夏侯淵の表情は、いつにも増して、暗い。
それでも、これは、夏侯淵の頭の中にある悩みに比べれば、ずいぶんと明るいものだった。夏侯淵は生来、感情よりも道理で動く男であり、必然的に、その表情も一定に保たれる。冷たくはないが、鋭くはあり、甘くはないが、穏やかではある。その一定の幅を超えて感情を露にすることは、あまりない。
しかし、ここ数日、夏侯淵の表情は、そうと察することができる程度には明確に、暗かった。
おそらくは、それが噂となって流れたのか。あるいは、無駄を嫌う上司の代わりに日ごろからあれやこれやと勝手に動いてくれる部下たちが、今回も彼のところまでいったのか。
夏侯淵の部屋には、昼間から、酒瓶つきの来客があった。
初めての夜
「まあ、呑め」
問答無用でぐぐっと差し出される盃に、まだ日が高いと拒むことも諦めて、夏侯淵は曹洪から盃を受け取った。
ゆらゆらとゆれる水面を睨みつけて、一息にあおる。さほど強い酒ではない。いくら飲んでも酔えそうにはないし、家路につく頃には酒の匂いすら消えているだろう。そう思って、また、夏侯淵は表情を沈ませた。
「それで、なにがあった。惇兄か?」
「……なぜそこで惇兄が出てくる」
「お前が悩むことなんぞ、ほかに思いつかん」
夏侯淵は、いっそ酔ってしまえたらいいと思いながら、手酌でなみなみと酒を注いだ。
確かに、夏侯淵は悩まない。なぜなら全ての事柄に、思考と行動で答えを出すからだ。必要なら行い、困難があれば取り除き、目的を見失うことはない。出来るか出来ないか、するべきかやめるべきか、そういった事を延々と考えて、空論で時間を無駄にするのは無意味であろうと考える。
だから、昔から、自分が悩むことなど決まっている。
無意味だと厭っている空論を、これだけは、何度となく繰り返してしまう。
かの人を、兄のように純粋に慕っていられたのは、おそらく十の頃までだった。それから十年以上、これは親愛で決してそれ以上ではないと言い聞かせ続け、しまいには諦めて、さらにその後数年、片恋を抱き続けた。実る思いだとは、黄砂の一粒ほども思えなかったし、殿との関係を邪推して、軽い絶望に落ちる事もしばしばだった。
それが、ある日、ぽろりと宴会の席で真実を零してしまい、惇兄を盛大に引きつらせ、硬直させ、挙動不振に陥らせ、しまいには目から血を吹き出して倒れさせた。一時はこの弓が全ての的を外してしまうほどにまでなったのだが、どういう種類の天意が吹き荒れたのか、唐突に片恋は終わった。
そして翌日から、指に指を絡めても許されるような、そんな関係がはじまった。
……はじまった、はずだった。
「なあ…、淵。ちらと小耳に挟んだんだが、なんでも、惇兄はここ二、三日、お前の屋敷に泊まっているそうじゃないか。俺はてっきり、お前はいま幸せの絶頂で、さぞニヤけた面をしてるだろうと思ってたんだが…、あー、なんだ、違うのか?あれはただの噂で、実は喧嘩中だったんか?」
「違う。……喧嘩はしていないし、惇兄は確かに家に泊まっている」
「じゃあ、なんだ。なんでそんな辛気臭い面してやがる。あ、まさか、あれか?アッチの問題か?」
ニヤニヤと笑いながら、「あー、でも俺は、男同士のそれは知らんからなあ、相談に乗れるかどうか」などと嘯く曹洪の頭を、思い切り射抜いてやりたくなったとしても罪はないだろう。
あちらといえばあちらの問題だ。もはやどちらなのかわからないくらいに、あちらの。
「……俺は、六日後には遠征に出る」
「そうだな。って、まさか、惇兄と離れがたいとかいうんじゃないだろうな?いくらなんでも、それは、四天王そろって遠征に出るわけにはいかんだろうが」
夏侯淵は、盃を置き、じろりと曹洪を睨みつけていった。
「三日前に、俺は、惇兄を屋敷に招いた」
「は?」
「惇兄は、寝台を見ただけで後ずさって、卓に足をぶつけて、その拍子に体勢を崩して花瓶を落とし、自分の服を水浸しにしてしまった」
「……へえ。そりゃあ、まあ、惇兄らしい…」
「服を着替えるようにいった途端にさらに硬直してしまって、結局その晩は、火鉢を用意させて、服を乾かしながら話をして ─── 夜が明けた」
「明けたのかよ!ま、まあ、でも、最初はな…、惇兄だし…」
夏侯淵は、そうだなと頷いた。
