サン・ファルドを訪れたのは、あの事件以来初めてだった。
 後処理が終わり、ウォーターセブンが穏やかさを取り戻し、全身の傷もようやく目立たなくなった頃、アイスバーグはカーニバルの時期に合わせて島を訪れていた。
 用意された客室からは、美しい夜景が一望できる。アイスバーグは窓際にたたずんで、ほのかな潮風になびく色とりどりの灯りを眺めていた。ドアの閉まる音は聞こえていたが、あえて視線を動かさず、幾ばくかの気まずさを隠した声で呟いた。
「今夜はソファで寝るとしよう。あなたはどうか、ベッドを使ってくれ」
 わずかな沈黙の後、ふふふと、吐息にも似た声が空気を震わせた。それは抑えきれない笑い声だった。アイスバーグが振り返ると、薔薇のように艶やかで、百合のように涼やかな女性が、小振りの扇で口元を隠しながらこちらを見ていた。
「初めてですわね」
「ンマー、そうだったか?」
 とぼけてみても、付き合いの長い彼女は騙される素振りも見せなかった。それどころか、確信を込めていう。
「初めて、ですわ。あなた様が、社長としてこの島を訪れられるようになってから、わたくしに寂しく独り寝をさせるのは、今夜が初めて」
「怪我が治りきってなくてな」
「ふふふ、恋は確かに、心にとっては怪我の一種といえますもの」
 アイスバーグは苦い顔で彼女を見たが、いっそう艶やかな笑みを返されただけだった。
「少し、妬けてしまいますわ。あなた様に義理立てをさせるような、幸運な恋人に」
 あえて恋人という形容をしていることを悟って、アイスバーグは内心で溜息をついた。わかっていたこととはいえ、この島では、ほかの島の市長の寝室事情まで筒抜けなのか。
 別室を与えられている恋人とやらの顔を思い浮かべて、アイスバーグは少しげんなりとした。



君に咲く恋の名を



 サン・ファルドには、春の女王の町セント・ポプラのような肥沃な大地はない。美食の町プッチや、造船都市ウォーターセブンのような、伝統の技もない。その代わり、この島にはありとあらゆる快楽が揃っている。
 カーニバルの町サン・ファルドは、四大都市の中でも特に歓楽の都として名高い。昼に眠り夜に目覚め、明け方までカーニバルは続く。賭場も娼館も合法の元に運営され、世界政府のお膝元でありながら、この町の夜の深さは底が見えぬほどだといわれる。
 この日、アイスバーグが昼食をともにしたのは、サン・ファルドの市長だった。老女と呼んで差し支えない年齢だろうに、その肌からつやが失われる気配はいっこうにない。目尻に刻まれた細かい皺さえも、艶やかさを滲ませてみせるのはさすがというしかなかった。
 この市長とも長い付き合いのアイスバーグは、当たり障りのない話題を選んで口にしながら、内心で警戒を強めていた。なので、サン・ファルドの市長がにいっと笑った瞬間、とうとう来たかと思った。
「ところで、アイスバーグ。今回の訪問の理由は、商談かい?それとも、恋人のお披露目なのかねえ?」
 途端に、盛大にむせかえる音が隣から聞こえたが、アイスバーグは眉一つ動かさずに答えた。
「ンマー、商談です」
「つまらない!なんてつまらない答えなんだい!このサン・ファルドで、そんなつまらない台詞が許されると思ってるのかねえ、白薔薇の君!」
「その恥ずかしい呼び方をやめてくれれば考えましょう」
「おや、水龍の御方のほうが良かったかい」
 アイスバーグは沈黙した。こちらの歳を考えてくれだとか、そもそもビジネスには関係ない話だろうとか、いいたいことは色々あったが、アイスバーグはスープを飲み干すことに専念した。隣はまだ咳き込んでいる。
「ふふふ、ねえ、アイスバーグ。あたしがわざわざ、男の惚気なんてつまらないものを聞いてやろうっていってるんだよ。大人しく喋っちまいな。それとも…、あたしが喋っちまっていいのかねえ?」
「サン・ファルドの市長につまらない話を聞かせるわけにはいきませんし、話されて困るようなこともありませんね」
「ほおお、坊やは知ってるのかい?あれと、あんたの関係をさ」
「商談に必要なことは教えてきてますよ」
 サン・ファルドの市長は目を星のように輝かせて、ぐるりと体の向きを変えた。今まで存在すら無視していた相手に、唐突に向き合う。衣擦れのような微かな音を立てて扇を広げると、それだけでこの女性の雰囲気はがらりと変わった。百戦錬磨の行政官から、この島一の娼館の主だった頃へと姿を変えて、彼女は品の良い声を鈴のように振った。
「なら、これもご存じかしら、ガレーラカンパニーの若き獅子殿?あなたの上司と、わたくしの娘の一人は、もう長い間寝室をともにする仲でしたのよ?それこそ、この方が初めてガレーラカンパニーの代表として、この島へ入らしたときから、ずっとですわ。そして、このわたくしが知るかぎり、この方が夜をともにされた相手は、あれだけ」
 ふふっと、貴婦人のように上品に笑いながら、歓楽街の女主人はパウリーを見た。笑みは蝶のように美しいが、目は毒のように深い。
「それについては、どう思われますの?」
 微かな沈黙の後、アイスバーグが口を開くより早く、パウリーはすっと立ち上がった。
 そして、深々と頭を下げた。
「──── ありがとうございました」







 ラブラブを書こうと思ったのにこのていたらく…!ていうかなんだこれ!
 次ではもう少しラブくなる、はず、です、たぶん。