街は荒む一方だった。
Devil Framingo −家路−
ココロに頼まれた買い物を終えて、アイスバーグは早足でひび割れた石畳の上を歩いていた。日は傾きかけている。夕闇に包まれる前に家に帰らなくてはならなかった。この街で、12歳の子供が一人で出歩ける時間帯は限られていた。
ウォーターセブン、七つの造船会社を持つ水の都は、日に日に生気を失っていくようだった。大通りでさえ、数人が道端に座り込んでいるのが昼間から目に入る。うつむき頭を抱えている者、酒瓶に口を付けている者、新聞を引いて眠っている者。立ち上がる気力を失った人々の顔には、諦念と嘆きが色濃く滲んでいた。
石畳はどこも水に濡れていて、街の端から端まで見ても、さらさらに乾いた場所は見つけられなかった。濡れた石畳は色を重くし、それはまるで巨大な影に覆われているかのようだった。
(ンマー、実際、覆われてんだろうな)
この街は、諦めに覆われている。
人の手が入ることのなくなった路地は荒廃の一路を辿り、それがまた人の心を荒ませていく。息をするごとに、空気とともに諦めを吸い込んでいるような感覚がある。まるで島全体が死に神の鎌に首を差し出して、おしまいの日を待っているかのようだ。
アイスバーグは紙袋を抱く力を強めた。少しでも気を抜くと、自分もこの街の諦めに喰われてしまいそうだった。それほど絶望は深く、街中を浸していた。
(…でも、おれはまだ大丈夫だ)
明かりのついた家がアイスバーグを待っている。その家の中には、真っ赤な火のように陽気に笑う人がいる。だからまだ、自分は前を向ける。
アイスバーグは小走りになって家路を急いだ。自分を押しつぶそうとするものから逃げるようにして、太陽が沈みつつある街に背を向けた。
それはもう、3年も前になるだろうか。
トムズ・ワーカーズの社長は、一人の子供を拾った。
彼はそのころ、彼の会社の社長であり、同時にただ一人の作業員だった。腕に覚えのある部下達は皆、沈みゆく街に見切りを付けて島を出て行ったからだ。
島を出るとき、誰もが彼を誘った。彼ほどの技術があれば、どこの造船会社でもやっていける、なんなら別の場所でまた会社を興したっていい、そう口々に誘われても、彼は決して首を縦に振らなかった。笑って、去っていく友人達を見送るだけだった。
彼に残ったものは、美人秘書と、元は船だったガラクタ達と、諦めが病のように蔓延した街だけだった。それは彼にもわかっていたことだった。わかっていてなお、海賊王の船を造った希代の造船技師は、沈みゆくウォーターセブンに残った。
彼はこの街を愛していた。この街が栄え、活気に満ちていた頃を彼は知っていた。この街に育てられた彼に、この街を捨てることなど出来るはずがなかった。
ただ、悪い方へと変わっていく街の姿が、彼の心を痛めつけた。彼は希望を探し、未来を探し、可能性を探し続けていた。
子供を拾ったのは、そんな頃だった。
深海のような髪をした子供は、街の外れで行き倒れていた。慌てて医者に診せれば、ただの栄養不足だといわれたので、彼はその子供を連れて帰った。その時はまだ、先のことまでは考えていなかった。
彼の布団に寝かされた子供は、しばらくして目を覚ました。
天井を見上げて、力無く瞬いた子供の額に、彼はそっと手を乗せた。まだ半分眠っているような顔をしている子供を安心させようと、彼は優しく額を撫でて、節くれ立った指で海色の髪を梳いた。
子供は徐々に意識がはっきりしてきたようだった。数回瞬きをし、喘ぐように息を吸った子供が最初にいった言葉は、彼を驚かせるには十分だった。
「死にたくない…っ!」
掠れた声で、子供はそう叫んだ。声は小さく、弱々しいものだったが、子供の意志は天を貫かんばかりに真っ直ぐだった。
彼は宥めるように軽く、子供の額を叩いた。
「安心しろ、ドンと生きとる!」
子供が彼の顔を見たので、彼は口を大きく開けて笑ってみせた。子供は少しの間、何もいわずに彼の笑顔を見ていた。表情らしき表情もなく、目だけを尖らせている子供に、彼は胸を張って笑って見せた。すると、子供は突然泣き出した。
ぼろぼろと、子供は声を上げずに涙を流した。彼は笑って見せながらも、内心でひどく狼狽えた。船を造ることに関しては世界の誰にも負けなくとも、子供のあやし方など彼は知らなかった。どうしたものかと冷たい汗を流した彼の前で、子供は泣きながら笑って見せた。
それは、彼が知っている子供の顔ではなかった。彼が知る限り、子供はもっと無邪気に笑うものであったし、笑うべきであった。けれどいま、彼の目の前にいる子供は、まるで親が子供を安心させようとするかのように笑ったのだ。それは、多くの苦難を知りながらも、愛しい我が子の前では不安の欠片も見せずに微笑む母親のような、温かな笑顔だった。
そして子供は、囁くようにいった。
「おれがこの街を変えるから……大丈夫だよ…」
それが誰へ向けた言葉だったのか、彼にはわからない。
亡くなったという両親なのかもしれないし、目の前にいた見知らぬ自分なのかもしれないし、あるいは、この沈みゆく街そのものだったのかもしれない。
わからない。3年前もわからなかったが、今でもわからない。
ただ彼はそのとき、子供に未来を見たのだ。十歳にもならないだろう子供が、死にゆく街を変えるといった。普通なら一笑に付すか、馬鹿をいうなと怒鳴るだろうときに、彼は事もあろうに子供の言葉を信じた。無茶苦茶だった。彼自身無茶苦茶だとわかりながら、それでも彼は信じた。
この子はきっと、この街の希望になる。
彼はかつてそう思い、今でもそう思っている。それは信じるということを超えて、まるで知っている事実のようだった。
不安と諦めに埋もれたこの街で、それでも子供は生きる意志を失わずに、未来を見つめていた。それを希望といわずに、なんといおう。
彼は子供を自分の弟子にし、ともに暮らしはじめた。彼はもはや、後ろを振り向かなかった。前だけを見つめ、いつかこの街の希望となる子供に、全ての技術を伝えようと努めた。
子供は未来だった。彼は自分の役目を悟ったような気がしていた。それは太古の昔から繰り返されてきたことであり、かつて幼き日の彼が受け継いだものだった。
未来を、この手から、愛弟子の手へ。そしてまたいつの日か、愛弟子が誰かの手にそれを託す日が来るのだろう。
今はただ、子供の小さな掌に多くのものを与えて、残して、伝えてやりたいと彼は願っていた。
まだフランキーがいないころの話。