性欲を伴った想いが厄介だった。だがそれも、理性を失わせるほどの物ではなかった。
スタートライン
パウリーは葉巻に火を付けて、一日の始まりの太陽を見た。窓ガラスはひんやりと冷たく、部屋の空気もまだ暖まってはいない。とはいえ暖房器具が必要なほどの寒さではなく、涼しいという言葉が一番しっくり来る気温だ。パウリーは上にはシャツを一枚羽織っただけの格好で、人気のない街を見下ろしていた。
自室の窓から見下ろす街並みに、変化はない。ウォーターセブンは昨日と変わらず、一昨日とも変わらず、一月前ともまた変わらない姿を人々に見せている。
(一番、変わったのは…)
葉巻を指でつまんで、パウリーは僅かに目を細めた。表面上は変わらない街並みの下で、多くのことが変わってしまったことを彼は知っていた。露見した裏切りと、焼け落ちた本社。体に残るいくつもの傷跡と心に残る痛み。それらを全てひっくるめて秤に乗せてもなお、一番変わってしまったものとの釣り合いは取れないだろうとパウリーは思った。
敬愛であり親愛であり、救いがたいことに恋情の相手でもある人は、どんな想いでこの朝日の照らす街を見ているのだろう。
パウリーは決して過激な支持者ではなかったし、かの人以外は何もいらないと考えるほど思慕に殉じてもいなかった。ギャンブルを愛し葉巻を好み、仲間達とともにいることを望んだ。ただそれでも、ただ一つしか選べないときがくれば、迷うことなくアイスバーグを選ぶだろう。選ぶ自分をパウリーは知っていた。
大切なものが横並びに増えていっても、頂点に立つのは一つしかない。それだけといえば、それだけの話だ。だからといって、アイスバーグにとっても自分が頂点であって欲しいと望んだことはなかった。それを望むにはたぶん、パウリーはアイスバーグという人を知りすぎていた。望みが負担になるとわかっていて望みたいとは思わなかった。
パウリーはただ、かの人にとっての安らぎでありたかった。力が及ばないことは重々承知していたが、それでも安住の地となりたかった。
アイスバーグは孤独だ。社長であり、市長でもあるあの人は、誰とも分かち合えない責任を一人で背負っている。自分の意志で選んだ孤独をあの人が嘆くことはないだろう。まして、誰かと分け合おうとするはずがない。アイスバーグの望みに反することは、スプーン一さじの重さほどのことでさえしたくなかった。
だからパウリーは、ひとときの安らぎを与えられればと願ってきた。パウリーにとって大切なものはアイスバーグの意志であり、望みであり、喜びだった。それを妨げようとする感情は全て自分の中に押し隠した。性欲を伴った恋情は少々厄介だったが、それも綺麗に笑顔の下に隠して見せた。難しいことではなかった。
ルッチと関係を持っていることを知ったときも、同じように、パウリーは何も知らない振りを通した。陰に隠れた夜のことを、愛弟子に知られたいとアイスバーグが望むとは思えなかった。
それでももし、あり得ない話だが万が一、恋愛相談なんてものを持ちかけられることがあったら、乏しい知識を総動員して答えなければとは思っていた。
嫉妬がないわけではなかったが、それは自分を揺さぶるほどのものではなかった。恋い慕う相手を他の奴に獲られた、という感想もあまりわかなかった。一般の恋愛事情に当てはめれば、相当逸脱している想いだと自覚してはいたが、結局のところ自分はあの人の幸福が全てに優先する。あの人がルッチといて幸せならそれでいいと思った。アイスバーグの幸福を祝う心以外は、いつも通り心の奥にしまい込んだ。
パウリーは紫煙を吐き出して、赤くくすぶる先端を灰皿に押しつけた。
裏切りが発覚して、一番変わってしまったのはかの人の心だ。少なくともパウリーにとっては、アイスバーグが受けた痛み以上に苦しいものはなかった。誰よりも冷静でなくてはならない立場にいるあの人は、悲しいそぶりをまったく見せないけれど、パウリーにとってはそれが余計に辛い。
俺がとめていれば、などと思うことは傲慢だろう。アイスバーグが選んだ道であり、結果だ。自分はただ受け止めるしかない。
(でも俺は、嫌なんですよ)
何事もなかったように笑う姿など見たくない。あの人がいっそう孤独に陥る未来など悪夢でしかない。自分が望んだものはあの人の安らぎだったはずなのに、どうしてそれっぽちの願いが叶えられない?どうして裏切りの痛みなど、あの人が味あわなければいけない。
静かな街を見下ろす。心は決まっていた。それは覚悟というほど仰々しいものではなく、水に乗せた木片が浮かび流れていくのと同じように、自然なことだった。
自分は今夜、あの人の部屋を尋ねるだろう。
そしてきっと、かの人は抗わない。
(誰も叶えてくれねェなら、俺が叶えるさ)
誰かを待つのはもうやめた。待った挙げ句にもたらされたのが痛みでしかなかったのだから、これ以上、顔も知らない誰かを当てにする気はない。自分はまだ思い描いている理想からはほど遠い男だが、それでも、今ここにいる誰よりもあの人を傷つけない自信がある。
望みはこの身で叶える。あの人の安住の場所に、自分がなる。
窓ガラスに指先を押し当てて、パウリーは睨み付けるように空を見た。
「俺は決して、裏切りませんから」
決意を秘めた呟きに、空の光はいっそう輝きを増したようだった。
自覚はないけど結構やばい人なパウリー。初書きパウアイがこんなでいいのか…(汗)あとルッチの扱いがひどくてごめんなさい。