こころ残りがあるわけじゃない。
 いえなかった言葉や、果たせなかった約束があるわけじゃない。
 後悔しているというのも違う。
 たぶん、俺はただ、悲しんでいる。思い出だけがしんしんと降り積もり、世界を灰色に染めていく。
 自分がこんなにも悲しいのだということに初めは驚いたが、今では慣れた。失ってから、どれほど重い存在だったかに気づいたというわけじゃない。それは、もっとずっと前からわかっていた。
 わかっていたけれど、他に選べはしなかったのだから、仕方ないと割り切ったはずだった。あの世界に残っていたら、割り切れたままだったんだろう。あそこでは悲しむよりも考えるべきことがあったから。
 こちらの世界はあちらの世界より時間の流れが穏やかで、生きる事も生かす事も考える必要がない。そうやって、ぼんやりしている間に、あっという間に心は思い出に奪われた。



春解け



「こっちだ、有川」
「師範」
 改札の向こうで軽く手を振っている師範の姿を認めて、足を速める。休日といっても、この辺りのローカル線は、さほど混雑していない。二つしかない改札を抜けて、待たせてしまった師範に頭を下げた。
「遅れてすいません」
「いや、ぴったりだぞ。お前、性格に似なくて、意外ときっちりしてるんだな」
「性格に似なくてってなんですか」
「そのままの意味だ。大雑把なくせにきっちりしてる」
 思わず笑いがこぼれた。師範の評価を譲が聞いたらなんというだろうか。きっちりしている部分は、あいつの小言の賜物といえなくもない。望美の遅刻なら一時間でも三時間でも快く許せる奴だが、俺が一分でも遅刻しようものなら、ため息と説教と冷たい視線のコンボだった。
「悪いが、少し歩くぞ。バスを待ってると日が暮れるしな」
「はい」
「かといってタクシーに乗る金なんて、逆さに振っても出てこないし……」
 師範が遠い眼で、まだまだまぶしい太陽を見上げる。俺はさりげなく目を逸らした。
 うちの道場は、小学生からお年寄りまで歓迎しているが、実際通っているのはダイエット目的の四十代ばかりだ。設備が整っているとはお世辞にもいえない古い道場なので、子供なんて親が通わせてくれないし、お年寄りは寒がってきてくれないし、きてくれるのは仕事帰りのオジサンばっかり……ということらしい。俺としてはそのほうが気が楽なんだが、師範は生活もかかっているからだいぶ必死だ。こんなおかしな計画を実行するくらいには。
 師範の腕が、ぐっと俺の肩に回された。
「若き美貌の剣士!白熱のライバル!宿命の敵!うんうん、いいと思わないか、有川!」
「…最悪だとは思うぜ、師範…」
「そうか、お前もいいと思うか!そうだろうそうだろう、お前とあちらの方のツーショットを『月刊・武士道』に載せてもらえば!うちの道場も世界に名が響くに違いない!」
 どんなに頑張っても世界にまでは響かねえだろ、と、心の中だけで突っ込んでおく。
 『月刊・武士道』というのは師範が愛読している、剣道や空手などの武道全般を扱った雑誌で、いうまでもなくマイナー誌だ。俺としては雑誌に載るなんて勘弁してもらいたいが、まあ、あの誰が買っているのかよくわからないレベルの雑誌なら、被害は最小ですむかと諦めてもいる。
 だが、それにしたって美貌の剣士はないだろう。美貌っていうのは、惟盛みたいに、目にしただけで感動できるようなきれいな奴をいうんじゃないか。実際俺は拝んだね。初めて惟盛にあったときに、こりゃすげえと思って、つい拝んだもんな。あの頃の惟盛は理性の鬼のような奴だったが、それでもものすごい顔をされた。そして惟盛はそれでも美形だった。
 けど、顔だけなら忠度殿の若い頃を思わせるような師範は、この計画にノリノリだった。俺が何度水をさしてもまったく気にせず、『知り合いの道場にいる凄腕イケメン若手』とセットで俺を売り出す!と意気込んでいた。売り出すって何だよ芸能人かよ、と、俺はため息を我慢しつつツッコミを入れまくったのだが、最終的には師範命令で決行された。今日はこれから、合同稽古という名目の撮影会だ。
 背中に背負った胴着と木刀の一式がぐっと重くなったようで、俺はひそかに息を吐いた。万が一にもないとは思うが、その写真が譲や望美の眼に触れてしまったらと考えると、すぐさま足を返したくなる。
 きっと、その写真の俺も、上手く笑えていないだろうから。
 大学進学とともに実家を出て、二年間一度も家には帰っていない。譲の受験のときも、合格発表も、電話越しだった。会いたくないわけでも、傍にいたくない訳でもないが、会わない方がいいとわかっている。
