ようやく涙が収まってきた千尋は、少し気恥ずかしくなり、体を離そうとした。
 けれど柊は、それを惜しむように千尋の手を引き、手首にそっと口付ける。
 どこかうっとりと恋人の口付けを受けていた千尋は、彼が幾度となく唇を寄せる部分を眺めて、そしてさーっと血の気が引いた。
 しまった。忘れていた。宮に着く前には癒しの術をかけておこうと決めていたのに、急いでいたおかげで、すっぱりさっぱり頭から消えていた。
 柊が執拗に口付ける場所には、立派な青痣が残っていた。
「柊っ!これはね、あの、転んじゃったのよ!?」
 手を引こうとするが、がっしりと掴まれていてびくともしない。訓練嫌いで、暇があれば竹間を漁っている彼の、どこにこんな力があったのだろう。
「残念ですが、姫。転んだ場合は、このような痣にはなりませんよ」
 軽やかに告げる彼の、目は全く笑っていない。それどころか、青白い怒りが、彼の目の奥で、チロチロと蛇の舌のように蠢いている。千尋の背中を、つうっと冷たいものが走った。
 柊はこちらの望みを無下には扱わない。むしろ、些細なことまで全て叶えてくれようとする。彼は決して自分を裏切らない。だから、自分が望めば、柊はどんなに憎い相手でも助けるだろう。
 だけど決して、ただでは済まさない。
「駄目よ、柊。駄目だからね!?」
「我が君はまことに寛大でいらっしゃる。姫の蒼天よりも広く美しい御心に抱かれる民は、永き幸福を得られましょう。ですが…、御身を害する者にまで優しくなさる必要はございません」
 ぎりりと、奥歯をかみ締める音が聞こえた。
「このような傷…!あなたを打ち据えた者など、生きながら業火に焼かれてしまえばよろしいのですよ。八つ裂きにしても飽き足りぬほどです」
 いつもの装飾もなく、率直に紡がれる怨嗟の言葉に、千尋はぎゅっと恋人を抱きしめる。
「柊が怒ってくれるだけで、十分だよ。あなたがそういってくれるだけで、痛かったことなんて忘れてしまう。大好きよ、柊。だから、お願い、こんなことくらいで何かしないで。仕返しなんて、考えちゃ駄目よ」
 九歳も年上で、頭が良くて、先見の明があって、狡賢くてしたたかで、余裕のある態度を崩さない人だけど、千尋は知っている。柊は本当は危うい人だ。引き止めなくては、彼は簡単に向こう側へ渡ってしまう。
「こんなことなどとは、おっしゃらないで下さい…!」
「柊」
「あなたと秤にかけられるものなど、在りはしないのですよ、我が君。どうか、御心に留めておいてください。──── あなたに何かあれば、私は豊葦原を滅ぼします。あなたを奪ったもの全てを焼き払い、千年の灰を降らせましょう」
 海色の瞳を見上げる。狂気に満ちた言葉を紡ぎながらも、その目は限りなく正気だった。
 この人はきっと、本当に、言葉通りにしてしまうだろう。そういう人だと知っている。知っていて、自分は、柊を選んだのだ。
 覚えておくわと囁いて、千尋は小さく背伸びをした。唇に唇でそっと触れて、千尋は再び彼を抱きしめた。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「……ご無事で、何よりでございます」






 寝台に腰掛け、留守の間の話を聞いていた千尋は、ふわとあくびをかみ殺した。
 隣に腰掛けている柊が、小さく笑う。
「そろそろお休みになりませんと」
「そうだね、そろそろ…。でも、その前におふ ──── !!!」
 いいかけて、千尋は目を見開いた。いま何か、とてもとても大事なことを思い出したような。千尋はギクシャクと首を回し、肩が触れるほど近くにいる柊を見つめて、ぱっと寝台から飛び降りた。
「いやああぁぁぁああああ!!!」
「我が君!?」
 千尋は裏返った悲鳴を上げながら、全力で扉近くまで逃げ去った。ああ、どうして失念していたんだろう!うっかりするにもほどがある!
