夜のはじまり



 ははあ、困ったねえ、と彼は呟いた。
 困った、困った、とまるで困っていない口調で繰り返す。鼻歌のように、困ったと口ずさみながら、彼は寝台に腰掛けた。
「んー、困ったねえ。そんなつもりじゃなかった、んだけどねえ?」
 彼の喋り方は独特だ。一定のリズムを保っているかと思えば、すぐにそれをひっくり返す。軍師としての特性か、それとも彼自身の気質によるものなのかは、寝台に捕らわれた男には判断のつかないことだろう。
 ああ、いや、そもそも夏侯惇は、自分にそこまでの関心はないか。そう思って、彼は薄く笑った。
 寝台の上に、男は寝転がっている。目は射殺さんばかりに殺気立ち、指先は震え、敵の喉元を喰いちぎる隙を探すかのように呼吸を押さえつけているが、動けない。拘束されているわけではない。その腕を捕らえる縄も、足を縛る鎖も、寝台の上にはひとつとしてなかった。
 拘束具は、軍師たる彼の趣味ではなかった。嫌いではないが、痕がついたら面倒だし、なにより、目に見える力で押さえつけたところで、彼の気は晴れない。形ある暴力で他者を圧倒したいと望んだなら、彼は男の配下武将にでもなっていただろう。だが彼は策略を好んだ。彼にとって力とは、目に見えないもの全てを指し、とりわけ欲望は彼の可愛い手駒だった。他者の欲望を読み取り、操り、その張り詰めた糸の上を渡りきる事を、彼は至上のものとしていた。
 ぎしりと、寝台が鳴く。夏侯惇の上に覆いかぶさり、その隻眼を覗き込むと、美しいほどの殺意が見えた。彼はゆったりと笑った。こういう眼はきらいじゃない、と彼は心の中で独りごちた。自分を斬りつけてくるような眼差しを ─── 誰のものであろうと ─── 彼は好んでいた。喉元に突きつけられる、形なき白刃を、すいと紙一重でかわす快感。それは彼が、彼の戦場で最も好むものだった。
 ずっとこんな眼をしていてくれたら、彼は夏侯惇を欺いて、薬で自由を奪うことなどしなかっただろう。迷いも、憂いもない殺意だけを、その眼に写していたなら。
「ははあ、いやはや、本当に困ったねえ」
「きさま……っ、なんの、つもりだ……っ!」
 かすれた声を、それでも必死で絞り出す男に、彼はひょいと肩をすくめ、わざとらしく両手を広げて見せた。
「ここまできて、おわかりにならない。なあんてことはない、でしょう?」
「ふざけるな……っ!」
「真面目ですよ。大真面目だ。貴方が、曹操殿を愛していらっしゃるのと同じくらいには、ね?」
 隻眼が、瞬きをとめた。
「隠さなくて構いませんよ?見ればわかりますって」
「……ばかな、……なにを、いって……」
 混乱が、瞼を震わせ、唇を強張らせる。彼はそれを、冷めた思いで眺めた。
 夏侯惇が、隠しているわけでも、偽っているわけでもないことくらい、彼は重々承知していた。夏侯惇は曹操を大切に思っている。だがその思いに、名をつけたことはないのだ。敬愛も、崇拝も、親愛も、 ──── あるいは情愛も、何ひとつ、その思いを表す名だったことはない。
 夏侯惇にとって曹操とは、身内でありながら光のようでもあり、至高の存在でありながら手を伸ばせばそこにいる、唯一無二の相手だ。曹操を想う気持ちに、名をつけたことなどないのだろう。つける必要がないからだ。例えるならそれは、右腕に、自分の頭や内臓をどう想っているのか尋ねるような無意味さだろう。

 だからこそ、汚してやりたくなる。

 彼は、動けない夏侯惇の肌に手を這わせながら、繰り返し囁いた。曹操殿を愛しているんでしょう?わかりますとも。何なら、曹操殿の代わりにして下さっても構いませんよ?ほら、名前を呼んでみてくださいよ。孟徳、とね?

 初めは怒りをあらわにしていた隻眼が、だんだんと動揺し、混乱の渦に落ちていく。
 そう、ではなかったのだろう。彼が口にしているような想いではなかった。そんなことは、夏侯惇自身よりも、彼の方がよくわかっていた。夏侯惇と曹操の間にあるものは淡く、美しく、手を触れることもためらうような至純のものだったのだろう。それでも彼は、繰り返し囁いた。

 ははっ、呼んでいいんですよ?孟徳、と。貴方が愛する人の、身代わりにして下さいよ。

 繰り返すたびに、夏侯惇の顔が歪んでいく。彼を押し返そうとする手は、薬のためだけでなく、力が入っていなかった。彼が手を滑らせ、指で慰めれば、その体は少しずつ欲に濡れていく。それは単に薬のもう一つの効用にすぎなかったが、なにも知らない夏侯惇は、いよいよ絶望を眼に宿らせた。彼のいうことが、真実のように思えたのだろう。真実、曹操と閨を共にし、抱かれたかったのかと。
 彼は、暗闇の中で、かすかに喉を震わせた。たまらなかった。たまらなく、楽しかった。夏侯惇の中にあった美しい想いが、美しいままでいられたのは、それがいかなる名前も持たなかったからだ。
 だが、いま、男は名をつけようとしている。愛という名を、自ら貼り付けようとしている。それをしてしまえば、もはや夏侯惇は、軍師の謀略から逃れるすべを持たないというのに。


 愛と名づけられてしまえば、あとはただ、引きずり落とせばいいことだ。彼にとっては息をするよりもたやすい。美しかったものを地に落とし、泥の中に放り込んで踏みにじり、最後には引き裂いて、これが真実だと教えてやろう。この世に美しく、不可侵なものなどありはしないのだと。


 体をつなぎ、欲望を吐き出し、何もかもが手遅れになった夜の中で、最後に夏侯惇は問うた。なぜ、こんな真似をしたのか。弱く、怒りもなく、ただ追い詰められた者特有の怯え混じりの声で尋ねられて、彼は小さく肩を震わせた。
 震えるほどの快感だった。策が成る瞬間というのは、いつでも、これ以上なく高揚する。
 彼は答えた。
  ──── 愛しているからですよ。
 見開かれた隻眼の中で、彼は静かに、密やかに、微笑んでいた。











 だが、泥にまみれても、踏みにじられ引き裂かれても、なお、美しいものはあるのだと。
 彼が思い知るのは、ずっと先の話だ。







最終的には、惇が死ぬ間際に「お前と過ごした時間も、そう悪くはなかったな」と軍師にいってくれれば、それでハッピーエンドだと信じてます。