなった。
そして数回の瞬きの後、千尋ははっきりと見てしまった。
眼帯と頭部を結びつけるように伸びている、透明な糸を。
そして、その糸に閉じ込められるようにしてうごめく、黒い穢れを。
「あれは、鬼道じゃなくて、呪いの一種なんだって」
「だろうね。僕はそっちは専門じゃないけど…、あの眼帯、中身は銀なんじゃない?まわりを布で覆ってあるだけで」
「うん…。柊の一族の人がね、作ってくれたんだって」
「どういう一族だよ…。確かに銀は、浄化の力の強い鉱物だけど、普通やらないだろ。呪いの糸で、銀と頭を、直接縫いつけてるようなものなんだよ?そうやって、自分の頭の中に結界を作ってる」
「無茶苦茶だよね、やっぱり」
「無謀だね。普通やらないよ」
断言されて、千尋は小さくうつむいた。
柊の眼帯は外さないのではない。外れないのだ。
彼は、かつて黒龍と戦ったときに、強い穢れを受けた。一つは目に、一つは全身に、傷とともに刻まれた穢れは、柊の命を奪うには十分すぎるものだった。
─── けれど私には、すべきことがあったので。命を落とすわけにはいかなかったのです。
問い詰めたときに、柊はそういって微笑んだ。ああいう時のあの人の微笑みは、本当に悲しい。ほかに方法はなかったのと言い募れば、柊はそっと目を伏せた。
─── あったかもしれません。いえ、きっと、探せばあったのでしょう。ですが私は、あと少し生きられればいいと思っていたので、一番手っ取り早い方法を選んだのです。
自分の事に関しては、いやになるほど大雑把な人だ。そんなところでめんどくさがりになっちゃ駄目なのに。駄目だって、いつもいつも言っているのに。
終わりを見ていた彼は、神による穢れを清めるという難問を解くよりも、簡単な答えを選んだ。銀を触媒にして呪いを施し、自身の頭の中に結界を作り上げ、穢れを封じた。体に受けた穢れは、目のそれよりは弱いものであったから、呪いを縫い付けた服を常に纏うことで、体内に閉じ込めた。
そうすれば、数年は持つと柊は知っていた。成すべきことを成し遂げるまで、穢れを外に出すことも、誰かに気づかせることもなく、自分の内に留めておけると知っていた。
たとえ、内に留めた穢れによって、体中の器官が、ゆっくりと死んでいこうとも。
千尋が玉座に登るときまで持てばいいと、彼は思ったのだ。
「でも、穢れはほとんど浄化されてる。千尋のおかげだね」
「柊もそういってくれたけど、私は何にもしてないよ。なにも、できてない」
「やけに弱気じゃないか。…バカだな、千尋は。鬼道使いでも土蜘蛛でもない千尋が、あんなのをどうこうできる訳ないだろ。誰もそんなの期待してないよ。千尋にできることなんて、せいぜい、あのオッサンに生きる気力を持たせることくらいだろ」
千尋は思わず顔を上げて、幼馴染を見つめた。
「なに間の抜けた顔をしてるのさ。実際、千尋にできることなんて、そのくらいだろ。…でも、ああいう駄目な大人には、それが一番大事なんじゃない。それに、あの手の穢れは、本体が消えればそう長くは残らないんだよ。あとは本人の生命力次第だね。あんな結界があるんじゃ、外から浄化することもできないし」
「うん…、それは遠夜も言ってた。本体がいないから、わずかに残っている穢れも、そのうち消えるだろうって。だから、最近はね、柊も普通の服を着てるのよ。呪いが施してない、普通の服を」
「あー、だからあのオッサン、最近やけにラフな格好なのか。一国の宰相があれでいいワケ?」
「う…、だって、あれが楽でいいって言い張るんだもの」
「ダサいっていってやれば?一発で着替えると思うけど」
「そんなにダサくはないじゃない!」
ついつい声を大きくすると、那岐は白けた顔でこちらを見た。
「なにそれ、ノロケ?僕はノロケを聞かされてるの?」
「違うよ!そうじゃなくて…。服はね、着なければいいけど、あの眼帯は…」
「外せないね。千尋も、外そうなんて考えないほうがいい。あんな無茶なやり方で、うまくいってる事が奇跡なんだ。下手に手を出して均衡を崩せば、どうなるか僕にもわからない。左目も失うか、下手したら死ぬかもしれない」
「やっぱり、そうなんだ…」
千尋が小さく肩を落とすと、那岐は「ただね、」と続けた。
「あの結界が残っていても、悪影響はないと思う。まあ、先のことははっきりとは言えないけどさ。あれは穢れを留め隠すための糸だから、人体に影響を及ぼすものじゃない。…たぶんね」
どこか皮肉気で、でもそれ以上に優しい笑みでそういった那岐に、千尋は思わず抱きついた。
「うわ!ちょっと、千尋!なにしてるのさ!」
「ありがとう、那岐!大好き!」
「うーわー、やめてくれない。僕まだ死にたくないんだけど。この若さで暗殺とかされたくないし」
がしっと肩を掴まれて、押しのけられた千尋は、それでも満面の笑みでお礼をいう。すると那岐は、非常に意地の悪い顔で、千尋に囁いた。
「でもいいの、千尋。ああいう駄目な大人は、穢れが消えた途端に、これまでのことなんか忘れてどこかの美人と逃げ出すかもよ?千尋より色気があって、千尋より大人な美女とさ」
「那岐…、ひとの胸を見ながらそういうこというの、やめてよね。セクハラで訴えるよ!」
「ふん、誰に訴えるのさ」
「風早」
「ごめん」
即座に謝った幼馴染に、千尋は思わず吹き出した。
そして、くすくすと笑いながらいった。
「もしね。もしも、柊がほかの人を好きになるとしても、私は穢れが消えて欲しいの」