「何事でございますか、我が君!?」
「いやあ!駄目、近づかないで柊!!それ以上こっちに来ちゃ駄目!!」
「駄目といわれましても…!」
 突然の拒絶に、冷静沈着が売りの宰相が、狼狽をあらわにしている。けれど、その珍しさを眺める余裕も、からかう余裕も、千尋には全くなかった。
 できる限り恋しい人と距離を取り、涙目になって首を振る。
「……入ってないの。布はもらってたし、顔と髪くらいのお湯も貰えたんだけど!」
「はっ…?入ってない、ですか…?申し訳ございません、我が君。何についてお話されていらっしゃるのか、伺ってもよろしいでしょうか?」
 こんなときばかり鈍い恋人に、千尋はますます目を潤ませた。
 こんなこと言いたくない。いっそ忘れた振りを続けるべきだったかもしれない。でも、もし柊に、…とか思われていたら立ち直れない。ああ、あんなに抱きつくんじゃなかった(拭いてはいたけど!)キスするんじゃなかった!(歯磨きだってしてたけど!)
「我が君…、お心を煩わせるものがあるのでしたら、どうかお教え下さい。必ずや、お役に立って見せましょう」
「そうじゃなくて…!だから、その……、お風呂に入ってないの!!」
 いつになく真剣な眼差しで柊がいうので、千尋はとうとう叫んでしまった。叫んでから、恥ずかしさのあまり、穴を掘って埋まって泣きたくなった。
「拭いてはいたのよ!?綺麗な布を貰えたし、お湯も貰えたし、牢の中でも身だしなみには気をつけて、清潔にしようと頑張ったんだけど、さすがにお風呂は入れないじゃない!!」
 もちろん、あの状況でお風呂には入れるとも思わないし、苦情をいうつもりも無いのだけど、そういう王様な部分とはまったく別のところで、わーんと泣きながら走り去ってしまいたくなる。これでもうら若き女性なのだ。好きな人の前では、いつだって綺麗にしていたいのに。お風呂に入ってないなんて致命的だ。もう終わりだ。短い恋でした。
 顔を覆ってうずくまると、押し殺したような、それでいて堪えきれないというような、楽しげな笑い声が聞こえた。
「……柊」
「すみません、我が君…っ!ふふっ、あまりにもあなたが可愛らしい事をおっしゃるので、つい…っ!」
 どこが可愛いのか。こんな致命的な失敗を犯してしまったというのに。
 けれど柊は、じっとりとした視線を送る千尋に構わず、近づいてきた。
「動かないで!来ちゃ駄目っていったでしょう!」
「これは、申し訳ございません。では私はここから一歩も動きませんので、どうかご安心を」
 含みのある言い方だ。いやな予感を覚えて、千尋は警戒心たっぷりに柊を睨みつけた。
「ですが、我が君。そのようなことで、私の姫を恋い慕う気持ちが損なわれるとお思いになるとは、心外の極みにございます」
 ひどく楽しそうな目をして、柊は大げさに嘆いて見せた。
「どのような時であれ、私の忠誠と恋情は我が君のものにございますよ。我が君より死を命じられたとしても、私は恍惚としてこの首を捧げるでしょう。あなたの下さる全てが、愛しくてなりません。── ですから、むろん、湯殿から上がられたばかりの、泉のように清らかで温かな御身も、この身の欲をかき立ててやみませんが、今この時のように、汗と埃を身に纏われた、風のように激しく熱を帯びた御身にも、誘われてならないのです。率直に申し上げますと、湯浴みなどさせずに、このまま御身を味合わせて頂きたく存じます。おや…、どうなさいました、我が君。そのように熱く見つめられては、つい命令に背いてしまいそうです。ふふっ、罪な御方だ…、この場であなたを組み敷いてしまいたい…」
 限界だった。いろいろなことが、千尋にはとても限界だった。こういう人だと知っていて、それでも愛しているけれど、それでも忍耐の限界はやってくる。
「──── 柊の、変態!!!お風呂に入ってくるから、絶対に付いて来ないでね!!」
 肩を震わせて、後ろ手で思い切り扉を閉める。
 扉の向こうからは、どうにもツボに入ったらしい笑い声が響いてきて、千尋はふるふると拳を震わせた。







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