ホテルの電燈の一室で 後編



 頬の筋肉を動かして作った顔は、ちゃんと笑顔になっただろうか。
「なに言ってるんですか、草薙さん」
 軽い口調で神谷は笑った。
「突然変なこといわないで下さいよ」
「俺は突然じゃねえけど。ずっと気になってたぜ?」
 この人は、真っ直ぐに人の目を見る人だったのだと、今更ながらに思った。
 逸らしたいと思わなかったときは気づかなかったのに、今はやけにくっきりと見える。
 目の色が、少しちがうことさえわかるほど。
「俺には関係ねえからいいかと思ってたんだけど、自分を責めて無理やり走ってるとそのうち壊れるぞ」
 あっさりと草薙は言った。
 まるで天気の話でもするかのように、完全に他人事の口調で言われて、神谷は薄く笑った。
 自分のことをどうでも言いといわれるのは意外と心地よく、冷えた感覚があった。
 関係のない自分はなにを言ってもこの男を傷つけることはなく、相手が傷つくことによって自分が傷つくこともないのだと思うと、言葉は簡単に出てくる。
「それこそ、草薙さんには関係ないでしょう」
 草薙は予想通りに表情を変えなかったけれど、視線をはずしてくれもしなかった。それは小さな刺だったけれど、刺さっているのは心臓のあたりだ。
 目をそらさないまま、一つ年上の男はうなずいた。
「ないな」
 でも、と続ける。
「気になる」

 わずかな沈黙の後、神谷は立ち上がった。
「帰ります」
 自分でも不可解なほど苛々して、吐き気がした。
 今や何もかもが嫌だった。
 その目も、低い声も、無表情で自分を見る草薙京悟の何もかもが、耐えられなかった。
 誰にも、昔の斉木にさえ抱いたことのないほどの嫌悪が体を支配していた。
「神谷」
 ようやく言葉を発した岩上のほうを見ないで頼む。
「すいません岩上さん、金貸してもらえますか」
 今はただ、一刻も早くこの場を去りたかった。
 ほんの少し前まで打ち解けていた相手が、今はもう見るのも嫌だった。
 その背中に声がかかる。
「そんなに後悔するほどのことをしたのか?ああ、それとも・・・・・久保嘉晴か」
 草薙は笑っていた。
 心底面白そうに、神谷の反応さえ玩具の一つのように。
 相手にしなければいい、無視してこのまま帰ればいい、そうわかっていても。
 体中の血が沸騰した。
 その名前を、大切なものを、笑われた怒りで息の仕方さえわからなくなりながら、それでも帰ろうとしたとき、
「悲劇の天才か。なんだ、よくある話だな」


 息の仕方さえ、忘れた。


 視界が暗くなって、気づいたときには思い切りその顔を殴っていた。
 音は意外なほど小さく、ただ相手の唇から血が流れるのを見ていた。
 その赤い色に、握り締めた拳から一気に力が抜けていく。
 力を失った腕がだらんと垂れて、荒い息をつきながら後悔も出来ずに、どうしていいかわからず立ち尽くした神谷に、草薙はいつものふてぶてしい笑顔で血をぬぐいながら言った。
「なんだ、殴れるじゃねえか」
 何を、言っているのかわからない。
 頬をさすりながらこちらを見つめる顔は、いつもの表情で。言葉には心があるからと言った、その顔で。
 体中にめぐっていた嫌悪感が、嘘のように消えてしまう。
 ただその笑みを見ただけで、どうしてか苛立ちも嫌悪も消えてしまった。
「あ・・・・俺・・・・・」
 思わずすいませんといいかけて、口をふさがれる。
 少し困ったように草薙は笑って言った。
「謝るな。俺が悪い」
「全くだな」
「順司、黙って見てんのは共犯て言うんだぞ」
「それもそうか」
 悪かったと岩上にまで頭を下げられて、ついさっきまで悔しさのあまり開いてしまった涙腺が混乱のあまり開きそうになった。
 その様子に苦笑して、草薙は口をふさいでいた手を放した。
「神谷」
 声は、心地よささえ感じるほど真摯だった。
「壊れたいか?」
 視線が、重なる。

 
 壊れたいか?
 責めるのも追い詰めるのも、壊れてしまいたいからか?



 自分も周りも過去も未来も全てを。
 壊したいか?
 責めるのも追い詰めるのも、壊してしまいたいからか?



 そう聞かれた気がした。
 じっとりと、嫌な汗がつたう。なんでそんなことを聞くのか。なんでそんなことを知っているのか。 なんで。どうして。この人にそれがわかるんだろう。
 時折、壊れたいと思った。このままじゃいけないとわかっていて、放置していると思った。
 壊したいと、願った。

 心臓の音にせかされるように口を開いた。
「・・・・・・俺は」
 考えて否定して問うて迷って。
 わからなくなって顔をあげれば、変わらぬ眼で草薙が見ていた。
 それが、背中を押す。

「俺は・・・・・」


 壊れたいのか?