 海洋学なんか面白そうだよなといっていた俺が、戻ってきてからはあっさりと進路を変え、日本史を専攻できる大学を選んだ。
 ガキの頃、祖父さんに無理やり道場に通わされて以来、剣道嫌いだった俺が、戻ってきてからは毎日のように道場へ通っている。
 その事実だけでも、引き摺っていることがあまりに見え透いているというのに、極めつけは笑顔だった。一人暮らしをすると話した時のことだ。俺に、望美が泣きそうな顔で抱きついてきた。オイオイ景時がいるんだぞと、茶化しても離れなかった。一人になっちゃ駄目だよ、お願いだから独りにならないで。望美はそういい募り、景時と譲は、痛みを堪えるような顔をしていた。俺は、大馬鹿なことに、その時になってようやく、上手くできていると思っていた作り笑いが、あっさり見抜かれていた事を知ったのだ。
 今でも心配をかけていることは知っている。だけど俺は、吹っ切るどころか、吹っ切ることが必要なのかどうかすらわからなくて、このまま思い出とともに生きていくことの何が悪いのかがわからない。このままじゃいけない、という気にすらならない俺が、あいつらの傍にいるわけにはいかない。俺にできることは、あいつらに馬鹿げた罪悪感を抱かせないためにも、距離を置くことだけだった。
「有川……そんっなに、いやか?」
「えっ?」
「そんなに盛大に眉間に皺を作るほど、いやだったのか?」
 心配そうに伺われて、俺はようやく我に返った。
「ああ、いや、違いますよ。その件は諦めました。いやかといわれれば、いやですけどね?」
「いやな事を乗り越えてこそ、一人前の武士だと気づいたんだな!」
「ちがうっつの。師範、勝手に話を作らないでくださいよ」
 木刀代わりの手刀で思い切り突っ込んだが、師範のきらきらした笑みは崩れない。オッサンがきらきらしててもぶっちゃけキモイです、とでもいってやったら眼を覚ましてくれるだろうか。
「まあまあ、有川。安心しろ。あっちのイケメンも本物のイケメンだからな。十人中十人が振り返るレベルだったぞ、楽しみにしておけよ」
「何に安心しろっていうんですか。イケメンたって、男じゃ見ても楽しくねえし。それより腕前のほうはどうなんですか」
 尋ねると、師範がにやりと笑った。
「期待していいぞ。顔は互角だが、腕は確実にお前より上だ」
「言い切りますか」
「言い切るね。俺も一試合見せてもらっただけだが、鳥肌が立ったよ。速さも強さも凄かったが、一番印象的だったのは、あの彼が、まるで本気じゃなかったことだな。子供相手に適当に遊んでいるというか、眠たそうですらあった」
「へえ」
「だが、どことなくお前の剣に似ていたな」
 思わず隣を見たが、師範は前を向いたままだった。
「俺はいつも本気でやってますよ?」
「そういう意味じゃない。なんというか、うん、そうだな……、お前は、剣道部に入ろうとはしなかっただろ?高校のときも、今も。段位を取ろうともしないし、そもそも、面と篭手と胴をつけて竹刀を振るう気はないんだろう、おまえ」
 俺はなんとも答えられずに、ただ目を師範の横顔から逸らした。
 俺が剣道を続けるのは、たぶん、繋がりを求めているからだ。体から消えてしまった全ての傷跡や、血を吐く思いで培ったはずの剣の腕を、取り戻したいと願っている。あの頃のように戦うことは二度とないだろうし、いくら木刀を振るっても、あの大太刀を纏っていた頃の自分には戻れない。わかっている。だが、それでも。
「あの彼も、お前と似たような感じだったな。趣味とか、自分を鍛えるためって感じじゃなくて、変な言い方だが、生きる為に磨かれた剣のようだった。お前もときどきそんな感じだ、有川」
「生きる為、ですか……」
「どうだ、興味がわいてきただろ?イケメン剣士ユニットを組みたくなってきただろ?」
「ならねえよ。つうか、今の話、師範の妄想じゃないだろうな?」
 冷ややかに見つめると、師範はわっと顔を覆って泣き出す振りを始めた。ああ、マジでウザイですといってやりたいが、ここは俺が大人になるしかないんだろう。
「ああ、もう、わかりましたよ。剣士ユニットでも何でもやりますよ、任せてください」
「有川、お前ならそういってくれると信じてたぞ、俺は!」
 そんなところで信じられても困るんだが。俺は元々そんなにお節介でもお人好しなたちでもない。
 それでも財政難な道場を放っておけないのは、どこか、みなで畑を耕した頃の平家を思い出すからだろうか?


