あとになって、厳窟王は伯爵に語った。
『モナミ、死を再び生へ転じさせるというのは、とても難しいのだ。私でさえ、同時に二人を蘇生させることは叶わない』
「ならば、私だけ生き返らせればよかっただろう。フェルナンなんか生き返らせなくとも」
『そして、目覚めと同時に死を求めただろう者を、また蘇生させればよかったと?モナミよ、私はそのような無駄働きはしないのだ』
からかいを含んだ声音に、伯爵はむっと眉を寄せた。
『その点、あの者はたいそう素早かった。自ら死を望んだというのにな。目覚めるやいなや、モナミの体を担いで走り出したのだぞ?見事だとは思わぬか?』
厳窟王はくすくすと、軽やかな笑いさえ響かせると、眉を寄せたままの伯爵に静かに告げた。
『モナミよ、私はこう思ったのだ。先にモナミを蘇生させれば、即座に死を得て再び終わるであろう。だが、先に裏切りの罪人に命を与えれば、おそらくはモナミを生へと引き止める鎖になるだろう、と。──── もっとも』
それから厳窟王は、おかしくて仕方ないといわんばかりに付け足した。
『もっとも、このような引き止め方をするとは、いかな私でも想像すらつかぬ事であったがな』
フェルナンとエドモン 3
「悪かった!!すまない!!本当に俺が悪かった!!」
伯爵は呆気にとられてフェルナンを見た。最大の裏切り者は、両手を床に着き、額をこすりつけて謝罪している。ああ、確かこれは、東方宇宙では土下座というのであったな…と頭の片隅で思い出してから、伯爵は我に返った。
「なんのつもりです?」
「謝ってる!!」
「それは…、見ればわかります」
「謝ろうと決めていたんだ。エドモン、お前が目を覚ましたら、謝ろうと。謝って謝って、謝ろうと!」
顔を上げて言い募るフェルナンを、伯爵は冷ややかな目で見下ろした。伯爵には、謝罪など無意味であった。ただただ苦しめたく、死すら許したくないと思っている相手に、謝られたからといっていったいなにが変わるだろう。
「謝ることはない。私は、謝罪など求めていないのだから、フェルナン」
「それでも!それでも俺はおまえに謝る!俺は…っ、俺は、悪魔の誘惑に負けたんだ。あの時、俺はとうとう、俺自身の弱さに負けた。だがどうか信じてくれ!俺は手紙の中身を知らなかったんだ。俺も、ダングラールも、手紙の中身までは知りようがなかった!俺は、ただ、お前がなにもかも順調にいくのがたまらなくて…、俺一人だけ惨めに置いていかれるのかと思うと、とても耐えられなくて…。だが本当に、知らなかった!俺は、ほんの少しお前の評判に傷が付けばいいと、足止めを食らえばいいと、それだけの気持ちで…。あの手紙があれほど危険なものだなんて、想像もつかなかったんだ!ましてお前が、二度と戻ってこなくなるなんて…!」
「考えもしなかった?なるほど、なるほど、そうだろうとも。考えもしなかった幸運だったろうな。目障りだった男は、ちょっとした思いつきで、いとも容易く姿を消してくれたのだからな。すばらしい、大変な幸運の持ち主ですな、モルセール元閣下は」
冷ややかな言葉に、フェルナンはぎこちなく顔を歪ませ、すうっと目を暗くした。それはたった一陣の風が夜を呼び寄せ、みるみるうちに蒼天を暗雲で食らい尽くしていくような変化だった。
「そうだな、思いがけない幸運だったさ。お前が帰ってこなくて、俺はメルセデスと結婚できた。それだけじゃない、幸運はそのあとも続いた…ジャニナの件は明るみに出ることはなく、俺は軍で登りつめていった。しまいには大統領候補にまでなったんだぞ?この俺が!マルセイユのドックで、しがない下働きをしていたこの俺がだ!」
だが、と、フェルナンは震えた声で続けた。
「だが、過去は追いついてきた。俺は逃げ切れなかったんだ。お前も、ジャニナの姫も、俺が消してしまいたい過去だった…だが、消えたのは、偽りの方だったよ。貴族の家柄も、軍での地位も、信頼も、メルセデスも、全て失って、最後にはこの俺だけが残った。お前を裏切り、ジャニナを売ったこの俺だけが」
同情を見せることなく、かといって侮蔑するでもなく、沈黙し続けている伯爵に、フェルナンは疲れた顔で笑った。
「エドモン、お前は知らないだろうけど、俺は一度死んだんだよ。ほら、ここに、銃痕が残ってる」
髪をかき上げ、こめかみを見せられて、伯爵は初めて感情を表に出した。驚いたのだ。てっきり、フェルナンは生き延びたのだと思っていた。生き延びて、伯爵が生きていることに気づいて、伯爵にとっては好ましくない理由で目覚めを待っていたに違いないと思っていた。
「俺は確かに死んだはずだった。だが、どういうわけか生き返ったんだ。お前の中にいる、何者かのお陰なんだろうな。気づいた時には、お前を担いで走り出してたよ。我ながら、よくあの状況で脱出できたものだと思うが、まあ、軍で鍛えたお陰かな。…あとはもう必死だった。人目を避けて逃げ続けて、この田舎町まで来て、ようやく落ち着いた」
そしてフェルナンは、朝の森のようなしんとした気配を纏って、伯爵へ向き直った。