 それでもこの手にはたくさんのぬくもりがあるのに?


 
「壊れたくない」
 神谷は小さな震える声で、迷いの中でもなお消えないものを、諦めるように許すように認めた。


 時折心から願っても。終わりの日を夢見ても。
 それでもまだ、久保と自分のために人を殴れる。
 壊れたいから、自分を責めてるんじゃない。
 どんなに無視しようとしても押し寄せる後悔に、責めずにはいられないだけだ。
 いつか壊れることがわかっていても、止まりかたがわからないだけだ。
  
 俺は壊れたくない。
 後悔におぼれて、嘲われても人を殴れなくなるのは嫌だ。

 壊れたくないんだ。


「けど止まれないんです」
 思わず呟いてしまって、後悔した。
 慰められるのは嫌だった。誰が許してくれても、自分は自分を許せないことを知っているから。
 すまなそうな顔で慰められるのが嫌だから、今まで話したことはなかったのに。
 話さないと決めていたのに。
 唇を噛み締めて、言葉を待った。
「神谷」
 いたわりの言葉をかけられたら、俺は。
 だけど神谷がどこまでも神谷であるように、草薙もどこまでも草薙だった。
「まだなんでそんなに責めてるのか、聞いてないんだけど」
 予想外の言葉に顔を上げると、草薙がすねたような顔をしている。
 ゆっくりと肩の力が抜けた。


 へなへなと椅子に座り込んで、神谷は苦笑する。
 草薙のことは何も知らないに等しいが、今一つだけ知った。
 この人は。
 きっと哀れまれるのが大嫌いで、優しくされるのは好きなんだろう。
「なあ、なんで?」
「・・・・・草薙さんは」
「うん?」
「俺を慰めたりしないんでしょうね」
 苦笑して言えば、草薙は驚いた顔をしてから、嫌そうに言った。
「俺はそんなことしたくないね」
 したくねえ事はしないと胸を張ると、岩上がため息をついた。
「それをわがままというんだ」
「俺もよく言われますよ。ダチとかに、わがまま言うなって怒鳴られます」
「仲間だな。俺も順司が小姑のようにうるさくて、これじゃあ可愛い彼女が出来ないだろうと心配してるんだ」
「余計なお世話だ」
 憮然とした顔で岩上が言うと、黒髪と薄茶色は顔を合わせて笑った。



 夜もふけて、ずいぶん酒が回ってきたのかもしれない。
 こんなに静かに話せるんだから、きっとずいぶん酔っているんだろう。
「俺は久保が死ぬまで気づかなかったんです」
 傍にいたのに、とても近くにいたのに、隠している痛みに何一つ気づかなかった。
「でも本当は気づいていたのかもしれません。やけに顔色が悪いとか、感じたことがあったはずなんです。だけど些細なことだからって、捨てちまったんだ。あいつが死ぬまでずっと、俺は捨て続けてきたんです」
 最悪の瞬間まで、少し感じ取ったおかしさを少しだからと、捨てつづけてきたんだろう。
「久保は、幸せだったのかな」
 ポツリと、呟いた。
 気づかれずに過ごすことが願いだったなら、最後まで気づかなかったのはイイコトなんだろうか。
 それで、満足したんだろうか。
 それで、少しは幸せだったか?
「死が近くにあって、それでも久保は幸せだったのかな?」

 気づいて欲しいと思ったことがないとは、言わせない。
 それでも気づいて欲しくなかったんだといわれても、俺は許せないだろう。
 気づかなかった自分が、許せないだろう。





