東屋の中で、夏侯惇は一人、頭を抱えていた。
悩みの種は、いい歳してと自分でも思ってやまないのだが、その、あの、アレのことだ。
一昨日は、いい空気であったのに、くすぐったさのあまり寝台から突き落として気絶させた。昨夜は、幸か不幸か、お互いに仕事があって会えなかった。
夏侯淵は、四日後の朝には遠征へ出発する。
夏侯惇は切羽詰っていた。どういうわけか、どうにも事が進まない。いや、自分が悪いのはわかっているのだが、どうにも上手く進まないのである。何をどうしたら上手くいくのかさえ、さっぱりわからん状態だ。
そしていま、夏侯惇の手元には、唯一にして最後の札があった。しかしこれは、切り札と呼んでしまうにはあまりにも禍々しく、妖気すら漂い、諸刃の刃もいい所な、魔王の札だ。
つまり、曹孟徳に相談するかどうか。
ほかにこんなことを話せる相手はいない。孟徳なら、この手のことに詳しい。詳しいどころか、道を極められそうなほどだ。だがしかし、相談したら最後、この先一生これをネタに遊ばれ続けることは間違いなかった。
延々と続くだろう揶揄は、あまりにも簡単に想像がついて、考えただけで左眼から血が吹き出そうだ。だがしかし…、…いやしかし。これは背に腹は代えられんのかどうなのか。
はあーっと、夏侯惇は深いため息をついた。
「そんなに考え込んでも、いい案は浮かばんだろう。肩でも揉んでやろうか?」
「も、孟徳っ!?」
突然振って降りてきた声に驚いて振り向けば、曹孟徳その人が、すとんっと木から飛び降りるところだった。
「何をやっとるんだ、孟徳。供もつけずに、一人で、こんな所で木登りか?」
「そういう惇こそ、一人で、こんな所で悩み事か?」
ははッと笑うと、孟徳は夏侯惇の正面に腰を下ろし、ゆったりと足を組んだ。
「その悩み事、当ててやろうか。淵のことだろう?」
「……知るか」
「大方、まだ一度も夜をともにできずに、酒盛りなどして無駄に時を費やして……」
頬を人差し指でトントンと叩きながら、孟徳がこちらをちらりと流し見る。
夏侯惇がなにもいえず、肩を震わせることしかできずにいるのを見ると、孟徳はにんまりと笑った。
「あげく、淵を思い切り突き飛ばして、寝台から叩き落したとか?」
「見てたのか!!?」
「見なくともわかる。惇、おまえ、ひどいなあ」
しみじみ「ひどい」といわれて、夏侯惇は肩を震わせた。
「……くすぐったかったんだ」
「なにが?」
「だから、その、わかるだろうが!くすぐったかったんだ、指が、こう、無性に!」
孟徳は、ふむ?と首を傾げた。
「お前、そんなに腹が弱かったか?」
「腹じゃない。ここだ、この首筋の、鎖骨のあたり」
自分で触る分には全くなにも感じないので、夏侯惇は鎖骨の上を指でなぞって、孟徳に示した。
すると孟徳は、半眼になり、無言になり、しばらくしてハァっと首を振った。
「惇よ…。そこで突き飛ばされたら、服すら脱がせられんではないか。俺は夏侯淵に同情するぞ。心から同情する」
夏侯惇は、うぐぐと呻いて、やがて力なく息を吐いた。
わかっている、どう考えても悪いのは自分だ。淵にも申し訳ないと思う。しかし、あまりに未知の色事ではないか。もともと色事が得手だったわけでもないのに。しかもこの歳になって、そんな、新しいことに足を踏み入れろといわれても…!
こんな新分野に挑戦するくらいなら、単騎で劉備の首を取ってこいといわれる方がまだましだ。
だが、だからといって、いやな訳ではない。そういう訳でもない。だから余計に困る。
夏侯惇は、ちらりと正面の男を見上げた。
「……孟徳。あのだな、その…、なにか、いい考えはないのか」
乱世の奸雄は、くっくっと、それはそれは楽しそうに笑って、「あるとも」と囁いた。
「鍛錬すればよい。なに、回数を重ねれば、くすぐったさなど消えてなくなるし、上手くもなる。一石二鳥だろう?」
「鍛錬?どうやって」
「こうやって、だ」
ぐるりと視界が回る。瞬き一つの間に夏侯惇の上体は傾ぎ、長椅子の上に落ちた。そして、腹の上には何故だか知らないが、孟徳の膝がのっている。
「おい、孟徳?」
「ん〜?」
「服を脱がすな。なんのつもりだ」
思わず感心してしまうほど鮮やかな手並みで胸当てを奪われ、衣服を開かれた。あらわになった肩を、そよ風が掠めていく。直に当たる外気は、ほんのりと冷たかった。
夏侯惇は、器用に動く指先を眺めて、はーっと息をついた。
まったく、この男の考える事ときたら。
やはりろくな事ではない。まともに相手をすれば、こちらが振り回されるばかりだ。
夏侯惇は軽く手を振って、親猫が子猫を尻尾であしらうように追い払おうとした。
「ここが、くすぐったいのだろう?」
けれど孟徳の右手が逆に夏侯惇の腕を押さえつけ、左の指先が、鎖骨の上の薄い肌をさまよう。するりするりと動き回り、きつく爪を立て、それを慰めるように優しく触れる。
上から覗き込んでくる顔は、完全に面白がっていた。いい玩具を見つけたと、くっきりはっきりその眼がいっている。夏侯惇はじろりと睨みつけると、むずむずと粟立つ肌をこらえて、子猫の甘噛みのような指先を乱暴に振り払おうとした。
そのとき。
かさりと葉のさざめく音がして、そして、微かな足音と、人の気配が。
「殿、こちらにおいででしたか。此度の遠征の件で、お伺いしたいことが……」
「おお、淵。なんだ?」
「 ──── いえ」
時の凍りつく音を、夏侯惇は確かに聞いた。
いや、あるいはそれは、自分自身がつま先から頭のてっぺんまで一瞬で凍りついた音だったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
問題は、いま目の前に、感情を拭い去った目をした男がいて、自分が、にやにやとやたら楽しそうな孟徳の下にいるということだ!
