初めは夢だと思っていた。
一晩たって、恐ろしくなった。
二晩が過ぎて、元の世界へ戻る方法を必死で考えた。
けれど、三度目の夜を迎えた頃には ──── 飢えを満たすことしか、考えられなくなっていた。
始まりの手
肺を振り絞るようにして吐き出した息が、朧な三日月に晒されて消えていく。
息を吐くだけで喉には鋭い痛みが走り、手足はもつれて、倒れこみそうになる。将臣はそれでも力を振り絞って、人影のないほうへと走った。
まるで溺れているような走り方だ。朦朧とする頭が、そんな事を思う。そんな場合ではないというのにくだらない事を考えてしまうのは、怖いという感情さえ凍りついてきてしまっているからだろうか。
この世界へ放り込まれて、ひと月に近い時が経っていた。ひと月だ!たったの、ひと月。その軽さに、将臣は笑いそうになる。
元の世界にいたときは、ひと月なんてあっという間だった。やりたいことはたくさんあって、興味を引くものは山ほどあって、温かい家があって、家族がいて友達がいて、大事な幼馴染がいて……命を脅かされる心配なんて、しなくてよかった。笑っている間に、ひと月なんてあっという間に過ぎてしまうものだった。
けれど、このひと月で、将臣はひどく変わった。手も足も、目に見えて細くなり、肌はがさがさに荒れて、目だけが熱に潤んでいる。殴られた場所に貼る湿布もなければ、切りつけられた場所に巻く包帯もなくて、傷口は治るより早く悪化した。それでも、体中のあちこちの傷がぐずぐずと膿んでも、将臣には手当てのしようがなかった。
どうしてだと、思った。なぜ自分がこんな目に合わなくてはいけないのかと、初めの内は考えた。けれどすぐに、そんな事を悠長に考えていられる余裕はなくなり、将臣は何よりも、生きる事を考えなくてはならなかった。
生きるためには、最低限食べるものが必要で、食べるものを手に入れたかったら、働くしかない。だが、こちらの世界のことなど何一つわからず、身よりもなく、身元を保証してくれる人もいない将臣を、雇ってくれる場所などどこにもなかった。ただでさえ、こちらの世界は戦で荒れていて、流浪する人間も多く、誰もが警戒心を強くしていた。将臣が事情を正直に話せば店の外にたたき出され、偽りの身の上を語ってみても、やはり、露骨に不審そうな目を向けられるだけだった。
ふらつく足で人里を離れ、山に入って、毒かもわからない木の実を食べた。川に口を付けて水を啜り、飢えに耐えかねて草の根までかじった。それでも、腹痛に苛まれて夜を過ごすのはまだいいほうで、明らかに人ではない、獣の気配や、鳥の羽ばたく音に怯えて眠れないこともしばしばだった。
だが、耐え切れずに人里へ戻れば、今度は人に脅かされた。騙そうと甘い言葉を囁いてくる連中はまだマシで、問答無用で殴られたり、時には切りつけられることさえあった。
荒れているのだ、この世界は。世の中が荒れて、人の心も荒れている。将臣はそれを、骨身に沁みて実感していた。見上げる空がどれほど青く澄み渡っていても、心までは平らになれない。
ひと月が経つ頃には、将臣は、心身ともにボロボロだった。たぶん、このままでは、そのうち死ぬだろうと思った。木の根元に座り込み、ぼんやりと空を見上げながら、そう思った。ここ数日、ろくに何も口にできていなかった。そうでなくとも、あちこちに負った傷は痛み、体はひどくだるく、発熱はいつから続いているのかすら覚えていなかった。
空を見上げて、死ぬのだろうと思ったときに、ふいに、涙がこぼれた。ここに来てから、初めての涙だった。死にたくなかった。死ぬのだろうと、それが予感ではなく確実な未来だとわかってしまえばしまうほど、死にたくないと思った。はぐれてしまった二人のためなんて、きれいな理由じゃない。ただ自分のためだ。理由なんてない。生きていたい。死にたくない。俺はまだ、生きていたい。こんなところで死にたくない。ただ、それだけで。
そうして将臣は、澄み渡る空の下で、一つの決心をしたのだ。
この大きな屋敷を狙ったのは、この家なら、少しぐらい盗まれても困らないだろうと思ったからだ。
奪うことに変わりはないのだから、言い訳にもならない。それでも、自分と同じように困っている相手から奪うことはできなくて、将臣は、リスクの高さを理解しながらも、その大きな屋敷に忍び込んだ。
本当は、奪うことはしたくなかった。どんなに腹が減っていたって、その一線を越えてしまったら、それはもう有川将臣じゃない。自分を失ってまで生きることはできない。生きることに価値があるとしたら、それは自分が自分であるからこそだ。
けれど将臣は願ってしまった。青空の下で心を決めてしまった。生きる為に生きるとしたら、それはもう有川将臣ではなく、ただの獣と変わりないと知りながら、それでも、生きたいと、こんなところで死にたくないと、願ってしまったのだ。
(だけど、やっぱ ──── 駄目かもな……)
素人の稚拙な侵入は、すぐにばれた。剣を抜いた連中に追われて、追われて、必死で走ってきたが、ここがどこだかもうわからない。まだ、屋敷の外に逃げ出せていないことだけは確かだが。
こうなると、望美と譲が一緒ではないことだけが、ただ一つの救いのように思えた。二人はどうしているだろうと、ろくに動かない頭で考える。この世界にはいないはずだ。何の証拠もないのに、何故か確信だけがある。ここに二人はいない。けれど、譲はいつだって望美の傍にいるはずで……なら、きっと大丈夫だ。
庭の木立らしき場所を抜けると、御簾越しに揺れる明かりが見えた。ぽつんと、小さな、まるで物置小屋くらいの大きさの家が建っていて、その中に誰かがいるらしい。この家の住人だろうか。将臣は、まるで灯りに誘われるかのように、ふらふらとそちらへ歩いていった。
もう、これ以上、走ることはできそうになかった。体の中で痛まない場所はないほどに、全てが痛みを訴え、頭は泥を押し込まれたかのように働かなかった。それでも、痛みを手放してしまえば終わりだと知っていたから、将臣はただ、崩れ落ちそうになる体を、必死で前に進めた。
(ここが、ゴールなのか……?)