 ホテルの電燈の光は薄暗くて、その分優しい。
 小さな一室にあるのはベッドが一つに小さなテーブルと椅子だけ。
 淡い色の壁紙に、いい夢が、見られそうな部屋だった。


「神谷、空いたぞ。・・・・・もう夢の中か」
「当たり前だろ。もう夜中の三時だぞ、三時間寝れば十分なんて変態のおまえとちがって、子供は寝る時間だぜ」
「子供・・・・」
 ぬれた髪をわしわしと拭きながら、岩上はなんともいえない顔をした。
「一つしかちがわないが・・・・否定も出来ないな」
 どうにも危なっかしくて、小さい子がちょっと目を離した隙に転んでそうな不安と同じものを感じる。
 自称大人は、まだ酒を飲んでいた。酔ってはいない。これくらいでは酔わないが、いっそ今は酔ってしまいたい気持ちだった。
 ジト目で、シャワーから出てきた幼馴染を見る。
「順司、正直に答えろよ?」
 低い声で言われて、岩上は密かに苦笑した。
(これは、ばれたな・・・)
「おまえ、はめたな?」
 何のことだ、とは聞かなかった。聞かなくてもわかったし、とぼけても無駄だろう事もわかっていた。
 苦笑で返せば、草薙はますます剣呑な顔になった。
「やけにこいつの事を聞くから、おかしいとは思ったんだよ」
 『神谷を呼んでもいいか?』『神谷のこと気に入ったのか?』なんて聞かれたときに、気づくべきだった。
「そうだな。そしてお前は気に入ったと答えた。京はそれしかないからな。気に入るか気に入らないか、どちらかで。気に入らなければ眼中になくて、気に入れば」
 漂ってくる不機嫌のオーラを気にせず、岩上は意地悪く笑った。
「とことんかまうだろう?」
「なんだかまわれたかったのか、順司。オーケイ、浮気はしないよ」
 大げさな身振りで草薙が言っても、いつものように返さず薄く笑って見つづければ、根を上げたのは草薙のほうだった。
「おまえ、ほんっといやな奴だな、なんか俺に恨みでもあんのか!?」
「山のように」
 岩上はさらりと返して、いつもと立場が逆転していた。
 だんっと乱暴に草薙はコップをテーブルの上において、それでも寝た子を起こさない程度の声で叫ぶ。
「俺にどうしろってんだよ!!」
「好きにしろよ。どうせもともとたいしたつながりはないんだ、京が嫌ならこれで終わるさ」
 それが出来るものなら。
 泣きそうな顔で「止まれない」といった神谷を、ほうっておけるような可愛げのある性格なら、もう一度会わせようとは思わなかった。
「おまえ、俺を苛めて楽しいか?」
「楽しいな」
「・・・・うう、どうしてこんなヒネた子になっちゃったんだろうねえ。昔はあんなに素直だったのに」
 泣きまねを無視して、岩上は静かに言い切った。
「神谷は大事な人材だ。これからまだまだ伸びるのに、無理をされたくない」
 だから会わせた。それはいっそ冷淡な口調だった。神谷を案じてではなく、これからのサッカーのためだといっていた。
 草薙は小さく笑った。それが事実の言葉だとわかっていた。岩上のそういったところが好きだった。
 そして自分は、このテーブルに突っ伏している男をどうしようもなくかまいたくなっていることを諦めとともに認めた。これはもう性分というより本能に近い。とことん甘やかして怒らせて笑顔にしたいのだ。せめて、止まれるときまでは。
「よし、手伝え」
「何を」
「こいつをベッドに運ぶ。順司、俺の好きにしろって言ったな?」
 いつもの笑みに、嫌な予感がしながらも岩上はうなずいた。
「三人で寝るぞ」
「・・・は?」
「神谷を挟んで三人一つのベッドだ。決定」
 頭が痛いですと態度で示しながら、岩上は疲れた口調で尋ねた。
「・・・・何か意味があるのか、それは。なければ俺は床で寝るぞ」
「あるぜ。起きたときに神谷がびっくりするだろ」
「それは確かに、両側にこんなでかい男が寝ていたら驚くだろうがそれだけか?」
「それだけ」
 きっぱりと言い切られて一瞬岩上はいろんなことを後悔したが、諦めるしかないことを経験から悟っていた。
 いやというほど。



「せまいな」
「当たり前だ。シングルベッドだぞ」
「あー、お子様の寝顔は可愛いねえ」
「おまえと違ってな」
「うるさいよ順司。さっさと寝なさい」
「・・・・・神谷は、壊れたりしないよな?」
「しねえよ」
「言い切れるか?」
「ああ。本人が壊れたくないって言ったからな」
「・・・そうだな」



 そして朝がくれば、神谷は驚いて起き上がってその勢いで誰かがベッドから落ちたりするかもしれない。
 でも今はまだ、ゆっくりと夜が続く。












 終わったあああ!!!(泣)
 終わったよ、途中で何度も前中後編にしようかと思いながらも、前後編で終わった自分に拍手!
 どこが京神なんだとか、岩上さんが出すぎだとか、我ながら泣けてくるへたれっぷりですが、今は幸せの余韻に浸らせてください。書いても書いても終わんなくって、原因は京悟と岩上さんのボケツッコミを書くのが楽しかったことなんですけどね・・・・(苦笑)
 この話を書くときに決まってたのは最後だけだったんです。つまり、黒順司と一つのベッドに三人。
 あはは、書いても書いても最後のシーンにいかないんだもん(泣)
 ごめんなさい、明里様。きっと激しく期待を裏切りまくったことでしょう・・・!いいいつか、もっといちゃつかせますから、今はこの糖分2%で大目に見てやってください(汗)
 ではでは、600番を踏んでくださってありがとうございましたvv