冬の匂いが濃くなってきた。
高館の一室から庭を眺めて、将臣はそう思う。木々が葉を落とし、空気は乾いてきた。そう遠くないうちに、厚い雲から雪がちらつくのだろう。
「大社、か……」
先ほども九郎が憤っていた。鎌倉が今にも仕掛けんとするこの時に、なぜあんな物に人手をまわすのか。もっと他にするべきことがあるだろうと。
九郎の言葉は、ほかの者も多かれ少なかれ思っていることだろう。自分たちだけでなく、平泉の者たちにも同様の疑問があるはずだ。それでも諾々と泰衡に従うのは、それだけの人望があの男にあるという証なのか。
おおやしろ、と、将臣は今度は心の中だけで呟いてみる。そこに祭られている何かを想像すると同時に、一人の面影が、するりと心臓の近くを撫でる。この手を、離れていった人間。つないでいられなかった。いや、繋ぎ止められないことは、最初からわかっていたのかもしれない。
瞼の裏で、あの男が笑う。いつもと何一つ変わらない、人を喰ったような笑みだ。
将臣は、ふっと息を吐き出した。冬が訪れる前に、確かめなくてはならなかった。
夜の途中
屋敷の中で黙々と執務に励んでいた泰衡は、突然の客人の名を聞いて、微かに眉を上げた。ついでに舌打ちしたい気分になるのを、微かなため息で堪える。
御曹司や、その右腕である軍師ならともかく、ただの八葉の一人が ─── ただの八葉ではないことはすでに調べてあったが、現状を鑑みて、泰衡にとってはただの八葉だった ─── 自分を訪れる用件など、一つしかないだろう。神子に関することだ。
忙しいといって追い返そうかとも思ったが、一瞬の沈黙ののちに、泰衡は客人を迎え入れた。面倒ごとは、先延ばしにしても仕方がない。
案内とともに入ってきたのは、薄く笑みを浮かべた男だった。ようと、まるで仲間内に対してしているような挨拶をされて、泰衡は沈黙する。無言のまま席を勧めれば、青年は気後れのない様子で腰を下ろした。
「それで、ご用件は?」
言葉遣いだけは丁寧に尋ねる。どうせ、神子への態度が礼を失しているだとか、そんなところだろう。むろん、泰衡に改めるつもりはなかった。八葉は神子を中心に考えるだろうが、こちらの中心はあくまで平泉だ。うんざりとした顔を隠さずに向ければ、青年は軽く笑った。
「大社のことで、ちょっと聞きたいことがあってさ」
「お客人には関係のないことだ。用件がそれだけなら、お引取り願おう」
「あそこで祭っているのは、 ── か?」
息は呑まなかっただろうと思う。だが、驚きは確実に見せてしまっていた。目を見開き、見開いたあとで失敗を悟る。なぜ、この男が知っているのか。なぜ、それを尋ねに来たのか。
ぞっと、二の腕が粟立つのがわかる。この男を放置していたのは失敗だった。
「やっぱそうか……。じゃあ、ついでにもう一つ聞いてもいいか」
「まて。貴様、どこでそれを聞いた?」
どくりと、音を立てて血が流れる。手のひらがじっとりと汗ばむ。いざとなれば、この男の口を封じなくてはならない。だがなぜだ。なぜ、銀しか知らぬはずの情報を、この男が握っている。
一体どこから漏れたのか。思考をめぐらせる泰衡の前で、男は事も無げにいった。
「俺が誰だか、あんただって知ってるんだろう?」
「ああ ─── ……」
息を詰めて、動揺を押さえ込んだ。侮っていたつもりはない。だが、軽んじてはいたかもしれない。
平家の、還内府。
「鎌倉と戦ってたのは、平泉だけじゃない。だとすれば、敵の情報を集めてるのも、平泉だけじゃねえだろ?ま、俺は、そっちはあんまり詳しくないんだけどな」
そこで男は、わずかに声を落とした。
「詳しい奴に、教わったんだ。鎌倉には厄介な守りがついてて、その守りを破れるとしたら……」
「知っていたならば、なぜ、手段を講じなかった」
男の言を遮り、口を付いて出たのは、純粋な疑問だった。
泰衡が大社の神を明らかにしない理由は、別段、秘密主義なわけではない。単に、誰も信じないからだ。日頃は信心深くとも、いざ戦となれば、神の力に縋るなど、臆病者よと一笑に付されて終わりだ。誰も、真実この戦に神が関与しているなど信じはしない。
だが、男の口ぶりからは疑いの余地もなく、ただの事実を話しているようだった。
「なぜ、神の名すら知っていて、平家は何もしなかった」
「理由は色々あるが……、一番の理由は、人で負けてたからだな。兵力の差や、政治的なもんで、うちは劣勢だった。人で負けてんのに、神に勝ってもしかたねえだろ。それに、うちであんたと同じことが出来る奴がいるとすれば、それはたぶん、あいつ一人だ……。人の戦があるってのに、そんな事で失える奴じゃなかったんでね」
