三度目の癒しの術を詠唱して、千尋は体の力を抜いた。
まだあちこちが熱を持っているし、大きな青あざができた部分もあるけれど、耐え切れないほどの痛みはない。癒しの術は、傷を癒すと同時に精神を消耗させる。これ以上使っては、今度は疲れで動けなくなってしまうだろう。
(お昼を食べたから、余計に眠いや…)
心地よいまどろみに身を委ねそうになってしまって、千尋は大きく息を吸った。深呼吸して、お腹に力を溜めるようにする。岩長姫に教わった呼吸法の一つだ。
(みんな、どうしてるだろう…)
捕らえられた風早や布都彦、采女や武官たちは無事だろうか。手出ししないと約束させたけれど、本当に傷つけられていないだろうか。苦しめられていないだろうか。
千尋が不安に表情を曇らせたとき、ゆらりと、空間が揺れた。
「神子…!」
「─── 遠夜!?」
「神子、すまない…、遅くなった…!」
棺を脱ぎ捨てて、遠夜が駆け寄ってくる。千尋は大声を出してしまわないよう口に手を当てて、もう片方の手で褐色の頬に触れた。
「本当に、遠夜なの…!?いったいどうやって、ここに!?」
「土蜘蛛の道を、開いた…。ここは熊野だから、土が力を貸してくれる…。でも、時間がかかって…、すまない、神子、守れなかった…!」
ひどく辛そうに顔を歪める遠夜に、千尋は慌てて首を振った。
「大丈夫、大丈夫だよ!ほとんど治したし、そんなに痛くないから!」
「……それは嘘。…ワギモの輝きに、穢れが残っている…」
千尋は思わず目をそらした。遠夜の透き通った瞳は、小さな強がりさえ見通してしまう。
褐色の指先が、ゆらゆらと揺れる。術を使う気配を察して、千尋は慌てて顔を上げた。
「待って、遠夜!本当に大丈夫だから、癒しの術は使わないで。遠夜も疲れてるでしょう?わかるんだよ。ここに来るまでに、たくさん力を使ったでしょう」
「…大丈夫。…疲れてない…」
「それは嘘!お願い、今は力を使わないで。遠夜が来てくれただけで、私すっごく元気になったから!」
ぶんぶんと腕を回して見せる。巫の力を持ったお医者様は、しばらく千尋を見つめていたが、やがて、不承不承といったふうに頷いた。
「みんなはどうしてる?柊や、忍人さんは?そうだ、ここに来るまでに風早たちを見かけなかった!?別の場所に閉じ込められてると思うんだけど、全然様子がわからなくて…」
「…風早たちは大丈夫…。…閉じ込められているけれど、淀んでいない。…柊は、神子が望まないから、軍は出さないといっていた。忍人は、苛々してる…」
最後の言葉に、千尋はつい吹き出した。柊には、こちらの意思が無事に伝わったようだ。それは本当に良かったと思うのだけど、彼は相変わらず説明を省略したらしい。苛々している忍人が目に見えるようだ。
「柊ってば、もう…」
「…それから、常世の手があると、いっていた…」
予想外の言葉に、千尋はまじまじと遠夜を見返した。そんなことをいえる人には、一人しか心当たりがない。
(柊って、ときどき、目と耳が五個くらいあるんじゃないかって思うよね…)
彼はいったいどうやって情報を得ているのだろう。まるで王宮にいながら、熊野の様子が見えているみたいだ。未来はもはや見えないのですよと笑っていたけれど、その代わり、豊葦原の全景があの目に映っているんじゃないかと思う。そのくらい、彼は多くを見通している。
「…神子、これを…。柊から、預かってきた…」
「柊から…?」
二つの小さな包みを開くと、中にはそれぞれ色違いの粉が入っていた。小麦色をした粉と、雪のように真っ白な粉。なんだろうと首を傾げて、千尋は目を見開いた。
「遠夜、まさか、これって、もしかして ────」
こくりと薬師の少年がうなずく。千尋は恐る恐る二つの包みを下において、ほうっと息を吐き出した。安心したというか、驚きすぎて腰が抜けそうというか。
例えていうなら、手品師が、今すぐ必要なんだけど手に入れる方法がわからなかったものを、ポンとシルクハットから出してくれたような気持ちだ。自分がこれを欲しがっていたことが、彼にはどうしてわかったのだろう。
「本当に、すごいのかすごくないのか、わからない人だよね…。でも、とにかく、助かったわ!」
これで準備は整った。あとは自分が、彼女たちを説得するだけだ。
「遠夜、お願い、力を貸して。風早たちと連絡を取りたいの」
「…ああ。…ワギモの望みのままに…」
湖のような瞳を暖かく揺らして、遠夜は微笑んだ。
先触れもなく訪れた忍人に、柊は竹間をめくる手を止めた。
「アシュヴィン殿下が到着された」
「そうですか…。では、私もご挨拶に伺いましょう」
「くる途中で、野盗の一団に襲われたそうだ。いま典薬寮の者たちに、負傷者の手当てをしてもらっている。遠夜がいなかったからな」
忍人の剣呑なまなざしには全く気づかないそぶりで、柊は首をゆるく振った。
「それは、それは…。かの名高き黒雷の一軍に手を出すとは、愚かな賊もいたものです。常世で一、二を争う攻撃力を有しているというのに、身の程をわきまえない者たちには困ったものですね」
「──── それは、いったい、誰のことをいっている」
「おや…、もちろん、その野盗たちのことですよ」
机の上の竹間を片付けて、柊は席を立つ。忍人は腕組みをしたまま、扉の前で動かなかった。
「今回に限って、わざわざ、玉垣の東を出て黄泉比良坂へ向かえといったな」
「ええ。山沿いを進むのも、いい訓練になったでしょう?いつも整えられた道を行けるとは限りませんからね。ああ、ついでに猪でも仕留めてきてくれれば、師君へのいいお土産になったんですが」
「陽動か」
切りつけるような言葉に、柊はうっすらと口の端をあげた。
「黒雷の一軍が、野盗ごときを相手に負傷者を出すはずがない。黄泉比良坂に、常世の軍がいたんだな?おそらくは、皇に属さない軍が。だからお前は、熊野へ軍を向かわせなかった。橿原宮を空ければ、その途端に、攻め入られるとわかっていたからだ」
問いただすような鋭い眼差しは、偽りを許さないと告げている。けれど柊は、構うことなく扉へと向かった。忍人の視線を受け止めることなく前を見据え、淡々と答えた。
「違いますよ」
忍人の推測は間違ってはいない。だが軍を留めたのはそんな理由ではない。その程度の理由ならば、どうとでもして見せた。
危うい綱渡りをしてでも、戦いを避ける道を選んだのは。
「軍を動かさなかったのは、我が君がそう望まれたからです。それだけですよ」
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