それでもおれは、歩いてみせよう。
世界がいかに残酷でも。
泣く事さえできなくとも。
Devil Framingo −暗転−
うねりのような喧騒が耳を叩く。何も知らない住人たちのわめき声が、広場を囲い込んでいる。その中から、腐った役人の驕りきった歓声がとび抜けていく。誰もあの人の本当を知らないくせに、誰もが声高にあの人を罵る。頭が押し潰されそうだった。全身の血が燃えるように熱く、指先だけが凍りついていた。
トムさんが、連れて行かれる。
(トムさん──── !!)
叫びたかった。わめきたかった。腐った役人どもを殴り倒して、あの人を助け出したい。たとえ叶わなくとも、簡単にやられてなどやるものか。さあ、今すぐ立ち上がれ。命すら惜しくない。
(トムさん──── !!)
体の内側から絶叫が聞こえている。もう一人のアイスバーグが、助けに行けと泣き叫ぶ。けれどアイスバーグは動かなかった。血のような叫びに全身を食い破られても、沈黙でもって耐えた。もう一人の自分を押し殺して、じっと、連れて行かれる姿を見つめた。
彼の望みを知っていた。だから、アイスバーグは動かない。心を殺しても、ここを動かない。
(力を)
憎悪のような冷たさで、アイスバーグは思考した。
(力を、手に入れなければ)
あの人に罪状がかけられていなければ、あの人が一介の船大工でなければ、あの人が街の誰からも信頼されるような人物だったなら、真実を告発したフランキーの叫びが一笑に付されることは無かった。
設計図を守るためには、政府の役人と比較しても信頼を勝ち取れる人間にならなくては。
(おれは無力で)
左腕を右手できつく握り締める。痛みは感じられずに、ただ熱かった。燃えているようだった。燃えてしまえばいいと思った。自分も、世界も、今この瞬間に焼け落ちてしまえばいい。あの人が救えないなら、世界ごと滅んでしまえばいい。
(─── 逃げるな)
アイスバーグは小さく呟いた。実際には喉も唇も動かず、音にはならなかった。けれどアイスバーグは呟き、その声を自分の耳で聞いていた。
(逃げるな。目を逸らすな。歯を食いしばり握った腕から血が吹き出ても、この光景を忘れるな)
眼に焼き付けろ。そうして、死ぬまで覚えておけ。この狂いそうな絶望とともに刻み込んでおけ。
アイスバーグは地べたに座りこんだまま、徐々に遠ざかる姿を見つめていた。すでに、周囲の騒音は聞こえなくなっていた。ココロの声だけが微かに耳に触れていたが、それでも世界は無音だった。失われていくただ一人の姿しか、アイスバーグは感じられなくなっていた。
そのとき、不意に隣の空気が軽くなった。
アイスバーグはゆっくりと顔を動かして、そこにいるはずの弟弟子を見た。フランキーは立ち上がっていた。立ち上がり駆け出したフランキーに、アイスバーグはとっさに手を伸ばしたが、その手は僅差で届かなかった。
(よせ─── !!)
全てが、スローモーションのようだった。自分自身の動きさえひどく緩慢で、泥の中でもがいているようだった。アイスバーグがようやく立ち上がり、渾身の力で一歩踏み出した時には、フランキーは拾った銃の銃身でCP5の男を殴りつけていた。
「フランキー!!」
アイスバーグが弟の名前を叫ぶのと、周囲の銃口が動くのは同時だった。「捕らえろ」と役人たちが騒ぎたてて、何十もの銃が一斉にフランキーに向かって照準を定める。アイスバーグは駆け出そうとして、踏み出した右足をとめた。意識してのことではなく、心はすぐに駆け出す事を望んでいた。
だが、踏み出したまま、地面に縫い付けられたように動かない右足には、異様に力が入っていた。ふくらはぎが痛いほど固くなり、右足の膝から下は全力でアイスバーグをそこに留めていた。体が動かなかった。いや、動けなかった。
アイスバーグは理解してしまっていた。フランキーがもう『手遅れ』なのだと。
政府の役人を殴りつけた弟は、遅かれ早かれ逮捕されて有罪になる。アイスバーグがいまここで飛び出していく事は容易い。それは本当に簡単だ。けれど、二人とも捕ってしまえば設計図はどうなる?
