「お話はよくわかりました」
 身を乗り出すようにして話を聞いていた彼は、感じ入ったように頷いた。
「そちらの仰るとおりです。熊野の血統は、王家に並び立つほどに尊いもの。大伴や葛城などとは比べ物になりません。ああ、どうか、不才なるこの身の、かねてよりの非礼をお許しください」
「ふん。そのような言い訳は、我が主の前ですることだな」
 突っぱねる口調とは裏腹に、男の目は得意げに輝いていた。一国の宰相をひれ伏させているという優越感に、男の唇が醜くゆがむ。彼はそ知らぬふりで続けた。
「ええ、早急に龍神への奏上をいたしましょう。もちろん、熊野の御方であれば、神の許しが得られぬはずがございません。ですが…」
 彼は大仰に肩をすくめて、首を振った。
「申し訳ございませんが、こういった儀式には、何かと時間がかかるものでございます」
「ならんならん!すぐに許可を得よとのご命令だ!」
「おお、どうかお許しください。神は粗略には扱えません。一つ手順を省いただけでも ────、災いが降りかかることでしょう」
 声を潜めて告げられた言葉に、男の肩がびくりと震える。彼は優しげな笑みを浮かべた。
「もちろん、神の御心を損ねることのなきよう、精一杯努めさせていただきます。いかがでしょう、その間に、橿原の村で旅の疲れを癒されては?熊野には劣るやも知れませんが、この地の料理もなかなかのものです。それに女官たちが、熊野よりいらっしゃられた精悍な殿方と、ぜひお近づきになりたいと ──── 、いえ、失礼いたしました、不躾なことを申しましたね」
「う、うむ、そうか。なら仕方あるまい、神の機嫌を損ねても困るからな!少しの間なら、待つとしよう。だが、妙な真似をすれば、わかっておろうな!うら若き姫の亡骸が届くことになるぞ!」
「ええ、もちろん。全て良きように計らいましょう」

 男が彼の人となりを知らなかったのは、むしろ、男にとって幸いだっただろう。
 彼を親しく知るものならば、このとき彼が浮かべた微笑みが、何を意味するか理解できたはずだ。
(姫の亡骸、ね)
 男は知らない。その一言を口にした瞬間に、己の運命は決まったのだということを。





 熊野の使者を応接の間に残して、柊は別室の扉を開いた。この部屋にはちょっとした仕掛けがあって、応接の間の音が、全て届くようになっている。盗み聞きのためというより、変事の為の仕掛けだ。
「聞こえていましたね、道臣、忍人」
 あらかじめ呼んでおいた二人は、それぞれ厳しい顔をして頷いた。柊だけはいつも通りの微笑を崩さず、冷静に指示を出す。
「では、道臣。あの者の歓待をお願いします。そう時間はかけませんが、しばらくは酔い潰しておいてください。それから、狭井君に連絡を。熊野の情勢について、詳細な情報を頂きたい」
「わかりました」
「軍はどうする。一刻もあれば出立の準備は整えられるが、王軍が動くのは危険すぎるか?なら熊野に近い場所で、兵をかき集めるが…。陛下が人質である限り、下手に刺激することはできないな。隊を分けて森に潜ませるか」
 剣に手をかけ歩き出そうとする将軍を、柊は片手を挙げて制した。
「忍人は動かないでください。ああ、そうだ、道臣。確か工部の若手が、これから常世へ向かう予定でしたね?ちょうどいい。そこに使者を一人混ぜてください」
「それは構いませんが…、柊?」
「アシュヴィン殿下に、軍の合同演習のお誘いをいたしましょう。今日の明日というのはいささか急ですが ─── 、きっと快く了承してくれることでしょう。そういうことですから、忍人は明日、黄泉比良坂まで殿下を迎えにいってくださいね」
 名案だといわんばかりに手を打った柊に、忍人が苛立った声を上げた。
「何を考えている!?合同演習などしている場合ではないだろう!誰を将に据えるにしろ、兵を動かすにはそれなりの準備が必要だ。常世と遊んでいる暇などない!こうしている間にも、陛下の身に危険が迫っているんだぞ!!」
「そうですね。合同演習のことは、明日まで黙っていてください」
「ふざけるな!貴様、陛下が心配ではないのか!?命は奪われずとも、あの方は、女人なんだぞ…!くそ…っ、軍を動かすのが危険なら、俺一人で行く!── この身に代えても、救い出して見せる」
 覚悟を決めた眼差しを、柊は冷ややかに見下ろした。
 かつて忍人を絶望させたものが何であるか、柊は知っている。若く溌剌とした女王は、彼にとって唯一の希望だろう。王を守るためなら、この弟弟子はためらいなく命を捨てる。
 だが、その道を選ぶことも、選ばせることも、柊には許されない。皆を生かすことが、至高の主の望みであるがゆえに。
「頭を冷やしなさい、忍人」
「……貴様はずいぶんと余裕だな、柊。いざとなれば、新しい主に仕えればいいからか?」
 その皮肉に顔色を変えたのは、柊ではなく、同門で最年長の青年だった。
 いつもなら、どんな非礼も優しく諭す道臣が、無言で忍人の肩を掴んだ。はっとしたように体を震わせた弟弟子に、道臣はただ、厳しい顔で首を振る。忍人はきつく唇を結んで、視線を下げた。
 眉一つ動かさずにそのやり取りを眺めていた柊は、思い出したように付け加えた。
「ああ、それから、黄泉比良坂には最近野盗が出るそうですが、相手にしてはいけませんよ。おそらく常世の民でしょうから、アシュヴィン殿下に任せるように。いいですね、葛城将軍」
 道臣の制止も間に合わないほど滑らかな動きで、忍人は、鞘に入った剣を柊の喉へ突きつけた。
 大きく開いた瞳は、真紅の怒りに染まっている。普段通りの微笑を崩さない柊とは対照的に、いつ箍が外れてもおかしくないほどの激情をあらわにしていた。
「なにを、考えている」
 最後通牒を突きつけるような、いやにゆっくりとした問いかけに、柊は淡々と答えた。
「軍は動かしませんよ」
 それだけを告げて、軍師は二人に背を向ける。
 「柊!」となおも非難の声に引き止められて、彼は、扉のところで一度だけ足を止めた。
「軍を出しても良いとお考えなら、我が君はとうに自由の身になっていますよ、忍人」







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