地下牢に響く足音で、千尋は目を覚ました。
朝食を取った後で、少しウトウトしていたらしい。昨日もよく眠れなかったから…と、千尋は重たい瞼をこすった。
牢に入れられてもう二日目だ。どんな状況でもしっかり休むことが将の義務だと、忍人辺りならいいそうだけれど、さすがにそこまで強靭にはなれない。こみ上げる不安に、浅く眠っては目を覚ますの繰り返しだった。
「ふん、これが女王陛下か。龍神の加護があるというが、ただの小娘ではないか」
ぞくりと肌が粟立って、千尋は慌てて立ち上がった。鍵を開けて、一人の男が入ってくる。
きらびやかな装飾の鎧は、とうてい実践向きとは思えなかった。美しい飾りのついた剣も、使い慣れているようには見えない。なにより男の目が、全てを台無しにしていた。弱いものを虐げることを、楽しいと感じている目だ。生理的な嫌悪感に、千尋は一歩あとずさった。
「無礼な!すぐに出て行きなさい。誰の許しを得てここに来ているのです!」
精一杯高飛車に言い放つ。けれど男は、舌なめずりするような顔で近づいてきた。
「許しなど必要ない。俺は領主のご子息の側近だぞ。いや、もう領主様の側近だな。そしてすぐに王の側近となる!俺が立ち入りを許されぬ場所などないわ。おまえも、言葉遣いに気をつけるがいい。あまり反抗的な態度をとると、その目と口を縫い合わせてしまうぞ」
まるで、誰かにそうしたことがあるかのような口ぶりだった。ただの脅しではないというように、男は手をくねらせて見せる。何かを縫い合わせるような動きに、千尋の足がぞっと凍りついた。
男の浅い息にも、爛々とした目つきにも、良心というものが感じられない。
(ひいらぎ、ひいらぎ、ひいらぎ!!)
恐怖に落ちそうになりながら、必死で彼の名前を呼んだ。パニックに陥ってはいけない。手が震えても、足が震えても、ここで屈するわけにはいかない。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ。柊、柊ならきっと…)
柊ならきっと、冷静極まりない声で、『相手を利用すればいいのですよ、我が君』と告げるだろう。
(そうだ、どんな相手にも付け入る隙はあるって…、そのためには、まず)
相手を冷静に観察することです、と、甘い声が耳元で囁いた気がした。
千尋は、自分の二の腕をきつく掴みながら、男を眺めた。男の衣装は、王宮に仕える武官たちよりも、明らかにお金のかかったものだった。正装のときの忍人でさえ、こんなにけばけばしい格好はしていない。
(……なんだろう。なにか、変な感じがする)
確か、あの宴が踏み荒らされたときも、同じ違和感を感じた。そう、あのとき押し入ってきた男たちも、なにかが奇妙だった。
(……似合って、ない…?…そっか、似合ってないんだ。まるで、那岐が初めて高校の制服を着たときみたい。制服が新しくて、那岐も着慣れてなくて、……着慣れてない?)
ぞくりと、先ほどとは違う恐怖に鳥肌が立った。千尋は思わず口にしていた。
「あなたは誰」
「──── なんだと?」
「あなたは誰です。中つ国の兵じゃないわ!ううん、そもそも、中つ国の人間じゃないでしょう!まさか、常世の ── っ!」
言い終わるより早く、千尋は膝をついていた。右肩に、燃えるような痛みが広がる。男が、鞘のまま、剣を振り落としたのだ。
「黙れ、小娘が ────!」
図星を突いたのは明らかだった。男の顔には無様なほどの動揺が広がり、それを隠すように剣を振り下ろした。鞘をつけているとはいえ、男の力で容赦なく振り下ろされれば、立ち上がることもできない。
千尋は身を縮めて、唇を噛んだ。悲鳴を上げたくなかった。
(…本当は、下手に、出るべきっ、…なんだよ、ね…?ごめん…、無理みたい…っ)
鉄の塊が振り下ろされるごとに、堪え切れなかった悲鳴が唇の端からこぼれ出る。頭だけは庇わなくてはと思っても、手は痛みに麻痺して動かない。背中や足までも打ち据えられて、とうとう千尋は倒れこんだ。目の前が、白く、暗くなっていく。
(……だ…、め…)
気を失っちゃいけない。だけど手も足も、熱くて痛くて動かない。
「──── 陛下!!」
悲鳴のような叫びが、うすれかけた意識を引き戻した。
なんとか瞼を持ち上げると、一人の女官が男にくってかかっていた。そしてもう一人の女官が、自分のほうに駆け寄ってくる。牢に入れられてから、毎日食事を運んできてくれていた女官たちだ。
「陛下!!ご無事でございますか、陛下!!」
「…ええ。大丈夫よ……」
なんとか声を出して、微笑んで見せる。起き上がろうと体を動かせば、それだけで激痛が走った。
「陛下!無理をなさいますな、すぐに薬師を呼んでまいります!」
「…大丈夫よ。それより…っ、手を、貸してもらえる?」
女官の手を借りて、千尋は何とか体を起こした。土の壁にもたれかかって、深く息を吐き出す。
「何という事をなさるのです!玉体を傷つけるなど…っ!熊野の恥さらしめっ!いかにご子息様の側仕えとはいえ、極刑を覚悟なされよ!!」
「なにが玉体だ。ただの小娘ではないか」
「お黙りなさいっ!!すぐにここから出てお行き!!」
老女とは思えない剣幕に、男は舌打ちして牢を出て行った。
完全に足音が聞こえなくなってから、千尋はゆっくりと口を開いた。
「ありがとう。あなたたち…っ」
手を動かそうとしただけで、ずきずきと痛みが走る。思わず息を詰めた千尋に気づいて、若い方の女官が腰を浮かせた。
「すぐに薬師を呼んでまいります!」
「待って…!大丈夫、このくらい、なんでもないわ…。それより、昨日の話を」
「ですが、陛下──── 」
何かを言いかけて口をつぐんだ年かさの女官を、千尋はまっすぐに見つめた。
「昨日お話ししたことを、翻すつもりはありません。これくらい、何てことないわ。私の気持ちは変わりません。だからどうか」
痛みを飲み込んで、千尋は年老いた女官の手に触れた。
「どうか、この地を守るために、力を貸してください」
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