王宮の端、森に近い場所に、王宮典医の住まいがある。
もっとも、森での生活が長い少年は、好きなときに好きな場所で休んでいるから、与えられた屋敷はむしろ、薬草の貯蔵庫と化していた。
忍人たちに背を向けた柊は、わき目も振らずに貯蔵庫を目指し、いささか乱暴に扉を開けた。
「遠夜、今すぐ熊野へ発ってください」
ごりごりとすり鉢を動かしていた少年は、手を止めて、透き通った眼差しを柊へ向けた。
「我が君が囚われの身になっています。君なら、誰よりも早くあちらへ到着できるでしょう」
空気が一瞬で塗り替えられるのを、柊は肌で感じた。木漏れ日のような温かさが拭い去られ、怒りすらともなわない、純粋な殺気が部屋に満ちる。棺を取り出し、そのまま空中に溶けていきそうになった遠夜は、けれど、数回瞬きしてから動きを止めた。
「……落ち着け。お前が心を乱せば…、ワギモが傷つく…」
「なんですか、それは。私はこれ以上なく冷静ですよ?月読の予言なのでしたら、後ほどうかがいましょう。事は一刻を争うんです、遠夜」
「……飲め…」
まくし立てる柊に構わず、遠夜は土器を取り出し、コポコポとお湯を注いだ。ほかほかの湯飲みが、ことんと柊の前に置かれる。冷ややかに見つめても、少年のぼんやりとした表情は動かなかった。
舌打ちして湯飲みを持ち、一気に飲み干そうとして、柊は喉を詰まらせた。
「──── っく、これ、あなた、薬草茶じゃないですか…!!」
口の中に、言いようのない苦味が広がる。混ぜ合わされた数十種類の薬草が、目くるめくハーモニーを奏でて、地獄の不味さを生み出していた。目下、現在、自分の口の中で。
吐き出すこともできず、柊は手で口を押さえた。
遠夜の薬草茶は有名だ。素晴らしい効用と、反比例する恐ろしい味わい。負傷した兵士はまずこれを飲まされるが、これを飲むくらいなら塩水で傷口を洗うほうがマシですと、兵士たちが忍人に泣きついたのはもはや伝説となっている。見た目も香りもただのお茶だが、飲んだ者はあまりの不味さにえんえん夢に見えるという。
そんな恐ろしい薬草茶を思い切り飲んでしまった柊は、声も出せずにむせ返った。
「…お茶だとはいってない」
「そんな言い訳が通じると思ったら大間違いですよ…!薬草茶なら薬草茶だと、あらかじめ告げるのが礼儀でしょう…っ!」
「でも、いつもなら、気づく」
淡々とした言葉に、柊は動きを止めた。
そうだ。いつもなら気づく。香りも色もただのお茶と変わらなくても、普段なら、こんな子供だましの手に引っかかりはしない。
柊は椅子に腰掛け、しばし沈黙した。乱れた髪をかき上げて、堅い眼帯に手を置く。
「……水をください」
手渡された水飲みを、ゆらゆらと揺らして、結局は飲まずに卓に置いた。苦いくらいが丁度いい。
「…忍人に八つ当たりしてしまいました」
「…そうか……」
「私は、あまり、恐怖を感じないほうだと思っていたんですけどね…。…手が、震えるんですよ」
生も死も、全ては流転していくものだと思っていた。
定まった未来が存在していなくとも、始まりと終わりは等しくある。星は時の流れを見つめるがゆえに、月は闇夜とともに存在するがゆえに、死をあまり恐れない。自分も遠夜も、明日命が終わるのだと知らされても、さほど動揺しないだろう。そういう意味では、自分たちはよく似ていた。太陽に属する日向はともかく、夜に属する月読と星見は、生を求める気持ちが薄い。
けれど、手が震えた。
厭わしいこの頭は、いつだって簡単に最悪の結果を描き出す。もし、すでに姫がこの世にいなかったら?命があっても、ひどく傷つけられていたら?今このときに、あの方に危害が加えられていたら?
命が流転するものだなどと、どうしてそう醒めていられたのだろう。これほど恐ろしくてたまらないのに。この手をもがれても、この足をへし折られても、自分は笑って見せるだろう。でも、あの方が、髪一筋でも傷つけられていたら、自分は永遠にその相手を許さない。主を傷つけるなら、まずその前に自分を殺せ。もしあの方が二度と目を開かれることがなかったら、自分は熊野を焼き尽くす。草一本残さず灰に変えて、不毛の荒野となったその地でこの喉をかき切る。
(ふふっ…、ですが、こんなことを考えていると知られたら、我が君はお怒りになるでしょうね。……そう、最悪の結末の後のことなど、そのときに考えれば良い。私は、必ずあなたを取り戻す)
そうしたら自分がいかに恐ろしかったかを、切々と語ってみせよう。愛しい姫はきっと、微笑んで、謝って、怒ってくれるだろう。
「遠夜、熊野へ行ってください。これはまだ、確たる証拠がないのであなたにしか話しませんが、おそらく裏には常世の手があります」
「……アシュヴィンが…?」
心なし眉をひそめた少年に、柊は首を振った。
「第二皇子はそれほど愚かではありませんよ。むしろ、目的は彼らでしょう…。そういうわけですから、いま軍を出すことはできません。なにより、我が君がお望みでない」
柊は大げさに肩をすくめて見せた。
「まったく、風早と布都彦がついていて、力及ばず我が君が囚われの身になったなど、私が信じると思ったのでしょうか。わざわざ内密に私に連絡を取っておいて、歯向かう武官たちは皆切り捨ててやったなどと豪語するものですから、笑いを堪えるのも一苦労でしたよ。姫の方が、一枚も二枚も上手です」
「ワギモの望みは…、皆の光…」
「でしょうねえ。やれやれ、我が君はいつも無茶をおっしゃる。一人も死者を出さず、なおかつ何もなかった事にせよとは、私のほうが心痛に耐えかねて倒れてしまいそうです。これは、お戻りになられた暁には、盛大にご褒美を頂かなくてはなりませんね。─── とはいえ、外から攻め難いなら、内から崩すのは戦の定石」
鮮やかな笑みを浮かべて、柊は、二つの包みを遠夜に渡した。薬学に長けた少年は、予想していたかのように、中身を確認することもなくそれをしまった。
肘をついて指を組み、黒々とした闇を射抜いて、柊は呟いた。
「──── 我が君を守ってください、遠夜。災いの星を、私が消し去るまで」
棺をかぶった土蜘蛛が、ゆらりと揺れて、春の陽射しに溶けていった。
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