男は、ひとり屋敷を出て行った。
夜陰にまぎれて、音もなく、気配も消して、ただひとりで外へ向かう。
それを、目でもなく耳でもなく感じ取って、彼はため息を一つついた。
そして彼もまた、屋敷を抜け出した。
斜影
時は静寂の眠りに落ちていたが、空には星が瞬いていた。男の青みがかった髪が、薄闇の中に溶けては、また浮かび上がる。
昼にはにぎわう大路も、いまは野犬の姿一つ見当たらず、しんと静まり返っている。まるで、ただひとりゆく男のために、夜の眷属でさえ道をあけたかのごとく。
男は、夜道を惑うことなく歩いていたが、その足取りは、お世辞にも軽やかとはいえなかった。疲弊しきった体が、目には見えない何者かの手で引きずられてでも行くようだ。
そこまでして歩かなくてはならないのかと、知盛はどこか哀れに思った。
むろん、そのような哀れみが自分にふさわしくない事を、彼は重々承知していたが。
この薄闇の中で、男を引き摺り、獄に囚われた者のごとく歩かせているのは、彼の為した所業であり、男の築き上げたものであり、男に関わる者たちの望みの結果だった。
誰も責められはしない。誰も呪えはしない。少なくとも、男はそれを知っている。
やがて人家を離れ、深い木々の匂いと、微かな水音だけが周囲を満たすようになってから、男はようやく足をとめた。
わずかに開けた場所に立ち、眼下を見下ろす。夜の散策にはいささか長すぎる距離を歩いたおかげで、男は美しい都をその眼に収めることができているようだった。星明りとかがり火に浮かび上がるかの地は、静寂の眠りに落ちている。焼け跡から煙がくすぶる事はなく、争いに負けた弱者のすすり泣きが響き渡る事もない。
美しい都、美しい福原。だがいま、男の目に映っているものは、真実、都であろうか?知盛は、どこか嘲笑うように思う。
お前の目に映っているのは、この平穏がお前に要求した代償のほうではないのかと。
疲弊した体で、長く歩いてきていても、男の息は微かにも乱れることはなく、むしろ静かだった。静かで、密やかで、そのまま宙に溶けていけそうなほどだ。
うつろな気配で立ち尽くす男の背に、知盛は無造作に歩み寄った。もはや気配を隠す必要はない。もともと、男とて、気づいていただろう。拒むことがなかったのは、それだけの力さえ残っていなかったからか。
男の真後ろに立つ。それでも男は、声一つ立てず、ただ密やかだ。知盛は微かなため息をついて、腕を回し、男を後ろから抱え込んだ。
さすがに、びくりと、男の肩が揺れる。知盛は構わずに、左腕で抱え込んだまま、右手で男の目を覆った。
「……離せ」
微かな声だ。戦場での鋭さも、強さもない。そのような声に、知盛が耳を傾けるはずがないと、男も重々承知しているだろうに。
「離せ」
一度目よりは強く、繰り返される。それでも知盛は、男を抱え込んで離さなかった。
男は、とうとう、呻くようにいった。
「離せ。でないと、お前を殺したくなる」
白刃のきらめきを隠し持っているような声だった。その切っ先を、容赦なく喉元へ突きつける響きだった。知盛は笑った。将臣は、わかっているようでわかっていない。
この声の響き以上に心地良いものを、知盛は知らないというのに。
「お前が、俺を、殺す……?」
くっと喉がなる。自然とこみ上げてくる笑いに、知盛は唇をゆがめた。
「それは、いいな……。楽しめそうだ……」
将臣が、真実、知盛の命を欲したなら、それはさぞ楽しい宴になるだろう。将臣の何もかもは、知盛には無い物でできており、それゆえ知盛を興奮させるのだ。
もしも将臣が敵であったなら、この男と命の奪い合いをすることは、知盛にとって生きる価値の全てとなっていたかもしれない。
「だが……、お前は俺を、殺さない、だろう……?」
殺せないのではなく、殺さない。
そう、男の首筋に囁けば、とうとう、繰り糸すら切れたかのように、将臣はがくりと頭を垂れた。
緩やかに、将臣の全身から力が抜けていく。知盛はそれを左腕一本で難なく支え、右手はなおも、将臣の視界を塞ぎ続けた。
将臣は知盛を殺さない。なぜなら将臣はわかっているからだ。平家には知盛が必要な事を。そして、知盛を殺したところで、将臣が愛しているものは何一つ取り戻せはしないのだという事を。
それは残酷なまでの自制心だった。惟盛の報告を受けたあとも、将臣は己の場所を動きはしなかった。還内府としての立場も何もかもを捨てて、戦場で再会した幼馴染と弟を探しには行かなかった。彼らの死を聞かされても、嘘だと叫ぶ事もなく、せめて亡骸だけでもと半狂乱になる事もなかった。
そのどちらをすることも、無駄だと悟ってしまっている絶望だけを瞳に宿していた。
「こんな……、はずじゃ……」
目をふさがれたまま、将臣が喘ぐようにいう。こんなはずではなかったと、空になった両手を見つめる幼子のような空虚さと、そう呟く己さえ許せぬという憎しみを込めて。
九郎義経を屠り、源氏の大軍を下し、平家は生き残るだろう。かつて程の栄華を取り戻すのがいつになるか知れないが、少なくとも滅びへの道は断ち切られたことが、知盛には肌で感じ取れる。
平家一門は、還内府の元で安寧を得るだろう。
──── だが、還内府自身の安寧は永遠に失われた。
将臣の唇が、かすかに上下する。息を吐き出す事もできぬまま呼んだのは、かの女の名前か。それとも弟の名前か。その両方であったかもしれない。
「見るな、有川」
耳元に唇を寄せて、知盛は囁いた。
後ろから抱き抱え込んだ将臣の体は重い。眠っている者の体がそうであるように、意志の抜けた体は地に落ちようとする。だが、この男が落ちるにはまだ早いだろう。永遠を得ることも、まだ早い。
「見るな」
絶望を直視しても、将臣は立ち止まるまい。心を殺してでも、歩き続け、笑顔を持ち続けるだろう。それはもはや義務だ。悔やむことも、泣くことも、迷うことすらしないだろう。なぜなら将臣は、その道を行くために、彼らを殺したのだから。
「見るな、有川。お前が落ちるには、まだ早い…」
お前が作り上げた絶望を見るな。今それを見れば、お前の心は壊れる。
「知盛……、手を、離せ……」
「見るな」
「手を、はなせ…っ」
「見るな」
「知盛…っ」
「見るな」
あがく体をきつく抱きしめて、その耳元に繰り返し囁く。それはまるで、駄々をこねる子供を宥めるように温かく、あやすように優しく。
「見るな、有川……。どうせ今宵は深き闇夜、お前の目には何も映るまい……?」
たとえ朝がくれば全てを思い出すのだとしても、夜が来るたびに全てを忘れればいい。
忘れなくては持たないだろう。
いかにお前の心が強くあっても、おまえ自身が作り上げた絶望では切り捨てる事は叶わない。蝕まれるのを待つしかないのならば、せめてその進みが緩やかなものであるように。
「なにも見るな…。俺に抱かれていろ、有川。…この熱は、お前が守ったものだ。この血は、お前が守ったものだ。この体は、お前が守った、平家一門のものだ……。それだけを、感じていればいい」
ころしてやる。将臣が微かな声でそうささやくのを、知盛は微笑みながら抱きしめた。
書きながら辛くて逃避したコネタ(※雰囲気ぶち壊しでも大丈夫な方のみどうぞ)