尊敬と畏れを持ってその足元にひざまずけ。
英雄ポロネーズ
空気の中の熱は、じわじわと勢いを増していく。ウォーターセブンは長い冬を終えて、長い夏を迎えようとしていた。日に日に日没は遠くなり、太陽は張り切って街を照らしている。徐々に暖められていく空気は、日中になれば、思わず溜め息が出るほど熱い。昼休みの時間になったルルは、仕事場である6番ドッグから出て空を見上げ、その眩しさに目を細めた。数日前よりも青みを増した空は、夏の訪れを高らかに歌っているようだった。
それでも海から吹きつける潮風のおかげで、日陰に入ってしまえば暑さはぐんと遠のく。今日は下の商店街で昼食をとるかと、水門エレベーターへ向かって歩いていたルルは、1番ドッグの近くで足をとめた。
1番ドッグの門の前には、見るからに海賊といった風体のものたちが群れをなしていた。ざっと数えても数十人はいるだろう。陸の上だというのに武装を解かず、銃や刀を見せつけるように腰に差している。ルルは顔をしかめた。
海賊がこの島にやってくる事は珍しくない。造船業を生業としているウォーターセブンでは、海賊でさえ立派な客人の一人だ。ただし、ほとんどの場合は、最低のという前書きがつく。無茶な注文を押し付け、代金を払う段になれば金の代わりに武力を差し出してくる海賊たち。法も契約も守らないやり口に、造船技師たちがどれほど怒りをため込んでいることか。それでも会社としては、銃を突きつけられれば涙をのんで我慢するしかない。職人である自分たちに、海賊を倒す力などありはしないのだから。
顔を背けてその場を通り過ぎようとしたルルの耳に、凛とした声が飛び込んできた。
「無料で船を直せとおっしゃる?」
磨き上げられた鉄柱のような硬質の声の下には、挑発的な響きがあった。ルルは引き寄せられるようにして、その声の主を探した。
「感謝しろよ、それでこの島を襲わないでやるっていってんだぜ」
頭らしき男の言葉に、追従の野卑た笑い声が上がる。力で人を従わせる事に慣れている響きだ。うんざりしながらもルルが一番ドックへ近づいていくと、一人の青年が正門の前に立っているのが見えた。
深い蒼色の髪、それだけでルルはその青年が誰なのか気付いた。たいそうな腕前だと最近評判の男だ。4番ドッグに所属しているが、ほかの会社の連中からも慕われて、引き抜きの声がたえないという青年。
(アイスバーグ。あの男、何してやがる)
どう贔屓目に見ても、和やかな商談とはいいがたい。天才との賛辞を受ける青年は、川を背にして人壁を作っている海賊たちにたった一人で対峙しながら、怯むそぶりも見せずに人を食った笑みを浮かべていた。
「ンマー、残念ですが、お断りします」
「なんだと!?」
「ただじゃ直せないといってるんですよ」
ひゅっと、誰かが息を飲む音が聞こえた。気がつけば1番ドッグの周りは、昼休みを迎えた人々で賑わっている。この騒ぎに気づいたほかのドッグの連中や、下の商店街からやってきた商人達が、みな足をとめてアイスバーグを見ていた。まるで舞台を見守る観客のように、大人から子供まで息をひそめて海賊たちと一人の青年を見つめていた。
「よせ、アイスバーグ!」
「駄目ですよ、アイスバーグさん!」
開け放たれている正門に寄り添うようにして、数人が立っているのが見えた。少し離れたところから小さな声で、口々にアイスバーグをとめている。
だが、当の青年は、聞こえていないはずがないのに振り向きもしなかった。それどころか、周囲の視線も息を押し殺している沈黙も無視して、涼しい顔で海賊たちだけを見ている。
海賊の頭は、朝の鶏よりもけたたましい声で笑った。
「よーし、代金をくれてやる!」
いうなり男が突き出した拳銃は、しかし照準を定める前に石畳に落ちた。瞬き一つの間にアイスバーグは男の腕を掴み、地面に殴り倒していた。
(なっ ──── !!)