「お前は眠り続けていたが、それでもいつかは目を覚ますとわかっていた。だから、考えたよ。どうするべきか。死ぬことも考えたし、誰かに連絡を取ることも考えた。だが結局、どうやっても駄目な気がした。俺じゃなくて、お前がだ。─── ああ、わかってる、そんな顔をしてくれなくとも十分わかってる。俺が言えた台詞じゃないだろうってことはな。だがエドモン、お前もわかれ、俺はわかっていってるんだ。なにをどうやっても、お前は死ぬ。お前の復讐は終わってしまったから、このうえ俺が惨めな生を送ろうとも、あるいは一息に死のうとも、お前にとってたいした違いはないだろう。あるいは、あのジャニナの姫君のような、お前を愛する誰かがお前をひきとめたとして ──── それでもお前は死ぬだろう」
「ずいぶんきっぱりと言い切るのだな。予言者にでも転向したのか?」
「少なくとも、俺の知っているエドモン・ダンテスならそうするからな。堅物で、融通が利かなくて、頑固で、そのくせお涙頂戴話にころりと騙されて、女子供に弱くて、ほだされやすいエドモンなら ───」
「残念だが、お人好しのエドモン・ダンテスは、裏切りの牢獄で死んだのだよ」
だが、伯爵にとって非常に腹立たしいことに、フェルナンはやれやれと言いたげな顔をした。
「お前の言葉がわずかでも真実なら、俺の息子はとうに死んでいる」
「メルセデスの子供だ」
「ああ、そういうところが本当にエドモンだよな。俺もなんで気づかなかったんだか。女子供に弱くてほだされやすい辺り、エドモン以外の何者でもないのにな ──── おい、怒るなよ。別に喧嘩を売ってるわけじゃない」
いっそ今ここで絞殺死体にしてくれようかと目を光らせた伯爵に気づいて、フェルナンは決まり悪そうに頬をかいた。
「話を戻そう。俺は考えたんだ。どうすれば、お前が第三の生を望むだろうかと。それで、謝ろうと決めた。俺はおまえに許して欲しい。俺がしたこと、ダングラールがしたこと、ヴィルフォールがしたことも、許して欲しい」
「とうとう気が触れたか、フェルナン」
「正気だよ、エドモン。俺はこの先ずっと、死ぬまでお前に謝り続ける。だからいつか、許して欲しい。頼むから、俺を許せ、エドモン。俺だけじゃなく、お前を苦しめたものを、許してくれ」
その声に狂気はなく、慈悲を請う哀れさもなく、真摯な情熱だけがあった。伯爵はとまどい、戸惑う自分に腹を立てながらも、一言だけ尋ねた。
「なぜだ」
「……お前がエドモンじゃなかったら、俺だってこんなことはいわない。でもお前はエドモンだ。お人好しのエドモン・ダンテス。憎み続けるのは、辛かっただろう。すまない、本当にすまない。どうか許してくれ。どうか、許すことがお前自身のためだと知ってくれ。だってお前は、人を憎んだり、恨んだりすることが、昔から苦手だったじゃないか。お前が死を望むのは、憎むことに疲れ果ててしまったからだろう?」
──── それでも、憎まずにはいられなかった。憎しみと絶望だけが伯爵を支えていた。それだけが生きる糧だった。
初めはよかった。伯爵を癒そうとするものなどなにもなかったから。だが、次第に心は揺れていく。家族を得るたびに揺れ、他者を苦しめるたびに揺れ、憎しみを手放せばなにも為せぬまま死ぬだけだとわかっているのに、心は揺れてどうしようもなかった。
「だから、許してくれ。俺が悪かったから。本当に俺が悪かったから。いつまでも謝るから、だからもう憎むな。復讐は終わったんだろう?ならもう許してやればいいじゃないか。お前を苦しめた俺たちも、お前が苦しめた俺たちも、痛み分けってことでいいじゃないか」
ふざけるなといいたかった。なにが痛み分けだと、嘲笑ってやりたかった。だが、伯爵は考えてしまった。
──── もしも、もしも初めから、フェルナンがこんな風に謝っていたら、自分はいったいどうしただろうか。
それでも復讐はしたに違いないと思う。許すことなどとうてい出来なかっただろうと思う。フェルナンがどんなに謝罪したって、取り合わず、嘲笑って、罵って、あらん限りの報復を考えただろうと思う。
(それでも ──── 、それでも ──── )
エドモンは確かに甘い人間だった。
金をだまし取られても、誠心誠意謝られてしまえば、それ以上怒ることもしないような、愚かな男だった。
(……許した、だろうか。それでも、許しただろうか)
甘くて、愚かで、許す意味を知っていた。たとえ許そうとすることで苦しんでも、憎み続けて苦しむよりは、ずっと価値のある苦しみなのだと、信じていた。
(………私は、変わったはずで…あったのに、な…)
伯爵は、ぼんやりと顔を巡らせて、窓を見た。
大きく切り開かれた窓からは、懐かしい色が見えた。懐かしいと感じられてしまって、伯爵はとうとう目を閉じた
モンテ・クリスト伯は、それでもエドモン・ダンテスであり、エドモン・ダンテスは、それでもモンテ・クリスト伯であったのかと、伯爵は哀しみとともに思った。
「………ここからは…、海が、見えるのだな…」
もっとギャグっぽくなるはずだったんですが、あれ?将軍が意外と頑張ってしまってやたら長くなりました。エドモンて呼べるのは将軍(とメルセデス)だけの特権だよね!とウキウキしてしまったせいでしょうか(笑)
次は二人の人生の楽園生活、もとい田舎暮らしを書きたいです。あ、でも、ここまで書いておいてなんですが、この話はベル伯になる予定なんですよ…!