扉を開けると、常世の第二皇子は、窓から外を眺めていた。
「美しい庭だな」
「ありがとうございます。この季節は、ここからの景色がもっとも美しいのですよ。春の陽射しを受けて、花々が輝いて見えますでしょう?」
 示された椅子に腰掛け、柊は降り注ぐ光に目を細めた。
 一戦交えてきたという割に、アシュヴィンの服装には乱れたところがない。怪我を負っている様子もなく、絶対的な存在感に変わりもない。惜しかったなと、柊はいささか不謹慎なことを思った。この精力的な皇子様には、少しくらい怪我をしてもらってもよかったのだが。
「この度は急な申し出にもかかわらず快諾してくださったこと、感謝の念に耐えません。精鋭と名高い黒雷殿の一軍と共に切磋できることを、将軍以下一兵卒にいたるまで皆喜んでおります。女王陛下はただいま行幸中の身でございますゆえ、直接お言葉を交わせぬことを残念がっておられました」
「よくもまあ、そうペラペラと口が回るものだな」
 感心半分、呆れ半分といった様子で、アシュヴィンは眉を上げてみせた。
「橿原宮に飽いたら、根宮へ来るがいい。我が兄上の側近に推薦してやる。口数の少ない兄上に、三枚舌の側近はちょうどいいだろう」
「身に余る光栄でございますが、我が身はすでに我が主に捧げておりますゆえ、そのような日が来ることはございませんでしょう」
「主か…。女王陛下は熊野へ行幸中だと伺ったが、あちらは確か、山々に囲まれた土地だったな。このような季節、山火事でも起きなければいいがな」
 探るような眼差しに、柊は鷹揚な微笑で答えた。
「そうでございますね。風が乾いておりますし、遠方からの客人が、思わぬ火種を持ち込まないとも限りません。用心することにいたしましょう」
「すでに小火が出ているような話を聞いたのだが?」
「さて…、そのような報告は受けておりませんが…」
 顎に手を当て、思案する振りをする。アシュヴィンが何を心配しているかは、柊にはよくわかっていた。
 この頭脳明晰にして人脈の広い皇子様は、すでに一連の流れを掴んでいるのだろう。詳細まではわからなくとも、熊野にすでに火がついていることを知っている。そして火をつけたのが(あるいは煽っただけかもしれないが)、常世の人間であることも。
 女王を害する企みに、常世の人間が絡んでいたとわかれば一大事だ。中つ国からの猛烈な抗議と、多額の賠償を求められるだろう。そして建て直しの真っ最中である常世は、戦を開くこともできず、中つ国の要求を呑むしかない。常世の人間が関わったいたという明白な証拠を、中つ国に押さえられてしまえば、そうなる。
(第二皇子としては、我々が『明白な』証拠、もしくは証人を握っているのかを、探りたいところでしょうね。今回に限っては、双方の目的は一致しているのですがね…。種明かしの前に、どこまで譲歩できるか試してみるのも悪くないか)
 柊は姿勢を正し、改まった口調で尋ねた。
「もし、万が一にも、殿下のおっしゃるように小火が出ているとしたら、これは憂慮すべき事態です。そうは思われませんか?」
 第二皇子は動じなかった。彼は噂通りの、あちこちの地方を飛び回っている青年なのだろう。動揺することも、焦って答えることも、かといって沈黙することも、駆け引きを不利にするだけだと知っている。
 アシュヴィンは揺るがない、引くことのない態度で答えた。
「そうだな。中つ国において山火事の危険があるとなれば、友好国として見逃すことはできん。そちらの許しがいただけるなら、我が黒雷の一軍を持って、火を鎮めに赴くとしよう。もちろん、田畑を焼かれた熊野の民への援助も、惜しまぬつもりだ」
 柊は、唇にかすかな笑みを浮かべた。その言葉を引き出せれば、今回はここで手を打つのも、そう悪くはない。
「心強いお言葉です、殿下。女王陛下もお喜びになりましょう。ですが、どうぞご安心を。熊野に小火など起こっておりません。もし起こっていたとしても、それはきっと、陛下へ報告する必要もない焚き火程度のものでしょう。我々が口を挟んで、事を大きくする必要はございません」
「ほう…?しかし、火がついたことには変わりない。あえて見過ごすというなら、理由を教えていただきたいものだ」
「そうですね…、熊野は豊かな地でございますから、小火程度のことで、いたずらに民を不安にさせたくないのですよ」
 熊野は有力な族が多いから、下手に軍を動かせば、こちらが猛反発を食らいかねない。そう含めた言葉に、アシュヴィンはかすかに苦笑したようだった。本当にこの皇子様は、頭の回転が良い。
「それに…、例えばの話でございますが。例えば、自分の家の畑に火をつけられたといたしましょう。慌てて門番たちを向かわせますが、困ったことに、今度はその隙を狙って強盗が入ってきます。家の中はひどく荒らされ、怒り心頭になるでしょう。その上、下手人たちは口々にこういいます。全ては、隣の家の二番目の息子の命令であると」
 赤みを帯びた瞳に、一瞬、危うい光がよぎる。けれど柊は、そ知らぬふりで続けた。
「確かにその場合、隣の家に厳しく抗議するのも、そう悪くない手です。濡れ衣であるとわかっていても、ね。私個人としては、隙を見せるほうが悪いと思いますし」
「──── なぜ、濡れ衣だと思う。実際に二番目の息子が命令したのかも知れんぞ?」
 どこか面白がっているような青年に、柊は肩をすくめて見せた。
「隣の家に住んでいる三兄弟は、それほど愚かではありませんので。しかしそれゆえに、家長の座を狙う親戚にとっては、厄介なことこの上ないのでしょう。酒や女に溺れることもなく、物欲も乏しい。兄弟仲も非常に良く、嫉妬を煽ってみても効果がない。さぞ困惑したことでしょうねえ。次兄はともかく、長兄は操れると踏んでいたのに、蓋を開けてみれば、長兄にとって家長の座は権利ではなく義務だったのですから。おまけに次兄を誰よりも認めているのは、実は長兄で、必要な手順さえ踏んでくれれば、いつ家長の座を譲っても構わないと思っている。そんな麗しい兄弟を仲違いさせようと思ったら、外の力を借りるしかありませんでしょう?」
 つまり中つ国は、常世の王位争いに巻き込まれただけだ。
 そんなことのために、愛しい主が危険に晒されているかと思うと、軽く常世を滅ぼしたくなる。
「自分の家の中のことでしたら揉み消せますが、隣の家の田畑に火をつけ、強盗に押し入ったとなれば、処分しないわけにはいきません。そして長兄が次兄を処分すれば、次兄についている者たちは黙っていない。それも、まあ、二、三年のことだけ考えれば悪くはありません。隣の家が揉めていれば、こちらの畑の作物が良く売れるでしょうし。ですが、十年後を見つめたときに、隣の家があまり荒れていては困るのですよ。三兄弟のうちの誰かが家長ならともかく、無能な親戚がその座に納まっては、こちらまで被害をこうむりかねません」
 だから今回は、あえてこの第二皇子を呼んだ。ことを表沙汰にして、常世を乱すことはしないと言外に伝えるために。
 もちろん、だからといって、タダで済ませてやるつもりもサラサラない。この有能な青年に作った借りは、別の場面できっちり取り立てさせてもらう。それはアシュヴィンにもわかっているだろう。
 第二皇子は、くつくつと喉を震わせ、おかしげに笑った。彼を玉座へ据えたいと惚れ込む者たちがいるのもわかるほどの、魅力的な笑みだった。
「宰相殿に一つ伺いたいのだが、もしもの話だ。もしも、隣の家が揉めていたら、その期に乗じて、隣の田畑を手に入れようとは考えないのか?」
「なぜ、そのような面倒を引き受けなくてはならないのです?建て直しの真っ最中の、ろくな作物も取れない貧しい田畑などいりません。こちらの負担が増えるだけです。殿下のおっしゃるような手段をとって欲しいのなら、あと五年はかけて、せいぜい土地を豊かにしていただきませんと。今のままでは搾り取る価値もございません」
 微笑したまま毒づけば、アシュヴィンは声を上げて笑った。
「なるほど、名ばかりの領地より実を取るか。おまえ、うちで高利貸しをやる気はないか?大蔵大臣なんかどうだ。多少上前をはねても、目を瞑ってやるぞ?」
「やりませんよ。我が身は女王陛下に捧げておりますと、申し上げましたでしょう。…それに、私の浅知恵など、我が君の足元にも及びませんよ」
 柊は、くすりと笑った。主にはおそらく、自覚はないだろう。大きな物差しを持てないと、自分を責めているかもしれない。けれどあの方の選ぶ道は、五年十年では測れない。
「私はしょせん、数十年後のことしか考えられませんが、我が君は百年後を見ていらっしゃる。あの美しい瞳には、百年の平和が映っている。…私が殿下に差し上げる一番の答えは、その一事に尽きるのですよ」