「……損な性分だね」
「そうかな?そんなことないと思う」
思い出すのはいつだって、あの時空を越えた瞬間だ。
すべてと引き換えにしても、彼に生きていて欲しいと願った。もしもこの先、柊がほかの人を愛することがあっても、傍から消えてしまうことがあっても、何があったとしても。
あの時に戻れば、自分は、何度でも同じ選択をするだろう。
「柊が生きていてくれればいいの。それだけで、いいの」
傍にいて欲しい。でもそれ以上に、生きていて欲しい。あの人の命と引き換えになるなら、自分の幸福だって喜んで差し出そう。
「生きていてくれれば、いいの」
そういった直後に聞こえてきたため息は、なぜか前からではなく、後ろからだった。後ろには、誰もいないはずなのに。
「──── 我が君、あいにく私のほうは、それだけでは満足できません」
「柊!?どうして、ここに!?」
「どうしてとは、寂しいお言葉ですね。明日の御前会議の資料をお届けに参りますと、お約束していたはずですが…、お忘れですか?」
「忘れてないよ!忘れてないけど…、柊。どこから聞いてたの…?」
ごくりと喉を鳴らして尋ねた千尋に、顔立ちだけは優しげな宰相は、にっこりと微笑んだ。
「布都彦が、不衛生ではないかと叫んだ辺りからです」
「最初からじゃないの!!信じられない、どうしてそういう事をするのよ!」
「じゃ、僕はこれで」
すばやく立ち上がった幼馴染の腕に、千尋は思わず縋りついた。
「待って、那岐!行かないで!」
「冗談だろ。僕を痴話喧嘩に巻き込む気?」
那岐は冷ややかに千尋を見下ろすと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「我が君は、本当に欲が薄くていらっしゃる」
「そ、そうかな…。前に欲張りだって、あなたに言われた気がするんだけど…」
じりじりと近づいてくる柊に、千尋はじりじりと後ずさった。けれど悲しいことに、千尋が愛用しているこの執務室は、そんなに広くはなく──── 気が付けば、後ろはもう本棚だった。
「我が君」
うっとりと囁くような声音は、本当にやめて欲しい。そういうのは夜だけで十分です。千尋はいつもそういっているのに、この男が聞いてくれたためしはない。
「私を失ってもよいと、本当にお思いですか?」
光なんか、もう見えない。柊の作り出した影に、全身を覆われてしまった。手の上に、大きな手を重ねられれば、自由さえ簡単に奪われる。
「柊が、生きていてくれるなら、それでもいい」
からからに干上がった喉から声を絞り出せば、男はぞっとするような笑みを浮かべた。
「私は、いやです」
「柊?」
「あなたが、私なしでも生きられるなど、私には耐えられません」
「なに…、いって…」
耳元で囁かれる声に、全身が震えた。押しのけたいのに、柊の手はびくともしない。
「前に申し上げましたでしょう?私は欲張りなのですよ。そして、私を欲張りにしたのはあなただ。忘れ去ったはずの欲を、この身に取り戻させたのは、あなたです、我が君。責任は取っていただかないと」
「せ、責任って…」
「私なしでは、いっときも生きられぬと、おっしゃってください。昼も夜も、この柊がお傍にいなくては、とても耐えられないとおっしゃってください。永遠に傍を離れぬように、命じてください。どうか、私なしでも生きられるなどと、戯言を申されませんよう。あなたは、私を手に入れるために、すべてを捨てられた。そうでしょう、我が君?」
「そうだけど、そうじゃなくて…!私は、あなたの命を…!」
言い募ろうとする千尋の唇を、柊の指がそっとなぞった。それだけで、言葉の続きが出てこなくなる。
「おっしゃってください、我が君。私がいなくては、生きられぬと。私の命さえあればよいなどと、悲しいことを口にされてはいけません。私は、今ではもう、あなたの命だけでは到底満足できないというのに。あなたのなにもかもを望んでいる男に、命があればよいなどと、おっしゃられますな」
「柊……。私は…」
「どうか、我が君。おっしゃってください」
その声の奥に潜む真摯さを感じて、千尋はそっと目を閉じた。
生きていてくれればいい。それは本当だ。嘘は言えない。嘘をついても、きっとこの人は見抜いてしまうから。
だから、一つだけ、絶対に本当のことを伝えよう。
「あなたが生きていてくれれば、私は生きていける。でも、あなたが傍にいてくれれば、私はいつだって幸せに生きていける。……だから、傍にいて」
そういうと、柊は、わずかに眉を下げて微笑んだ。
「困ったお方だ。私の当面の目標は、我が君から、もっと我侭な言葉を頂くことになりそうですね」
「……そんなのが柊の目標なの?」
「ええ。人生の目標です。もっとも大切なことでしょう?」
しれっとした顔で言い切る恋人に、千尋はくすくすと笑った。
本当に、本当に。
何度あの時に戻っても、何を引き換えにすることになっても、私はあなたの命を選ぶから。
あなたが生きていてくれれば、それでいいの。
でも、あなたが傍にいてくれるなら。
私の心は、どんなときでも、温かくいられるでしょう。
それは、本当に、本当に。
数日後、布都彦に追い掛け回されることにうんざりした柊が、嘘八百を並び立てて、布都彦が真っ青な顔で千尋の執務室に駆け込んでくることになるのだが、それはまた別の、穏やかな日のお話。
-end-