無駄に重たい宰相の執務室の扉を、千尋は渾身の力で叩き開けた。
「柊―!!!」
「おや、どうなさいました、我が君。そのように息を切らせられて」
「どうなさいましたじゃありません、柊!!なんですか、コレはー!」
息を整える間も惜しんで、千尋がぐいっとそれを男の目の前に突き付ける。
柊は、涼やかな眼差しで答えた。
「わら人形でございますね」
大型犬のワルツ
わら人形を握りしめた腕を、ふるふると震わせて、千尋は柊を睨みつけた。
「宰相…、あなたはこれを、葛城将軍の自室に置きましたね?自室だけでなく、軍の隊舎にも、王宮の執務室にも、あげく葛城将軍の鎧の中にまで置きましたね!?どういうつもりなんですか!?」
ばんと重厚な机を叩きつけると、宰相は羽ペンを置いて、にっこりと微笑んだ。
「恐れながら申し上げますと、陛下。私はこれでも、公私の区別はつけているつもりでございます。それゆえ、今この場で陛下の問いに答えることはできかねます」
つまり、わら人形を贈ったのは、宰相としての柊ではないと言いたいらしい。千尋は半眼のまま尋ねた。
「……宰相が将軍に嫌がらせをしているわけではないと?」
「ええ、もちろんです」
にっこりと言い切られて、少し気を持ち直した千尋だったが、すぐに気がついた。問題は何も解決していない。
「じゃあ、ただの柊に、ただの私が聞くわよ?これはどういうつもりなの!!」
「呪いです」
「はっ…?」
あっさりと返された言葉に、思考がついていけない。いま、この見た目だけは良い恋人はなんと言ったのだろう。のろいとまじない、字は同じだけど、意味は全然違うのに。そして今、柊ははっきりと。
「のろいって言った…?」
「ええ、我が君」
千尋は沈黙した。口を閉ざして、目の前で穏やかに笑う恋人をじーっと見つめた。けれどいくら見つめても、男の口から否定の言葉は出てこない。
「柊…、忍人さんと、喧嘩でもしたの…?」
「まさか。我が君、そのようなご心配は無用にございます。忍人の手の内ならよく知っておりますから、喧嘩になどなろうはずもございません」
「ならなんで呪うのよおおおー!!!」
千尋は絶叫した。前々から何を考えてるのかよくわからないというか、風早とは違う方向に一本ずれている人だとは思っていたけれど、まさか仲間に呪いをかけちゃうよーなずれっぷりだったとは!
千尋は柊の前に回り込むと、がしっとその硬い肩をつかんだ。
「やめて!柊が呪うと冗談にならないから!本当に忍人さんがお腹痛くなったり、熱出しちゃったりしそうだからやめて!」
「どうかご安心を、我が君。仕事に支障の出ない程度に抑えてありますゆえ」
「安心できないからー!!なにそれ、なにをやってるのよー!!何があったの!?忍人さんに無理やり剣の稽古をつけられて、そのあげくボロボロに負けちゃったりしたの!?」
「我が君…、私をどういう目で見ておられるのですか。いくら剣の勝負でも、忍人に惨敗するほど私は弱くありません」
拗ねたように顔をそむける柊の頬を両手ではさんで、千尋はぐいと自分のほうに向かせた。
「なら、教えて。なにがあったの?」
冗談と本気のラインをあやふやにするのは、柊の悪い癖だと思う。
もっとも、それを風早にいったら、『うーん、でも、忍人みたいに率直な言い方をする柊なんて、想像つかないでしょう?』と宥められた。確かに、柊が忍人さんみたいな話し方になったら、まず病気を疑うだろう。
(なら、私は何度でもあなたに聞くわ、柊。あなたが誤魔化すたびに、そっとあなたを見上げて、あなたに本当のことを尋ねる。あなたは、本当はとても、嘘が下手だから)
柊が柊自身に嘘をついて見せたときでも、千尋を騙すことはできない。それを千尋は良く知っているし、たぶん、柊も知っている。
じっと見つめ続けると、柊はとうとう、小さくため息をついた。
「我が君…」
「なあに?」
まるで冬の訪れを告げる冷たい風のように、眼差しを切なく翳らせて、柊はいった。
「忍人が、あなたが水浴びされているところを、目撃したそうですね」
水浴び…?と首をひねった千尋は、次の瞬間耳まで赤くなった。
思い出したのだ。こちらも時空でもやってしまった、忍人との出会いのことを。
「えええ!?な、なんでそれを…!!誰から聞いたの!?」