 牢の中で、千尋は一人の老婦人と向き合っていた。
 品のよい服装の老婦人の後ろには、二人の女官がひざまずいている。二人とも、この牢に入れられてから、食事や着替えの面倒を見てくれた女官たちだ。
「処罰せずというわけにはいきません。最低でも領主の任は下りて頂くことになりますし、屋敷や財産も、没収することになるでしょう。首謀者であるご子息には、永く蟄居を命じることになると思います」
 おそらく、生涯屋敷から出ることは許されないだろう。男はそれだけのことをした。
「ですが、死を命じることはしません。私はこれ以上、民の命を失いたくない。この地で血を流したくないのです。甘いといわれても、私は王として、ご子息を生かすとお約束します。一族に累が及ぶこともありません」
 千尋は思い切って、老婦人の手に手を重ねた。たじろぐ婦人の手を、強く握る。領主の奥方であり、ことを起こした男の母親である彼女は、この二日で、ひどくやつれた顔をしていた。
「信じてください。約束の証となるものは、何もありませんが…」
「…一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
 もちろんと頷けば、老婦人は視線を落として尋ねた。
「この手首の痣は……」
 千尋はぱっと手を引っ込めた。剣で打たれたときの痣だ。一瞬言葉に詰まったが、すぐに明るい声を出す。
「これは、ちょっと、転んでしまって!その、体を動かそうとした拍子に、うっかりと!でもたいしたことはないので!」
 大丈夫だと手を振って見せる。老婦人は目を見開き、それから深く叩頭した。
「ご命令のままにいたします。事が終わりましたなら、我が一族の身柄は陛下に預けましょう。どうか、陛下の良きようになさってくださいませ」
 驚く千尋の前で、老婦人はゆるゆると顔を上げた。
「痴れ者が御身に無礼を働きました件、私も聞き及んでおります。にも関わらず、陛下は熊野に情けをかけてくださる。わかっておりました。陛下の御慈悲がなければ、この地はとうに王軍に攻め滅ぼされていたことでしょう。…証は、すでに頂きました」
 そういってもう一度平伏する老婦人に、千尋は微かに安堵の息を吐いた。

 これで、明日にはみんなと再会できるだろう。








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