自分の人生の、おしまいがここなのか。そう思うと、もはや涙も出てこなくて、将臣は小さく微笑んだ。死にたくないと思って心を決めたというのに、結局結果は変わらないのか。それなら、まだ、盗みを働く前に見つかってよかったのも知れない。
小さな家の小さな戸は、意外なほどすんなりと開いた。中には一人の老人が座っていて、驚いた顔で将臣は振り返った。
「あ……、すいま…せん……」
当然の反応だというのに、それすら考えが及ばず、ただ明かりを目指してきた将臣は、かすれた声で謝罪した。老人は、将臣は見つめたまま、ぴくりとも動かない。怯えさせてしまったようだ。当然かと、将臣は浅いため息をついた。こんな事も考えられなかった自分は、本当に、そろそろやばいらしい。
物置のようだと思った家は、茶室のようだった。テレビの中でなら見たことのある茶道具一式が、老人の前に並んでいた。使用人には到底見えないから、この屋敷の人間なのだろう。
将臣は、だるさとめまいに耐えながら、ゆっくりと頭を下げた。
「すいません……。すぐに……」
出て行きますから、というより早く、物音が聞こえた。誰か、大勢の人間が、こちらに駆けてきているような足音だ。とうとう見つかったらしい。
(終わりか)
将臣は、一度だけ目を閉じた。恐怖よりも、安堵のほうが強かった。そのことが少しだけ悔しくて、将臣は微かに笑った。生きていたかった。死にたくなかった。その気持ちは真実だ。真実だけど ──── ……もう、楽になってもいいだろうか。
楽になる事を、自分に許してもいいだろうか。
「そのような顔をするでない」
ぱちりと将臣は瞬いた。気がつけば、老人は将臣のすぐ近くに立っていた。
「そなたがどこの手の者かは聞かぬ。これがそなたの主の謀りなのだとすれば、してやられたというしかなかろうな。だが、それでも……その顔で、そのように苦しまれては、捨て置くことなど到底できぬわ」
「あの……?」
いったい何をいっているのか。いぶかしんだ将臣の頬に、老人の手がそうっと触れた。将臣は思わず息を飲んだが、体を引くことはなかった。疲れすぎていて、そんな僅かな動作すらできなかった。
立っているのがやっとな将臣の頬を、老人の手がそっとさする。それは昔、祖母が生きていた頃のような、優しい触れ方だった。まがい物ではない、本物の温かさだった。将臣の体から、とうとう力が抜けた。
がくりと倒れこんだ体を、思いのほか力強い老人の腕が支えた。見知らずの老人に抱きかかえられるようにして、将臣は膝をついた。無理だった。これ以上立っていることはできなかった。もういいと思った。最後の最後で、温かさを思い出すことができた。生きる為に生きようとも思ったけれど、獣ではなく、有川将臣として死ねるなら、それでもいい気がした。全身の強張りをといて、心置きなく眠ってしまおうかと思ったとき、戸の外から声が聞こえた。
「夜分に失礼いたします!申し訳ございませんが、こちらに不審な者が ──── 」
びくりと跳ねた体を、老人の手が宥めるようにさする。その心地良さに溺れながらも、これ以上迷惑をかけてはいけないと、体を起こそうとすれば、意外なほど強い力で押さえ込まれた。
「そのような者はおらぬ。それよりも、ここには誰も近づけるなと命じたであろうに、この騒がしさは何事か!」
「も、申し訳ございませぬ……っ!」
老人の一喝に、ざわめいていた戸の外が、水を打ったように静まり返る。そしてそのまま、波が引くように人の気配が消えていった。
将臣が驚いて顔を上げれば、老人はひどく優しい目をしていった。
「いったであろう。どのような謀り事であれ、そなたを捨て置くことはできぬとな。恐れずともよい、眠れ。あとで薬師を用意させよう。熱があるのだろう?それに、怪我もしておるのか」
ぼんやりと頷けば、老人はぽんぽんと将臣の頭を撫でた。
「そなたは今この時より、我が一族の客分よ。誰もそなたを害することはできぬ。心煩わすことがあるなら、あとで話を聞こう。今はただ、ゆるりと体を休めるがよい」
たぶん、信じたわけではなかった。
このまま目を閉じたら、永遠に起きることはないんじゃないかと、ちらと思った。
それでも、ふれる手は暖かく、見つめる目は優しくて。
将臣は、その温かさに抗えず、眠りに落ちた。
一度は書いてみたい拾われ話です。清盛と将臣の親子も大好きです。親子というより、おじいちゃんと孫という感じもしますが。
将臣は、もし時空を越えられて、平家に拾われる前に戻れても、それでも平家に行って還内府になるんだろうなと思います。その道の険しさを知っていても。