「それ以上進まれるなら、私はこの場で自害します」
 男の足が止まる。
「指一本でも、触れて御覧なさい!私はこの場で舌を噛み切って死にます!」
 精一杯、高貴に、傲慢に見えるように。昔見た、映画のお姫様を思い出しながら、千尋は男をきっと睨みつける。
 人質を連れてこられたら負けだ。采女たちの誰か一人でも連れてこられて、その喉元に剣を突きつけられたら、自分は要求を呑んでしまうだろう。
 永遠より長く感じた沈黙は、実際には、2、3秒のことだったのだと思う。
 男は舌打ちして、きびすを返した。男に付き従っていた兵たちが、自分の手に縄を打つのを見下ろして、千尋はそっと胸をなでおろした。
 とりあえず、自分の貞操がなによりも大切な誇り高き女王様に見せることには、成功したようだった。



あなたの灯火



 熊野への行幸は、さほど大掛かりなものではなかった。
 数名の采女と、風早を含める直属の護衛官たち。布都彦が率いる一隊に守られて、旅程は滞りなく進んだ。
 もともと、中つ国が一度滅ぶまでは、代々の女王が数年に一度は訪れていた土地だ。道は整えられており、迎える側の準備も万全のようだった。年老いた熊野の領主は、贅沢に慣れない千尋が戸惑うほどの歓迎をしてくれ、視察は問題なく進んでいた。
 和やかな宴が、剣に汚されるまでは。
 土の壁に寄りかかって、千尋は小さくため息をついた。
 歓待の宴に剣を抜いて踏み込んできたのは、領主の一人息子と、その取り巻きたちだった。線の細い顔立ちを歪めて、武器を持たない采女たちを脅す姿は、醜悪の一言につきた。王家に告ぐ高貴な血筋である己を蔑ろにした罪は重い、だとか、これは神の意思である、だとか、千尋にしてみればどうでもいいことをまくし立てて、彼らは宴を血で汚した。止めに入った領主の部下を、躊躇なく切り捨てたのだ。
(逃げることはできた)
 千尋はうずくまり、自分の肩を抱いた。あのとき、風早は剣を抜いていた。布都彦は退路の確保に走っていた。一騎当千の二人なら、自分を守って館の外へ逃げることができただろう。外へ出れば、布都彦の率いる一隊がいた。もしかしたら彼らも、何らかの方法で拘束されていたかもしれないけれど、それでも外に出てしまえば森に隠れることも可能だった。
 王としては、本当は、きっと、そうするべきだったんだろう。
 けれど千尋は命を惜しんでしまった。いかに風早と布都彦が強くとも、彼らだけで采女や、侍従官や、熊野の領主たちまで守れるはずがない。だからとっさに、風早をおしとどめて、降伏を申し出た。抵抗はしない、その代わり、これ以上血を流すことは許さないと。
 王なら、本当は、逃げなくてはいけなかった。誰を犠牲にしても、たとえあの場にいたほとんどが命を奪われることになっても、逃げなくてはいけなかった。それが王の責務だ。十人を殺すことになっても、百人を守らなくてはいけない。戦いになれば、数人の命どころの話ではないのだから。
 ──── わかっている。でも、考えるより先に体が動いてしまった。
 千尋は立てた膝にあごを乗せて、うーんと唸った。人間、頑張ってもできないことはある。サザキのように空を飛ぶことはできないし、那岐のように万年寝太郎でいることもできない。誰かの命を切り捨てることも、できない。努力の問題ではなく、それをしたら、自分が生きている価値がなくなる。
(こんな王様で申し訳ないと思うけど)
 でも、諦めてもらうしかない。あきらめて、一緒に頑張って、どうにか血を流さない方向に持っていこうね。とお願いしたら、さすがの彼でも呆れてしまうだろうか。想像して、千尋は小さく吹き出した。彼はきっと、いつも通りのオーバーリアクションで、「お願いとは寂しいことをおっしゃる。どうかご命令を」なんて嘆くだろう。
 ───── もし、どうしようもなくなって、ほかに方法がないとなったら、千尋はためらわずに玉座を降りる。
 あとを押し付けることになる那岐には、本当に申し訳ないと思うけど。自分は決して、十人を生かすために百人を死なせたい訳ではない。ただ、十人も百人も守りたいだけだ。