「先日の酒宴のときに、忍人が珍しく酔い潰れまして…」
「酔い潰したんでしょう」
即座に訂正して睨みつけると、宰相は嬉しそうに笑った。
「さすがは我が君、ご慧眼でいらっしゃる。…その時に忍人が言っていたのですよ。あなたに申し訳ないことをしたと」
「あ、一応、悪かったとは思ってくれてたんだ…」
前の時空のときとまったく同じ態度だったので、別に腹は立たなかったけれど、すまなく思ってくれていたのだとわかればやはり嬉しい。完全にスルーだと、なんというか、私の裸はその辺の葉っぱと同じですか!?と問い詰めたくなるものだ。
「まあ、あれは、私のほうも不用心だったし。忍人さんに、気にしないでくださいって伝えてくれる?…ってあれ、柊?あなた、まさか、そんな理由で…!?」
「気にせずになどいられようはずがございません、我が君!私でさえあなたが水浴びされているところを拝見したことなどないというのに…!」
「当たり前でしょう!」
「忍人め…!!!」
冷たい笑みを刻んだまま、左目だけが怒りのあまりドス黒い輝きを放っている。千尋は本気で頭が痛くなった。
「あれは事故なの!たまたまなの!!そんな理由で忍人さんに呪いをかけるなんて、最低よ、柊!見損なったわ!」
「それはあまりなお言葉です、我が君。忍人はあなたの水浴びのさなかに足を踏み入れたのですよ?朝日を受けて、さんさんと輝く姫の濡れた髪。その髪から滴り落ちた雫が、あなたの絹よりもなめらかな肌を伝い、滴り落ちていく。首筋を伝い、鎖骨を伝い、ついには…」
「やめてえええ!!どうしてそういう変な言い方をするのよ!?普通に裸を見たとか言ってくれたほうがまだマシなのに!!それに一瞬よ、一瞬!忍人さんがじろじろ見たりするわけないじゃない!」
はっきりいって、そういう意味では、柊なんかより忍人のほうが断然信頼が置ける。
「だから大した事じゃないの!」
「では、我が君…。今日これから、私とともに水浴びに行ってくださいますか?」
「絶対いや」
期待に満ちた眼差しを、千尋は即座に押し返した。そんなの考えるまでもなくお断りだ。というか、どこからそういう発想が出てくるのだろう、この男は。
「行ってくださるなら、この山積みの書類を、昼までにすべて片づけるとお約束します。もちろんわら人形も処分いたしましょう」
「行きません」
「姫のお望みの甘味もお付けいたしますよ?」
「えっ……って、違う!行かないったら行かないの!だいたいそんな取引みたいなことを言わないで、書類はちゃんと片付けなさい!道臣さんが泣いてるんだからね!」
柊はその気になれば大臣十人分の仕事を軽くこなす男だが、いかんせん、なかなかその気にならない男でもある。さぼっているわけではなく、宰相としての務めは十分に果たしているのだけれど、岩長姫いわく「あれは三割しか頭を使ってないね」ということらしい。それでも忙しい時期には柊を本気にさせなくてはならなくて、そのたびに千尋は、この悪魔の尻尾が生えた恋人に、甘いご褒美を約束するはめになっている。
けれど今回は、自分から罠に飛び込んでいく必要はない。千尋が悪魔じみた誘惑を何とか振り切ると、柊はとても悲しそうな顔をした。
「ああ、やはり忍人が憎い…!」
「まだ言うの!?だいたい私の裸なんて…!その…、ほら…、みみみ見てるでしょ!」
非常に言いにくいことを、必死でいう。すると柊は、ふっと微笑んだ。
「ええ、姫。姫の麗しいお姿は、いつでも私の心を照らしております。瞼の裏にも鮮やかに刻まれて、この右目は、暗闇の中であなたの姿だけをひたすらに見つめております。──── ですが、まだ、日の光の下で水に濡れた姫を拝見したことはございません」
「当たり前です!」
千尋は、ちょっと本気でこの男を射てやろうかと思った。
「とにかく!わら人形は処分して、呪いも消してね!?」
あらためて呪いのわら人形を手に取り、柊に突きつけた時、朗らかな声がした。
「柊、いますか?いい藁がたくさんもらえましたよー。あれ、千尋?」
「…忍人の、髪…。…もらってきた…、神子…?」
入ってきた二人と目が合った瞬間、千尋は盛大に頬をひきつらせた。
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