(トムさんが、命を捨てて守った設計図が、政府の手に渡る)
思考は結晶のように澄み切っていて、単純な計算式の答えはすぐに出た。憎悪すら感じるほど簡単に、アイスバーグは理解してしまっていた。フランキーは銃を振り回している。守ろうとすれば、アイスバーグもまた罪人にされるだろう。ここで自分が出て行けば、あの人の行為を無駄にすることになる。
それでもいい、とはいえなかった。心がどれほど悲鳴をあげてもいえなかった。託されたものがあった。その重さを、アイスバーグは理解していた。
一歩足を踏み出しながら、それ以上は進まなかった。進むことを、全力でアイスバーグは耐えた。駆け出そうとするのも自分なら、それを止めるのも自分だった。目の前で、フランキーの肩が血を吹く。フランキーはたった一人であの人を取り戻そうとしていた。アイスバーグは微かに開いていた口を、顎に力を込めて閉じた。歯の擦れる音がした。
そしてアイスバーグは、家族に背を向けた。何度銃声が聞こえても、一度も振り返ることなく、歩いていった。
見捨てたのだと、理解していた。
自虐でも自責でもなく、ただ事実としてアイスバーグはそれを受け止めた。自分は弟を見捨てた。それは一生この身で背負っていくべき事だった。
アイスバーグは一人で、橋の下倉庫に帰ってきていた。誰もいなかった。主も、美人秘書も、ペットのカエルも、うるさい弟弟子もいなかった。家の中は冷たく、昼間起きたことが嘘のように、静寂に支配されていた。
一歩歩くことに、床が軋んだ音を鳴らす。いつもなら耳に留めることのない音が、家の中を自由気侭に飛び跳ねて、静けさをいっそう際立たせていた。夕闇に染まった室内で、アイスバーグは足をとめた。静かだった。温かなものは何も残っていなかった。
崩れ落ちるようにして、膝をついた。どこかで野犬の遠吠えのような声が聞こえた。このあたりに野犬などいただろうかと不思議に思いながら聞いていると、その声はだんだんと近づいてきた。そして、耳が痛いほどの大きさになったとき、気づいた。野犬ではなかった。
叫んでいるのは自分だった。
「ああああああああーー!!!はあっ、あぁっ、あああああああああーーーー!!!!」
叫んでいる自覚などなかったのに、口は大きく開いていた。獣じみた咆哮が、腹の底から喉を突き破って出ていた。
床に手をつき、喉が裂けるほどの絶叫を繰り返す。気が狂いそうだった。狂ってしまえば楽になるだろうと思った。だからこそ、狂うことは出来なかった。
叫んだ。なぜ叫んでいるのだろうと不思議に思いながらも、絶叫は勝手に出ていた。叫びたいわけではなかった。ただ、自分がバラバラになってしまったかのようで、声を止めることが出来なかった。体はひとりでに絶叫を繰り返していた。
体の感覚は奇妙に遠く、アイスバーグはどこか他人事のようにその叫びを聞いていた。思考の断片が浮かんでは消えていき、何も考えられなかった。
まるで水の中にいるようだった。苦痛という名前の海の中に、全身を浸しているようだった。苦しかった。苦しくて苦しくて、どうにかなってしまいそうなほど苦しくて、助けを求めながら、それがどこにもない事を知っていた。
どれほどもがいても、この海に水面はなく、果てもないのだと。この苦痛の海から抜け出ることは一生ないのだと、知っていた。
意識を取り戻した時、部屋の中はほのかに明るかった。
アイスバーグは床に突っ伏したままの格好で、ゆっくりと瞬いた。泥のような眠りから這い出て、寝転がったままわずかに態勢を変えた。顔のすぐ下にある床から、視線を徐々に上げていくと、深い焦げ茶色の椅子の足が見えた。よく磨かれた椅子の足は、あちこちに傷があったものの立派に輝いていて、その落ち着いた色がアイスバーグを安心させた。
引きずるようにして上半身を起こし、ドア側の壁に背中を預けた。体のあちこちが痛んだ。床の上で眠ったせいかもしれないし、昨日負った傷のせいかもしれなかったが、とりあえず腕と足が動くのだからどうでもいいことだった。
