後戻りできなくなったのだと気づくのは、いつなのだろう。
 信じることをやめたときだろうか。







張り詰めた糸から落ちた蜘蛛の名は。






 だから、白いスーツなんてやめろといったのに。


 坂本は座り込んだまま、ぼんやりとそんなことを考えた。
 真白だったスーツは砂と土で汚れ、クリーニングに出せば綺麗になるかもしれないが高い金を取られることは間違いない。
 いや、砂土の汚れは払えても、胸から徐々に広がる染みは落とせないだろう。
 白はただでさえ汚れが目立つのに、こう赤くては。
(赤?)
 なぜ。どうして。赤いこれは。
 赤いこれはなぜ赤い?
(……ああ、そうだ)
 血だ。
 血なのだから赤くて当然だ。


 それにしてはやけにここは静かだと思った。
 悲鳴や叫び声は、遠くでしか聞こえない。不思議に思って顔を上げようとしたが、体がひどく疲れていたので、坂本はすぐにそれを諦めた。
 ただ、震える腕をのばし、開いたままの葛西の目を閉じた。意志を失った目はただの物に過ぎず、見つめることが耐えられなかった。腕が震えたのが不思議だったが、力を入れすぎたのだろうと納得する。
 坂本は静かだった。
 叫ぶことも泣くこともなかった。ただ、物となってしまった男を見つめていた。男の外見は、高校の頃とあまり変わっていないように見えた。
(いつ、だった…?)
 最後に、あったのは。卒業後も、何度か会った。会うたびに溝は深くなった。それでも距離は変わらず、ただ埋められないものだけが増えて、やがて会わなくなった。
 最後に会ったのはいつだったろう。強烈に、何かを覚えていたはずなのに、今は霞みがかったように思い出せない。

 ああでも、少し、前より目つきが悪くなっていたかもしれない。
 成人式に誘ったのは自分だった。久しぶりに電話をしたとき、嫌がると予想していたのに葛西は何故か、笑いながら『行く』と答えた。
 白のスーツはやめろといったのに。
 血の染みは落ちないから、このスーツはもう捨てるしかないだろう。
 この血は心臓から流れた血なのか。生物の教科書に載っていた心臓の仕組みを示す図を思い出そうとして失敗した。まあ、どこから流れた血でも、血は血だ。そして心臓は心臓。
 停止した心臓。


 苦しまなかっただろうか。
 表情に苦悶の色はない。胸と額に一つずつ開いた穴は、すぐに葛西を眠らせてくれただろうか。
(そうならいい)


 お前は、もしかしたら、知っていたのかもな。
 知ってたのか?気づいてたのか?ならどうしてとめなかった?
 それともこれが、望みだったのか?






 坂本は動かなかった。
 しばらくすれば警察が来ることはわかっている。そして自分は手錠をかけられ刑務所に行くだろう。
 殺人の実刑は何年くらいだったろう。死刑にはならない。なってもならなくても、大差はないけど。
 葛西とともに殺した自分の人生を、生きていくだけだ。
 銃を向けたとき葛西は笑っていた。でもその笑顔はやっぱり、自分の好きな笑顔じゃなかった。だから撃った、いや撃てた。
(なにを考えた?)
 せめて遺言くらい聞いておけばよかった。
 裏切ったのは自分だ。裏切らせたのはお前だ。
(それとも、俺たちは最初っから合わなかったんだっていうか?)
 それもいい。自分たちは最初から気質も考え方もまるで違っていて、そのズレが決定的な溝を作ったのだといえば、誰のせいにもしなくてすむ。


 コートのポケットに入っている写真に、かじかむ指先でそっと触れた。
 10分くらい前にインスタントカメラで撮ってもらった写真。高校の時のメンバーが写っていた。葛西はつまらなそうな顔をしていた。そんな顔が最後の写真になるなんて、あいつももう少し、笑ってみるとか微笑んでみるとかすればよかったのに。
 これを刑務所の中まで持っていくことはできないだろうか。
 できなければいっそ、燃やしてしまおうか。













『お前が切っ先を向けられんのは』



 不意に、耳元で馴染みのある声がよみがえる。

『お前が切っ先を向けられんのは、弱さや』


 この銃をくれた男の声だった。何度も怒鳴られ殴られ、面倒を見てもらった男の。


『お前が切っ先を向けられんのは弱さや。刀持っても抜けん、抜いても向けられん。そんなん優しさやない、ただの甘さや』




 彼は鋭い眼でそういった。あの眼はそれだけで刀のように鋭く、牙のように研がれていた。
 あの時自分はなにも答えられなかった。彼の言葉は自分の疑念通りだったし、反論できるだけのものも持たなかった。

(でも、違ったよ)
 鷹の眼差しを持つ男に、心の中で語りかける。
 やっぱり違ったのだ。あれは優しさだった。自分のもてる全ての優しさだった。たとえ賭けるものが自分の命でも相手の選択を待つことが、自分が唯一表せる信頼の形だった。
 切っ先を向けないことが、殴ってもいい蹴ってもいい、だけど切っ先を向けないことが、引き金を引かないことが、自分の優しさだった。
 失ってようやくわかった。
(あれが俺の優しさだった)
 たったいま殺した、二度と返ることのない優しさだった。



(苦しまなかったか?)
 本当はナイフがよかったんだけど。
 お前を殺す感触を一生この手に刻んでおこうと思ったんだけど。
 あいにく一突きで急所をやれる自信がなかったんだ。
 下手なとこ刺したら苦しませてしまうから、それは嫌だったんだ。


「でも、やっぱり、ナイフにすればよかったな──── 」



 呟いて、坂本はゆっくりと目を閉じた。




 遠くにサイレンの音が聞こえていた。




















































「──────── という夢を見たから白スーツは着るなよ!」
「待て。突っ込みてえところは山のようにあるけどまずその関西弁の男は誰だよ!?川島か?川島なのか?やつと連絡とってんのか!?」
 1月15日の朝一番に聞かされた不吉な夢に、葛西はテーブルに肘をつきながら唸った。だが坂本はあっけらかんとした顔である。
「連絡っつーかメル友。なかなか合える機会がなくてなー」
「聞いてねえよ!!初耳なんですけどコラ。だいたい俺ヤクザじゃねえしこれでも真っ当に働いてるし白のスーツは借りもんだしそれに一緒に住んでるだろうが!なんで久しぶりなんだ?それはあれか、遠回しな嫌がらせか?」
「文句は俺の無意識にいえよ」
 そういって何故か胸を張る坂本を、葛西はじっとりとした目で見つめた。
「お前の無意識は俺を殺したがってんのか?……おい、考え込むんじゃねえよ!」
「怖いなあ、無意識って」
「怖いのはお前だ」





 後日葛西は、借りたスーツに一度も腕を通すことなく、丁重にお返ししたとか。















 ごめんなさい(平伏)
 ゆ、夢オチにしようかは散々悩んだんですよ!最初は普通に、途中のとこで終わらせるつもりでしたし!で、でもやっぱり、こんな不幸な二人はいやだと思って…!(滝汗)話に纏まりはなくなりましたがやっぱり夢オチにしました。すみませんー!!もう何から謝っていいか…!(逃走)
 リクエストされたものと180度違うものになってしまいましたが、30000番を踏んでくださった二瀬様に捧げます。ありがとうございました!