 理想論だと笑われても、それを望まないのなら、玉座にいる意味がない。
(それに…、今ここで、問題を大きくしないほうがいい気がする。なんとなくだけど…)
 何かが裏にある気がする。うまく説明できないことが悔しい。彼がいてくれれば、このいやな感覚を、するすると解いてくれるだろうに。
(柊…、気づいてくれるよね)
 千尋の望みは、この牢屋からの解放ではない。事を荒立てないことだ。はっきり言ってしまえば、揉み消して欲しい。今のところ、こちら側に死者はいない。このまま、みんな無事に王宮に戻れれば、熊野での滞在は『少し長引いただけ』で済むはずだ。だから千尋は、王宮に使者を出すという男に頼んだのだ。
 ──── でしたらどうか、内密に宰相に連絡を取ってください。正面からは行かれませんよう。私を異形の姫と侮り、排斥を望むものも多いのです。此度の件は、その者どもに絶好の口実を与えることになりましょう。どうか内密に宰相に連絡を。彼は有力な後見もなく、私の寵愛によってのみその地位にいるものです。彼でしたら、手を尽くして、私たちの望みを叶えてくれるでしょう。
 私たちの望み、と口にすると、男は何度も何度もうなずいた。
(あれが姉様の夫候補だったなんて…。絶対羽張彦さんのほうが格好良いと思う!覚えてないけど!)
 千尋は思わず拳を握ってしまう。だって柊と風早と忍人さんのお友達で、布都彦のお兄さんで、岩長姫の弟子だ。それだけで絶対羽張彦さんのほうがいい。
 男の要求は、女王の夫となり、いずれ生まれる御子の父となり、権力を握ることだった。
 一言でいえば、千尋との結婚だ。
 一ノ姫のときに反故された約束を、今度こそ果たせと。大伴や葛城よりも、自分の血のほうが遙かに尊く、王婿にふさわしい。その旨を何度も申し立てたのに、王宮からはあいまいな答えばかり。それゆえ今回の決起となったのだと、自分の正当性を信じて疑わない顔で男は語った。
 千尋はあえて逆らわなかった。男の言葉に同意し、その血統を認めた。ただし、
 ──── 龍神のお許しを頂くまでは、夫婦にはなれません。
 と、条件をつけて。
 龍神は効いた。男は目に見えてうろたえ、すぐに王宮に使者を飛ばした。密かに柊の元へ向かった使者は、彼に神の許可を得るよう求めるはずだ。
(たぶん、それだけで、柊には全てがわかるはず)
 落ち着きを失いかける心臓を宥めて、千尋は深く息を吸った。男は龍神の力に怯えながらも、ぐずぐずと千尋の元に留まり、手を伸ばそうとしてきた。血の尊さなどではとても隠しきれない、下種な欲望をたぎらせていた。
(自害するっていったから、とりあえずは大丈夫だと思うけど。次があったら、龍神の祟りがあるとでもいおうかな…)
 怖くないといえば嘘になる。剣を振り下ろされることも、あんな男に触られることも、自分のせいで戦が起こってしまうかもしれないという事も。
 本当は、何もかもが怖い。
 千尋は胸元を押さえた。繰り返し、大きく息を吸う。大丈夫、大丈夫と、自分に言い聞かせる。やれることからやっていけばいい。地下牢に入れられても、できることは必ずある。隻眼の軍師なら、きっとそう言う。
 優勢であると敵が過信しているのなら、ひっくり返すことはたやすいのですよ、と。きっとそう微笑んでくれるだろう。
 千尋は顔を上げて、牢の中を一つ一つ確認していった。震えるのも、泣くのも、最後でいい。あの血統至上主義な男が効いたら怒り狂うだろうが、自分が愛しているのは、有力な後見も尊い血筋も持たない、でも、こういう時には誰よりも頼りになる人だ。
 だから、自分は必ず彼のもとに帰る。そうしたら、柊の腕の中で思い切り泣いてしまおう。
(大丈夫。信じてる)
 柊ならきっと、こちらの望みを理解してくれる。手を打ってくれる。この説明できない嫌な感じも、彼なら察してくれるはずだ。
 うまく説明できない。
 けれどはっきりと思うのだ。

 今、熊野に火をつけてはいけない。








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