軽く息を吐き出したアイスバーグは、床の上に吐瀉物のようなものを見つけて顔をしかめた。ココロさんが毎日綺麗に掃除してくれているのに、と不審に思ったのも一瞬で、自分の口元をぬぐったアイスバーグは先ほどより少し重い息をついた。吐いた記憶はなかったが、唇は汚れていた。
頭の後ろをトンと壁につけて、アイスバーグは天井を見た。剥き出しの組み木が、天井に燻る薄い影を長方形に区切っていた。あの柱の上には魔物が潜んでいるんじゃないかと、子供心に怯えたこともあった。懐かしいなと、穏やかな気持ちで思い出していた。
(トムさん)
アイスバーグは歯を食いしばった。その名前を呼ぶだけで、凶器のような悲痛が体の中を暴れまわる。何もかもを呪ってしまいたくなる。憎しみが牙をむいて、心臓を食い破ろうとする。荒れ狂う激情に身をゆだねて、憎悪の手を取り、世界を呪う道をゆきたくなる。そうすることも出来る。きっと自分は何もかもを壊せるだろう。
アイスバーグは右手で左胸を抑えた。この心臓の痛みに、とめどない憎悪に、道を与えてやることもできる。けれどアイスバーグは左胸を抑えた。強く、強く抑えた。
憎しみに、何もかもをあけわたしてやるわけにはいかなかった。耐えた。絶望に首まで浸りながら、それでも飲み込まれる事をよしとはしなかった。
アイスバーグは目を閉じなかった。
深く、荒く、呼吸を繰り返しながら、アイスバーグは前を見た。奪われて踏みにじられて、吐き気のする世界の中で、それでも体の中には望みと意志があった。生きているわけでも死んでいるわけでもなく、鈍く光る塊。それは心にたゆたう感情ではなく、磨き上げられた鉄のような、心と体を統制する固い意志だった。その鈍い輝きだけが、喪失に沈んだアイスバーグを動かしていた。
(トムさん)
自分たちは、同志だった。ウォーターセブンの未来を憂い、再建を心から望み、そして諦めていないという点で、自分たちは同志だった。師と弟子でありながらも、同志だった。
あの人の願いは、設計図を守ることだった。
あの人の望みは、この街を救うことだった。
そして、アイスバーグの望みもまた、この街の未来だった。
諦めに埋もれたこの街の中で、かつて、どれほどの影を見ただろう。荒んだ心や、剥き出しの欲望や、踏みにじられる弱者。物心ついたころから、ずっと、沈んでいく人々を見てきた。その中で生きてきた。醜さもやるせなさも目の当たりにして、幾度となく打ちのめされて、それでもアイスバーグは望みつづけた。
この街に未来を。再び活気と歓声を。
「……トムさん」
小さな声で、震える舌で、アイスバーグは名前を呼んだ。声にするのは、きっと、これが最後だろうと思った。
アイスバーグは立ち上がると、掃除箱から雑巾を持ってきて、吐瀉物で汚れた床を綺麗に拭いた。それから、一部屋一部屋、丁寧に掃除をした。ココロさんがいつも綺麗にしていてくれたから、ゴミも埃も少なかったけれど、手を抜くことなく雑巾をかけて、机や本棚を乾いた布で拭いた。隅から隅まで時間をかけて綺麗にすると、終わったときには日が沈みかけていた。アイスバーグは掃除箱を定位置に戻して、小さくまとめておいた自分の荷物を手にとった。
最低限の物だけを入れた布袋を背負って、それから一度だけ、部屋の中を見回した。
アイスバーグはやはり、苦痛の海の中にいた。上も下もわからず、わずかな光も差し込まない。抜け出すことのできない海だった。
この苦痛が一生消えることはないとわかっていたから、アイスバーグは静かにそれを受けとめた。
(光の差さない海にいるならば、自分で光を造り出そう。この街の希望を、未来を、探すのはここで終わりにしよう。この街の未来におれがなろう。この手で光を産み出そう。あの人と同じように)
アイスバーグは外に出ると、ドアを閉めて鍵をかけた。
そして、振り返ることなく、歩いていった。
あと少し続きます。