あのときはまだ良かった。結局、殿の話に終始してしまっても、惇兄の髪は花瓶が落ちる前からほんのり湿っていて、この人もそういうつもりでいてくれるのだと知ることができただけでも十分だった。
「一昨日は、寝室へ行く前に酒を飲んだ。その方が、こう、気が楽かと思ってな…。……朝まで酒盛りをする羽目になったが」
「なにやってんの、お前!?」
「寝室へ行くきっかけが掴めなかったんだ…」
二人きりで酒を飲むのは幸せだったが、できればその先へも進みたかった。
「それで昨日は、反省を生かして、寝室に招いて酒を飲んだ」
「おお、それで?」
「……徹夜続きがたたって、気づいたら惇兄がうとうとしていてな…」
「まさか、お前、それで…」
ぶるぶると拳を振るわせた曹洪に、夏侯淵はやや気まずい顔をしていった。
「眠い人に、無理はできないだろう。そのまま休ませた」
「馬鹿!この馬鹿!お前は本当に夏侯淵か!曹仁と中身が入れ替わったんじゃないだろうな!休ませただあ!?何を甘いことを抜かしとるんだ!鬼将軍の名はどこへいった!そういう、惇兄がふらーっとしてて、ぼけーっとしてる時こそ、絶好の好機だろうが!機を掴まんでどうする!!」
「俺は、あの人にそんな不意打ちのような真似はしたくない」
「殿なら絶対喰ってたぞ!」
「ああ、そうだろうな!だが俺は殿じゃない。殿のようにはなれんし、なる必要もない」
言い切ると、曹洪はがっくりと肩を落とした。
「……お前、六日後には遠征に行くんだろ…?」
「……ああ」
「……当分は戻って来れんのだろう…?」
「そうだな」
軽く頷くと、曹洪は勢いよく立ち上がった。
「それで好機を逃すなんて、お前の頭はいかれちまったんじゃないだろうな!!ああ、いや、もういい。過去のことはもう忘れろ。問題は今夜だ。そうだな!?」
「まあ…、そうだな……」
「何だその歯切れの悪い返事は!…まさかお前、また、悪い癖が出てるんじゃないだろうな?」
「悪い癖?」
「惇兄は絆されてくれただけで、やはり閨までは無理なんじゃないか、だとかそういう事を考えて……考えているな、お前?その顔は、考えてるな!?」
すっと目を逸らした夏侯淵の肩を、曹洪はがっしりと掴んだ。
そして完全に据わった目をしていった。
「いいか、悪いことはいわん。やれ。やっちまえ。押し倒せ。ものにしろ。淵、ここが正念場だぞ。根性を出せ。気合を入れろ」
「……曹洪。問題は、そういう事ではないのだ。そういう事ではなくて……、惇兄の真実が、俺の願望と、噛み合わなくなってきている。それが…」
それが問題で、おそらくは、自分が目をそむけたい答えなのではないか。
そう思えて、どうしようもなく苦しいのだ。
夏侯淵が言葉を濁して曖昧に笑うと、曹洪はびしりと、鞭を打つような声でいった。
「いいや、問題はそういう事だ。お前はいつも、惇兄に対してだけ、遠慮をしすぎなんだ。曹四天王の夏侯淵は、射止めた獲物を逃がしてやるほど、甘い男だったか?違うだろう!」
言葉を返さずにいると、鬼教官はさらに目を厳しく吊り上げて、出来の悪い兵士へ命じた。
「やれ。今夜こそやってしまえ。惇兄が川に落ちようと酒に溺れようと睡魔にさらわれようと、手を止めるんじゃない!仏心を見せるな、出すな、今夜一晩しまっておけ!」
そしてその晩。
夏侯淵は、寝台の上で、夏侯惇と向き合っていた。ただし、押し倒したわけではなく、それどころか側にいるわけでもなく、寝台の端と端にお互いに正座をして向かい合っていた。
寝台は、ゆうに大人二人が横になれる程度には、ゆったりと広い。ましてその大人二人は正座をしている。広いどころか、自分と惇兄の間には、掛布ではなく黄河が横たわっているような気さえしてきた。
実際には、もちろん、たいした距離はない。腰を上げて、少し膝を滑らせればいい。それでこの人に手が届く。かちこちに緊張している、隻眼の人に。
夏侯淵は何度も、足に力を入れては、筋肉を動かす手前で息を吐いた。
今夜は、もう、ここまでで満足するべきではないかと、頭の隅からしきりに囁いてくる自分がいる。昨夜でさえ、寝室で酒を飲むだけだった。惇兄が寝台に上がったのは、心地よい睡魔に攫われてからだ。ちなみに自分は長椅子で寝た。
この人は、それをひどく後悔してくれたらしい。おかげで今夜は、酒の力もなく、こうして寝台の上に二人でいる。端と端で、お互いに正座をしているとはいえ、かなりの進歩だ。これだけでも、十分、夏侯淵の心は浮上している。昼間の陰気も散ったことだし、この先を望むのは、焦りすぎなのではないか。
