久しぶりの外の空気に、千尋は大きく深呼吸した。青葉の隙間から差し込み、降り注ぐ日の光が気持ちいい。ぐるりと周囲を見回しても、聞こえてくるのは女官や下働きの者たちの密やかなやりとりだけで、剣戟の音や、言い争う声は聞こえてこない。うまくいったみたいだと、千尋は胸をなでおろした。
「陛下!よくぞご無事で…っ!!」
「布都彦!風早も、よかった!みんな無事ね?」
駆け寄ってくる布都彦と風早、それに采女たちと侍従官たちを、千尋は満面の笑みを浮かべて迎えた。
「俺たちは大丈夫ですよ。陛下こそお怪我はありませんか?」
心配でたまらないと顔にくっきり書いてある風早に、千尋は一歩距離を取って、「大丈夫よ」と微笑んだ。実は、体力温存のためにまだ四回目の回復術は使っていなくて(遠夜にも、いざというときを考えて使わないでもらった)、体のあちこちに青痣が残っているのだけど、そんなこと風早には絶対にいえない。この心配性の保護者に知られれば、全部放り出してでも治療を優先されてしまうだろう。
采女たちや侍従官たちは、疲労の色こそ濃いが、目立った傷は見つからず、不安と期待の入り混じった目で千尋を見上げていた。千尋は安心させるように微笑んで、隣に立つ遠夜に目だけで尋ねる。
命の声を聴くことのできる少年は、優しく囁いた。
「大丈夫…、みんな、深い夢の底に落ちている。…太陽が傾くまで、現に戻ることはない…」
「すごいな。遠夜から眠らせるとは聞いていましたが、どうやったんです?屋敷の中じゃ、霧を流すわけにもいかないでしょう」
「簡単よ。柊特製の眠り薬を、朝食に混ぜてもらったの。あと、風早たちの水にだけ、眠り薬の解毒剤を入れてもらったのよ」
柊が送ってくれた薬は二種類あった。一つは、彼が以前にも戦場で使ったことのある、眠りの作用のある薬、もう一つはその解毒薬だ。千尋は領主の奥方に頼んで、それらを食事に混ぜてもらった。表は男たちが武力によって制圧できても、裏方は女官や下女たち、女性たちの砦だ。表向きは頭を下げても、彼女たちは決して力ずくでは動かない。長年この館の女主人を務める奥方の命令に従うのは、当然のことだった。
「あとは眠っている人たちを、どこかに閉じ込めておけるといいんだけど…」
結構な大人数なので、全員を牢に入れることはできないだろう。どこか良い場所はないか、領主の奥方に尋ねようとしたとき、年配の男たちがこちらへ向かってくるのが見えた。
とっさに槍を構える布都彦を、手だけで制する。
「あなたたちは、確か ────」
年配の男性たちは皆、数日前に視察に立ち寄った村の村長や、有力者たちだ。なぜここにと眉をひそめる千尋の前で、彼らは慌しく膝をついた。
「ご無事で何よりでございます、陛下!此度の一件、宰相閣下よりご命令いただき、周囲を見張っておりました」
「柊が!?」
「はっ!陛下のご厚情に、心より感謝いたします!不心得者どものことは、我々が責任を持って看守いたしますゆえ、どうか急ぎ王宮へお戻りください。これ以上行幸が長引けば、怪しむものも現われまするとの、宰相閣下よりのご伝言にございます」
「そうね…。そろそろ、誤魔化すのも限界でしょうね。わかりました、では後のことを頼みます。速やかに事態を収拾し、王宮からの連絡を待ってください」
男たちは再度平伏し立ち上がると、すばやく指示を飛ばし始めた。
顔見知りなのだろう。領主の部下たちもほっとした様子で、彼らの指示に従っている。千尋は少し安心して、踵を返した。
一刻も早く、出立しなければならなかった。
ろくな休憩も取らずに先を急いだが、それでも橿原宮へつく頃には夜の帳は下り、星々が淡い光を放っていた。
布都彦の隊に解散を命じ、本人にも休むよう言いつける。道中ずっと厳しい顔をしていた布都彦は、なかなか首を縦に振らなかったけれど、千尋は何とか言い包めた。布都彦のせいではないのにと思うが、護衛として随従してきた彼は、どうしても自分を責めてしまうのだろう。
南門を抜けて、橿原宮へ入る。宮の正門の前には、狭井君と数人の采女たち、それに柊が出迎えに出ていた。
「お帰りなさいませ、陛下」