声も出せずにいる人々の前で、アイスバーグはさらに、目の前にいた二人の海賊を殴り飛ばし、鎧の上から骨を砕いて地面に沈めた。
「テメェ、なにしやがる!!」
「殺せ、ぶっ殺しちまえ!!」
我に返った海賊たちが、一斉に怒鳴り声を上げた。石畳の上に、男たちの喚き声と鎧のぶつかる音が弾け飛んでいく。人相の悪い男たちが腰から銃や刀を引き抜き、空に向かって振り上げる。ゆうに二十はありそうな武器が、一斉に青年へ向かうのを見て、ルルは思わず走り出した。
どれほど青年が喧嘩慣れしていても、数にものをいわされては太刀打ちできないだろう。現にルルの目の前で、青年は海賊連中に囲まれかけていた。正面の男の剣にアイスバーグが気を取られている隙に、別の海賊が背後に回る。危ねェ、とルルが怒鳴りかけたとき、突然その海賊は空に浮かんだ。まるでトランポリンで飛び跳ねたかのように、ポーンと宙を舞い、川に落ちていった。
呆気に取られていると、さらに数人の海賊が同じように、一度空に近づいてから川に落ちた。
「俺がいねェときに始めないでくださいよ、アイスバーグさん!」
屋根の上から降って来た金髪の男が、自在に縄を操りながらそう叫んだ。よくよく見ればその男は、まだ15歳にもなっていないだろう少年で、額にかけたゴーグルの下から金色の髪が柔らかそうに跳ねていた。
突然現れた少年は、しかし強かった。というよりは、怖れ知らずだった。周りの大人たちが怯み、二の足を踏んでいる中で、全く怖気づくことなくアイスバーグの背中を守っていた。
不意に、奇妙な衝動が込み上げてきた。笑いと怒りが、同時にルルの胸に湧き起こる。勇敢な少年への小気味良い笑いと、何もせずに立ち止まっている自分への怒りだ。
(ウドの大木じゃねェんだから ──── !)
ルルは再び走り出した。一番ドッグの入り口付近に置かれていた丸太を肩に担ぎ上げ、それを海賊たちに向かって振り回す。数人が悲鳴をあげ、それ以上の歓声が上がった。
気がつけば、アイスバーグただ一人の起こした揉め事は、一番ドッグとその周囲のドッグの職人たちも巻き込み、職人対海賊の乱闘へと発展していた。さんさんと降り注ぐ陽射しの中、ルルは何も考えずに、片っ端から海賊たちをぶちのめした。勝てないだろうと思っていたが、積もり溜まった怒りがようやく出口を見つけてしまった後では、拳を引くことのほうが難しかった。それはたぶん、乱闘に加わった職人たちの共通した思いだったろう。
そして気がつけば、立っているのは自分たちだけだった。
「あれ…、海賊は……?」
隣でカンナを振り回していた若い職人が、戸惑い顔で呟いた。右を見ても左を見ても、仲間の顔しか見当たらない。前を見れば、海賊は這いつくばってうめいている。状況がなかなかの見込めなかった。立っている海賊が一人もいない事に気づいても、戸惑いしか浮かばないでいたとき、アイスバーグの声がした。
「お客さん、どうしますか」
見れば、両の頬を腫れ上がらせている海賊の頭の前に、アイスバーグはしゃがみこんでいた。その斜め後ろには、金髪の少年が油断なく立っている。
威嚇するでも侮蔑するでもなく、まるで教師が教え子に向かって諭すような態度で、アイスバーグはいった。
「金を払って船を直すか、このまま航海を続けるか」
それはいっそ、優しい声だった。
「ンマー、内板まで痛んじまった船が、どこまで進めるか知りませんがね」
先ほどとは種類の違う沈黙の中を、アイスバーグの声が流れ広がっていく。乱闘の結果を理解し始めた職人たちが、期待に目を輝かせながら、海賊の頭の答えを待っていた。
食い入るような視線を一身に受けた男は、何度も声を詰まらせながら頷いた。
「わ、わかった…」
「何がわかったんです?」
「金は払う!払うから船を直してくれ!!」
地に落ちた海賊の頭が、悲鳴のような声で叫んだ。アイスバーグはにっと笑い、軽い動作で右手を上げた。
「パウリー」
「はい」
「船の査定に行ってこい。ああ、それから、料金は前払いで払ってもらえ」
「了解」
少年が得意げな笑みを浮かべて頷くのと、歓声が造船島に沸きあがるのは同時だった。
一番ドッグの前を、色鮮やかな喜びの叫びが一斉に咲き誇った。低い声、高い声。男の声、女の声。老人の声に若者の声。色とりどりの声が、潮風に乗って遠くまで響いていった。
「勝った!海賊に勝ったぞ!!」
空に両手を挙げて満面の笑みで叫ぶ職人や、嬉しそうに荷物を振り回している初老の商人の姿に、ルルもまた大声で笑い出していた。一体なにを恐れていたのだろうと思った。戦ってみれば勝てない相手ではなかったのに、昔話の魔物に怯える子供のように、実体のない虚像に足をすくませていた。やりあってみれば、たいしたことのない連中だったというのに!