そう思う一方で、これ以上は我慢したくない自分もいる。触れたい、触りたい、口付けたい。長年の欲が渦を巻いて、心の臓までどうにかなりそうだ。口が裂けてもいえない事だが、頭の中で、この人の奥底までなぞったことは一度や二度ではない。
夏侯淵は、長い逡巡の末に、思い切って腰を上げた。それだけで惇兄が息を呑んだのがわかったが、とまらずに、膝を滑らせる。膝立ちでするりするりと近づいて、惇兄の膝と自分の膝の間が拳一個分になった所で、ようやく腰を下ろす。また正座だ。正座してどうする。そう思うが、もうこれ以上は動けそうになかった。
惇兄が近い。それだけで、息が止まりそうだ。ああ、いや、もうとまっている。
息すらとめて、この人を、別段美しいわけでも艶かしいわけでも全くない、だが愛しくて愛しくて、触れたくてたまらなくて頭がおかしくなりそうなこの人を、ずっと見ていたい。瞬き一つ見逃さないほど、近くで。
「………淵」
「……はい」
絞り出すような声で名前を呼ばれて、それから夏侯惇は、なぜか吹き出した。
「惇兄?」
「いや、悪い。笑うような場面じゃないのはわかっとるんだが、どうにも、おかしくてな。だって、なあ、淵。俺はさっきから、お前と一騎打ちでもしとるみたいじゃないか」
夏侯淵は瞬いて、隻眼を見返した。一騎打ち、そんなことは全く思わなかったが、いわれてみれば、確かに。
「……惇兄の息の間隔まで計るのは、さすがに初めてだな」
「だろう?俺も、お前の瞬きの回数まで数えたのは初めてだ。くくっ、一騎打ちでもしとるみたいじゃないか。それも、よりによってお前と」
「参ったな。惇兄とだけは、一騎打ちはしたくないんだが。勝っていいのか負けるべきなのか、判断がつかん」
「ほお、いうじゃないか、淵。俺がお前に、矢をつがえる余裕をくれてやると思うのか?ん?」
夏侯淵はくすりと笑って、膝立ちになり、手を伸ばした。
「さて、どうだろう…。願わくば、惇兄の剣より、俺の指が早いといいが。触れる前に叩き落されては、俺に勝機はなさそうだ」
そういいながら、その肩に手を置き、その頬を指でなぞる。途端にさ迷った右目に、夏侯淵は小さく笑った。
「叩き落さなくていいのか、惇兄。……いいなら、触れるぞ」
「………最初から、駄目だとは、一度もいっとらんだろう」
緊張か葛藤か、怖れか困惑か、あるいはその全てがないまぜになったような、かすれた声だった。
夏侯淵は小さく息を止めて、それからそっと指を滑らせた。柔らかくも滑らかでもない、硬い肌だ。けれど触れるだけで、背筋をいいようのない快楽が走る。
呼吸を止めている唇に息を吹き込んで、息を奪う。傷つけぬように。呼吸を絡ませながら、奪い合いながら、それでも奪うのではなく与えるように。
ああ、そうだ。自分はこの人に、何もかもを与えたいのだ。
陶酔にも近く想いながら、さらに指を進め、肌を味わい、そして ──── 。
「ぎゃっ!!」
という悲鳴とともに、思い切り突き飛ばされた。
油断していたといえばこれ以上なく油断しきっていた夏侯淵は、曹四天王の一人に渾身の力で突き飛ばされ、寝台の上からあっさりと床へ落ちた。それも頭から思い切り、がつんと。
「す、すまん!!大丈夫か、おい、淵!?」
愛しい人の声を近くに聞きながら、夏侯淵の意識は遠くなっていく。
情けない。いくらなんでもこれはないだろう。すまない惇兄。次は油断しないから。いや、それ以前の問題か……等々。思考の断片が渦巻くのを最後に、夏侯淵は目を閉じた。
前夜よりは、だいぶ幸せな心地で。
そして、その翌日。
「……とまあ、昨夜はそんな感じで、かなり進展が……」
「どこが進展だこの大馬鹿野郎!!」
と鬼教官に怒鳴りつけられて、夏侯淵はそっと目を逸らした。
遠征まで、あと五日である。
推敲できた分だけアップ。これ最終話は本番有りなので、最終話だけはリンク張りません。まー、このサイトに蒼天淵惇を求めている人は、相方さん以外いないと思うので、いいかなと。もし最終話まで読みたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、お手数ですがメールでご連絡ください。