 軽く三十分は歩いてたどり着いたのは、うちの道場と張るほどのボロい道場だった。なるほど、これなら師範とタッグを組むのもわかる。
 お邪魔しますと靴を脱ぎ、道場に上がらせてもらう。すると、師範よりは若そうな、薄茶色の髪をした男が、道場の奥からものすごい勢いで走ってきた。
「イエーイ!」
「いえーい!」
 声高に叫ぶと、師範より若そうな男と師範は、パンと手を合わせて挨拶した。
 どこの世界にイエーイで挨拶する四十過ぎのおっさんがいるんだよ、と突っ込みたいが、突っ込んだらもはや、俺の負けのような気がしてきたから恐ろしい。
「おお、この子!?この子が君のいっていた可愛い子かい!?」
「おうよ、ぴっちぴちの二十歳だぜ」
「いいねいいね、これならいけるね、美貌の剣士ユニット!煽りは“現代の沖田&土方”でどうかな!?」
「いやー、これからは竜馬の時代だろ。“竜馬の意思を継ぐ若き武士たち”でどうよ!?」
「どっちもマジで勘弁してください」
 俺は耐え切れずに、話に割って入った。何が竜馬だ、何が沖田だ、そこまで恥ずかしい思いをするなんて聞いてねえよ!
「ああ、ごめんね。こういうのは本人たちで話し合って決めたほうがいいよね」
「あの彼はもう来てるのか?紹介したいんだが…」
「あー、来てるんだけどねえ……」
 言葉を濁すと、こちらの道場の師範代だろう男は、道場の奥に向かって声を張り上げた。
「おーい、お客さんだよ!いつまで寝てる気なんだ!そろそろ起きなさい!」
 おいおい昼寝中かよ。いや、もしかして、不貞寝か?こんな恥ずかしい企画に巻き込まれたくなくて寝た振りしてるとかか?
「起きろといってるだろう!お、き、ろ!」
 ずかずかと大股で進んでいく師範代らしき人のあとについて、俺と師範も道場の奥へ進んでいく。ひんやりとした空気の奥に、マットと、なぜか毛布らしきものがあり、くだんの人物はその中らしい。やれやれと思いながら近づいてくと、師範代らしき人が毛布を引っぺがすより先に、毛布の中身が動いた。
 まず見えたのは指だった。その細くて長い、整った指先は、あっけなく俺の身動きを封じた。バカな。指先一つ眼にしただけで動けなくなるなんて。似ているだけだとわかっているのに。俺は俺を嘲笑い、一度目を閉じて、そして開いたときには本当に動けなくなった。

 どうして。
 なんでだ。
 俺はいつの間に眠ってしまったんだ。
 それとも、これが、他人の空似だっていうのか。
 それでもいいと思うほどに、お前に似ているのに?

 美しい眼、白銀の髪、冷たい表情。俺が失ったものの全て。
「とも…も、り……」
 かすれた声が、喉からこぼれる。男は冷淡な眼差しを不意に緩めて、俺を見た。
「俺の名をご存知とは……、どこかで会ったことがあるか……?」
 体から、がくりと力が抜けるのがわかった。
 膝をつき、座り込み、俺はただ、目の前の男を見つめた。

 どうすればいい。どうしたらいい。ちくしょう、叫びだしたい。
 俺は、俺は今、お前でなくともいいと思ってしまっている、知盛。この男がお前でなくとも、俺の目の前にいてくれるなら。海に消えずに、還ってきてくれるなら。隣にいてくれるなら俺は、お前でなくとも、お前がいればいいと。ちくしょう、ちくしょう、知盛、どうしろっていうんだ。

 俺は、それでもずっと、お前に会いたかった。
 夢でも幻でも、幽霊でも怨霊でもいいから会いに来いと、罵っては眠れない夜をやり過ごすほどに。
 お前に、会いたかったんだ。









本当は遙か1や2のキャラをゲストキャラ的に出せたらよかったんですが、ハイテンションな感じにしたかったのでオリキャラにしてしまいました。苦手な方はごめんなさい。