失える奴じゃなかった、その言葉に泰衡は深く息を吐き出した。
取り繕おうとすることは、もはや無意味だと悟る。泰衡は、腕を組み、男を値踏みするように見つめた。
「 ── それで?そこまでご存知の上で、用件はなんだ?」
「……知ってるんだな?」
泰衡は、ふんと鼻を鳴らした。男は部屋に入ってから初めて、飄々とした物言いを崩していた。
男の深く静かな声を、泰衡は嘲笑する。
「それがどうした」
「いや……、確かめたかっただけだ。知っているならそれでいい。言いふらしたりはしねぇよ」
「それを信用するほど、俺が間抜けに見えるのか?」
「間抜けには見えねえけど、信じてくれていいぜ。誰にもいわねえよ、九郎にも、望美にもな」
そういって、平家の還内府は、どこか疲れたように笑った。
「いっても、どうしようもねぇだろ。どうにもならねえ。だったら、黙ってたほうがいい」
泰衡は、その言葉で初めて、目の前の男を理解した。
─── この男は、敗軍の将なのだ。
何とかなるかもしれない。そんな言葉を本気で口にできるものは、優位にあるものだけだ。神の加護や、時の流れとでもいうものを味方につけ、己の手に勝機を握っているような者だけが、そんなたわ言を口にしても許される。
だが、何もないものは、万が一の何かになど縋らない。そんなものに縋っていたら破滅する。己の才覚のみを頼み、数少ない手札の中で、優先順位の低いものから犠牲にしていく。そうやって、守るしかない人間もいる。
「確かめたかっただけだ。あの神の存在を知ってるかどうかで、これからの戦いはずいぶん違ってくるからな。あんたが知っていて、覚悟もしてるっていうなら、俺がいうべきことは何もない」
「……有川といったか」
泰衡は、あえてそちらの名を呼んだ。青年は屈託なく、「ああ」と頷く。
「お前ならどうする。お前が、俺の立場であったら」
低い声の問いかけに、有川は笑った。それは無理のない、自然な笑顔だった。
「あんたと同じことをしたさ」
「そうか ──── ……」
泰衡は、微かに笑った。その言葉を、心のどこかで求めていたのだと知った。陽の下を行く九郎からは、聞けないであろうし、聞きたくもない。だが有川は敗軍の将だ。泰衡の選択を、いまこの時に肯定できるとしたら、きっとこの男しかいなかったのだろう。
お前はなにを失ったのだ。そう思って、だが泰衡は問わなかった。他人が聞いていい事ではない。
(俺は命を失うだろう)
それが代償だ。死にたいわけではない。当然だ。死にたくなどない。だが、他にすべがない。
加護を持たぬ身で、それでも何かを得ようとするなら、何かを引き換えにするしかない。今回の場合は、ただそれが、自分の生だったというだけのことだ。
この男とて、やはり、何かを失ったのだろう。平家を守ることと引き換えに、何かを失い、それでも生きている。引き換えにしたものの重さに、痛みに、のたうち回っても。
邪魔したなといって、有川が立ち上がる。泰衡は黙ってその背を見送った。口を封じようとは思わなかった。その必要はなかった。
あの男は、生涯、口外しないだろう。
将臣は、一度だけ、屋敷を振り返った。
泰衡は命を失うだろう。わかっていて、将臣には何もできない。できることはただ、口をつぐむことだけだ。
知盛を失ったときと同じように。
将臣は、浅い息を吐き出して、奥歯をきつく噛み締めた。何かを失ってもなお、守りたいものがある。それは事実だ。けれど、本当は、秤にかけられるような存在ではない。
秤にかけて、どちらかが軽いといえるほど、軽くはない。軽いわけがない。どちらも重くて、重すぎて、失うことが耐えられないほど大切で。
けれど、喪失の絶望から目を逸らしてでも、どちらかを選ばなくてはならなかった。
(……せめて、平泉が、長く平和であればいい)
泰衡が、己と引き換えに選んだものであるなら、せめて、この地が末永く幸いに満ちていればいい。
(俺も、ちゃんと、幸せになんねーとな)
歯を食いしばりながら、将臣はそう思う。選んだのは自分だった。知盛と引き換えに、みなの命を得た。自分は、本当は、死んでも良かったのだけど、こうして生きているのだから、今さら死ぬことなどできない。それは知盛への侮辱だ。
生きて、生きて、生きて、幸せで死にそうってくらいに幸せにならなくては、なんのためにあの男が死んだのかわからない。なぜ、今ここに、自分の隣に、知盛が立っていてくれないのかが、わからなくなるじゃないか。
だから、将臣は生きる。生きて必ず幸福になる。たとえ今、どんなにこの胸が痛もうとも。
-終-