ルルはアイスバーグの姿を探した。あの恐ろしく度胸の良い青年と、話をしてみたかった。人ごみを掻き分け、青年の名前を称える声が大きくなるほうへ歩いていけば、見間違え様のない色の髪が目に入った。そこでルルは足をとめた。
アイスバーグは静かに微笑んでいた。そこら中から肩を叩かれ、抱きしめられ、礼をいわれながら、青年は穏やかな笑みを浮かべていた。
穏やかすぎる笑みを、浮かべていた。
仕事を終えて帰宅したルルは、明りもつけずにベッドの端に腰をおろした。
光に慣れていた目では、一歩先も見渡せない。自分自身の存在すらあやふやになりそうな濃い闇の中で、ルルは胸から息を吐き出した。今日の午後は、ろくに仕事にならなかった。もっともそれはルルだけでなく、昼の一件を見ていた同僚たちも同じことだったが、浮かれる友人たちとは違う理由でルルは仕事に集中できなかった。
一瞬垣間見たアイスバーグの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
いい加減嫌気が差したのだと、思っていた。度重なる海賊たちの横暴に、まだ歳若い青年は我慢できなくなったのだと。後先など考えずに手を出して、結果的には勝利に終わった。あの場にいたほとんどの人間がそう思ったように、ルルも最初はそう考えていた。
だが、それにしてはアイスバーグは冷静すぎた。
(そもそも、なんで1番ドッグにいた?)
腕のいい青年があちこちのドッグに招かれている事は知っている。ルルのいる6番ドッグにきたこともある。青年の属する会社はあくまで4番ドッグだが、今日はたまたま1番ドッグに呼ばれていたのだろう。
──── たまたま1番ドッグに呼ばれた日に、たまたま海賊たちと乱闘を起こした?
ルルは一人首を振った。その考えは、あの落ち着いた青年に似合わなかった。結果的には勝利に終わったが、負ければ1番ドッグにどれほどの迷惑をかけたことか。それを考えないような男には見えなかった。長年このウォーターセブンに住んでいて、海賊のやり口を知らないはずがない。話など通じず、すぐに武力に訴えてくる連中に、どこの造船会社も泣かされてきたのだ。
だからこそ、今日アイスバーグが海賊連中をのして代金を払わせた後は、全ドッグがお祭り騒ぎのようだった。自分たちだってその気になれば海賊に引けを取らないのだと、若い職人たちが熱に浮かされた顔で叫んでいた。今日の勝利は、失われていた自信を誰の胸にも取り戻させたようだった。
──── 自信を?
すうっと目の前が開けたような気がした。夜の黒に包まれたまま、ルルは視界がはっきりとしていくような感覚に襲われた。頭の奥が凍てつくように冷えて、そのくせ心臓はどくんどくんと動きを強めてくる。
(どうして、一番ドッグにいた?)
1番ドッグは水門エレベーターに最も近い場所だ。昼時になれば、仕事の手を休めた人々が大勢あの付近を通る。昼休みにもっとも混雑するのは、食堂と水門エレベーターではなかったか。
あの時間帯にあの場所で騒ぎを起こせば、いやおうなしに人目を引く。造船工場で働く職人たちも、職人たちに弁当を売りに来る商人たちも、必ずあの場所を通る。
──── だから、アイスバーグは1番ドッグを選んだ。あの光景を見せつけるために。
(まさか!)
自分の考えに自分で首を振って、それでもなお否定しきれなかった。アイスバーグは落ち着いていた。最初から、最後まで、奇妙なほどに落ち着き払っていた。
(確信があったってのか?)
海賊たちに勝てる自信が、あの青年には初めからあったのか。自信があったからこそ、大勢の人間の前で派手な乱闘を起こしてみせたのか。怒りを蓄積していた職人たちが乱闘に加わるだろう事も計算の上で、海賊たちを挑発して見せたのか?
──── 踏みにじられるままになっていた人々に、自信を取り戻させるために。
ぶるりと、ルルは身震いした。
考えが正しければ、それはもはや、喧嘩でも戦いでもない。パフォーマンスだ。
海賊たちの言動も、職人たちの怒りも、そして実際の戦闘力も、アイスバーグは全て計算に入れていた。その上で、誰の目にもはっきりとわかる明確な勝利を描いてみせた。
落ち着いていて当然だ。あの男にとっては、一連の騒ぎの全てが想定内の事でしかなかったのだから。海賊連中も、自分たちも、あの男の掌で踊っていたのだ。
(見せ物じゃねェか)
ルルの中で、それはもはや乱闘とは呼べなくなっていた。あれは『見せ物』だ。勝利を示し、自信を与えるためにアイスバーグが作り上げた舞台だ。
心臓が溶かした鉄のように熱かった。荒くなった息を、何度も飲み込んで噛み殺した。自らの推測に疑いを持つには、アイスバーグの笑みは穏やか過ぎて、静か過ぎた。青年の静かな表情を思い出せば、それだけでぞくりと肌が粟立った。
あの男、と、ルルは小さくうめいた。
「あの男、英雄にでもなるつもりか」
あらん限りの皮肉をこめて、誰もいない暗闇に吐き捨てた。
それでも、そこに賛美の響きが混じっている事に、気づかずにはいられなかった。
ルッチに呆れられるほど思慮深く、スパンダムに厄介がられるほど頭のいいアイスバーグさんを書いてみたかったのです。