「 ──── っ淵!」
「失礼いたしました。後日、日を改めて伺います」
夏侯淵は、一分の揺らぎも見せずに、一礼して背を向ける。よどみない足取りで去っていく。一度も、夏侯惇のほうを見ることなく。
「付き合いが悪いなぁ、淵の奴。混ざろうとは思わんのかな」
「こんの馬鹿!そんな事を考えるのはお前だけだ!!どけっ、誤解をとかんと…っ!」
なおも腹の上に乗っている主をぐいと押しのけて、夏侯惇は大慌てで服を調えた。
まずいまずいまずい!完全に誤解された。ただでさえ事が進んでいないというのに!
ぐるぐると思考を渦巻かせながら、夏侯惇が駆け足で後を追うと、幸いなことに、夏侯淵の後姿はすぐに見つかった。この辺りならまだ人影もない。
「淵!まて、誤解だ!」
ぐっと腕を掴んで引き止める。振りむいた夏侯淵の目は、静かだった。憤りも嘆きも見せず、さざなみ一つ表に出さず、悲しいほどに静かだった。
「誤解だ。ありゃふざけてただけだ。孟徳のやつが、ほら、いつもの調子で、わかるだろ?」
「いいんだ、惇兄。もういいんだ」
「なにがいいんだ!」
「わかっているから。もう終わりにしよう。俺のわがままにつき合わせてすまなかった」
「なにもわかっとらんだろう、お前!」
胸元をひっつかんで引き寄せる。その静かな目を間近で見つめて、夏侯惇は息を呑んだ。
この眼差しを、夏侯惇は知っていた。長い付き合いの中で、何度も見たことがあった。そしてこの眼を見せるときの淵は、決して己の意志を覆さない。
「淵……」
弱りきった声で、それでも何かをいおうとした時、遠くから「夏侯淵将軍」と呼ぶ声が聞こえた。部下だろう。淵を探している。
つい緩んでしまった拘束を、淵がそっと払いのける。指先から淵の衣服がするりと抜けていく。淵が、ためらいなく去っていく。
夏侯惇は、その場にずるずるとしゃがみこんだ。
「がはーっ…、なんでこうなる…」
そして、その日から、淵は夏侯惇の前に姿を見せなくなった。
淵のやつめ…!と、ふつふつとたぎる怒りを抑えながら、夏侯惇は長椅子にどっかりと腰を下ろした。
ここは淵の屋敷で、淵の自室だ。主は不在だが、付き合いの長い夏侯惇が望めば、家人は客間ではなくこちらへ通してくれる。もちろん、勝手に夏侯惇が上がっていたって、淵がまったく気にしないからであるが。
夏侯惇は自分を落ち着かせるように、ふーっと息を長く吐いた。三日前のあの時から、淵は自分を避けている。どんなに鈍い奴だってわかるくらいに、あからさまに避けている。今までは、公用以外でも訪ねてきたり、ちょこちょこと顔を合わせていたのに、あれ以来、夏侯惇は淵の顔を見ていない。
それでも、仕事が忙しいだとか、遠征の準備があるだとかいわれれば、無理やり押しかけるわけにもいかず、今夜まで我慢していたのだが、さすがに限界だ。
明日には、夏侯淵は遠征に立つ。
話をして、誤解を解かなければ。やつは昔から、どういうわけか、孟徳と自分がただならぬ関係なのではないかと疑っているフシがあるのだ。そんなことあるはずがないのに。孟徳が何だかんだとちょっかいかけてくるのは、自分に限った話ではないし、孟徳のああいう性の悪さは、淵とて昔から知っているはずだ。
自分が、そういう意味で付き合っている男は、淵だけだと……そんなこと、いわずともわかりそうなものなのだが!
こんな、女っぽいわけでも歳若いわけでもない、いい歳したごつい男と、どうにかなりたいなんて奇特なやつが淵以外にいるはずがない。万が一いたとしても、自分が受け入れるはずがない。嫌なことは嫌だと、夏侯惇ははっきり示すほうだ。腹芸はあまり得意ではないのだから。
だから、嫌だといわないのは、その、つまり、いやではないという事だ。
例えば、孟徳に散々振り回されているときに、さりげなく、疎かになりそうな部分を補ってくれる心遣いだとか。
例えば、曹仁がどうにも頼りなくて、案じたり叱ったりからかったりしている時に、絶妙な間合いでいれてくれる、穏やかな合いの手だとか。
穏やかだが鋭く、鋭いが尖ってはいない。そんな男の目に、微かに覗く情欲だとか。
そういうものが、自分をとっくに陥落させている。なぜそれが、淵にはわからないのだろう。
弓を引くときのあの眼差しだとか、矢を掴むその指先だとか、そういう一つ一つの仕草に、ぐらっと火が灯る時とてあるのだと、そこまでいわなければならないか。……ならないの、だろうか。
……いや、いうべきなのか…?
ぐむむと夏侯惇が悩み始めたとき、すっと戸が開いた。
鎧を外し、室内着に着替えた男が、どこか諦めた顔で立っている。
「よお。邪魔しとるぞ、淵」
「惇兄……」
最終話までは推敲できなかった…!続きは明日アップします。