「遅くなりました。熊野がとても良いところだったから、ついつい長居をしてしまって。予定を越えてしまってごめんなさい」
安堵のあまり声が震えそうになるのを必死で堪えて、千尋は努めて明るい笑顔を見せた。なにもなかったのだ。ただ少し、長引いてしてしまっただけ。
だから今、ここで、崩れ落ちてしまうわけにはいかない。
柊と狭井君たちと共に中へ入り、長い回廊を歩く。一緒に戻ってきた采女や侍従官たちは、待機していたほかの女官たちが引き受けてくれた。彼らもひどく疲れた様子だったから、数日は休養が必要だろう。
「留守の間に、何か変わったことはなかった?」
「はい、何事もつつがなく進んでおります」
歩きながら尋ねれば、柊はいつもと変わらない微笑を浮かべた。その落ち着いた姿に、ひどくほっとする。
「そう、よかった。じゃあ今夜は、急ぎの仕事だけ回して頂戴。残りは明日やるわ」
珍しく、非常に珍しく、柊と狭井君がそろって足をとめた。なぜか二人とも、そっくりな表情を浮かべてこちらを見る。
「なあに?」
「お願いでございますから、陛下。今夜は早々にお休みください。執務など一晩二晩休まれたところで、国は傾きません。それよりも、唯一無二の御身を大切にしていただかなければ。陛下の花よりも麗しきかんばせに、疲労の影が降りているのを目にするだけで、私の胸は嘆きのあまり張り裂けてしまいそうです」
「ろくでもない胸など張り裂けてしまえばよろしい。ですが陛下、今回ばかりは私も宰相殿と同じ思いにございます。どうか本日はお休みください。御身を大事に、ご自愛していただきとうございます」
中つ国において最も有能な行政官二人にそういわれてしまえば、千尋も頷くしかない。実際、体はところどころだるく重かった。
いくつかの確認をしながら内殿まで来ると、狭井君は軽く膝を折った。
「では、陛下。私はこちらで御前を失礼させていただきます」
「じゃあ俺も、失礼しますね」
この先はもう、王の私室しかない。それまで口を挟まずに後ろを歩いてきた風早も、礼を取って千尋を見送ろうとする。ただひとり柊だけが、御前会議で物騒なことをいいだす時と同じ笑顔で、「陛下にお伝えすべきございますので」とついて来た。
見送る狭井君と風早の顔は、非常に苦々しい(風早にいたっては剣を抜くのを必死で我慢している様な)ものだったが、柊は見事なまでに知らない振りをしている。
いつもと変わらないやり取りに、千尋はそっと唇をほころばせた。
扉を閉めて、明かりを灯す。橙色の薄明かりの中で、千尋はとうとう柊に抱きついた。
「── ひいらぎっ!」
「我が君、ああ、我が君 ─── 、よくご無事で…!」
背中に回された腕が、苦しいほどに自分を抱きしめる。千尋は泣いた。もう泣いてもいいのだと思った。
箍が外れたように零れ落ちる涙が、柊の服を薄く染めていく。男の胸に顔を埋めるようにして、声を殺して泣いた。体が震えて、柊に縋りつかずにはいられなかった。
「もう大丈夫です、我が君。誰もあなたを傷つけません。私が決して許しません。ご安心ください。もう大丈夫です…」
「……怖かっ、たの…っ!怖かったの、柊…!」
本当は何もかもが怖かった。恐怖に押し潰されそうになるたび、必死で自分を奮い立たせた。思い出すだけで体がすくんで、息が苦しくなる。
ひゅっと、あえぐように息を吸えば、背中に回されていた手が上にあがって、そっと頬を撫でた。
嗚咽と恐怖に絡め取られた呼吸を、優しい口付けが宥めていく。
唇に、頬に、額に、瞼の上に、口付けが星のように降り注ぐ。
柊が触れるたびに、苦痛の糸が解れて消えていくようだった。柊の唇は、柔らかくて温かかった。幸福が水のようにじわじわと染み込んできて、また一粒涙がこぼれた。
「…柊」
「大丈夫です…。どうか、ご安心ください、我が君。この柊がずっとお傍におりますゆえ」
そういって涙を拭ってくれる柊の手もまた、震えていて。
千尋は泣きながら、彼の手に口付けた。
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