ロブ・ルッチは悪魔のような男だ。
それはサイファー・ポール内での噂であり、ルッチに与えられた評価の一つじゃった。ルッチと個人的な関係を持った人間のほとんどが、何らかの形で自滅していることから、そういわれるんじゃろう。
いかれてる、と評したのはジャブラじゃった。ジャブラはわしらの中ではずいぶんまともな人間じゃから、ジャブラの評価こそ正しいのかもしれん。わしにはわからんが。
わしが知っとるのは、ルッチが恋人を人形にしてから捨てるという事実だけじゃ。ルッチのやり方はいつも決まっとる。気に入りを見つけたら、その相手を徹底的に甘やかして、揺りかごのように優しい手で包み込む。望まれる言葉を口にして、尽くして、相手の自尊心をくすぐりながら、甘い幻想に酔わせてルッチに依存させる。何が楽しいのか知らんが、相手が辛いと思うことも苦しいと感じる事も、やらなくてはならない事も全てルッチは奪う。「あなたの代わりに全てを私がやりましょう。あなたはただ私に任せてくださればいいのです。」そんな薄気味の悪い囁きに乗せられるほうも愚かじゃろう。だが、乗せられる愚か者のなんと多いことか。手も足もルッチに与えて、完全な支配下に入った時点で捨てられる事はわかっとるというのに。ルッチは相手が陥落するその一瞬だけが好きなのだ(と、本人がいっておった。真実かどうかは知らん。)人形に堕とした次の瞬間には、ルッチは相手の名前も忘れとるんじゃろう。
わしは自殺死体が増えるたびに、ルッチは一体何が楽しいのかと不思議に思う。ジャブラのような激しい嫌悪や、ブルーノのような諦めの溜め息はわしの胸には浮かばん。わしはただ、不可解である。なぜルッチはあれほどの手間をかけるのじゃろう。ただの一瞬のために、どうしてあれほどの時間をかけるのじゃろう。常に迅速であるべきCP9にしては、あまりに合理的でないやり方と思わんのか?
焼け落ちた楽園の上に幸福を築くひと
春の陽射しの穏やかな日じゃった。
社長室で書類を提出し、そのまま踵を返そうとしたわしを、アイスバーグさんが引き止めた。
「カク、お前は確か…、ルッチと同郷だったよな?」
そういうことにしてあるのは事実じゃったから、わしは短く頷いた。内心の緊張などおくびにも出さずに、真っ白な疑問を眼に宿してアイスバーグさんを見る。
アイスバーグさんは珍しく、どこか迷っているようじゃった。まさか、今さらわしらの身元に不審な点でも発見したのじゃろうか。ああ、いや、違うの。このためらいは。
「……ルッチは、昔から、ああなのか?」
わしの口からは、ついとため息が零れ出た。まったく不可解じゃ。なぜあの男は、立てずともすむ波風を、好んで立てようとするのじゃろう。この人間がたやすい相手ならともかく、そうではないことは、目をのぞいただけでもわかるというのに。現に、見よ。気づかれておるではないか。
今さら否定するのは無意味なことじゃったから、わしは「はい」と答えた。
「そうか……」
「やめるように、わしのほうから話しましょうか?」
意外な言葉が、喉からするりと零れ出た。わし自身わずかに驚いてはおったが、後悔は感じておらんかった。アイスバーグさんは、ルッチに抵抗できておる珍しいこの人間じゃ。いつか任務のために殺すことがあるとしても、任務とは関係ない場所で腐らせる必要もなかろう。それに、気づかれているならば、ルッチの策はもはや八割方失敗に終わっとる。
「ンマー、いいさ。あれがルッチの愛情表現なら、俺は受け入れるだけだ。応えてやることは出来ねェけどな」
呑気と表するべきか、おおらかと表するべきか。
「じゃが、辛くはありませんか…?わしはルッチがああやって堕とした人間を、何人か知っとります」
そしてそのうちの何人が自殺したかも。
「わしはあのやり方が吐き気がするほど嫌いじゃが、あの誘惑を撥ね退けることがどれほど困難かは、想像がつきます」
わしはわしの口調の激しさに驚いておった。
はて、わしはそれほどに嫌っておったのかのう?…まさか、ジャブラではあるまいし。
では、わしは怒っておったのか?怒る、いったい何にじゃ。同僚が、意味のない遊びをやめんことにか?それこそいつものことじゃろう。
なら、わしは、どうしてこうも許せぬと感じておるのじゃろう。
密かに考え込んでおったわしは、アイスバーグさんがわずかに目を見開いたことに気付いて、意識を戻した。
「いや…、そうか」
彼は奇妙なことをいった。
「あれは誘惑だったのか」
わしは唖然としてアイスバーグさんを見た。あれが誘惑でなければ、なんじゃというのじゃろう。なんじゃと、思っておったのじゃろう?
ルッチが悪魔のようなと評されるのは、簡単に人を捨てるからではない。あの男の誘惑が、的確に人の弱さをつくからじゃ。あの男の見せる楽園は、ひとには抗いきれぬほど甘い。
「カク」
「はい」
アイスバーグさんは人差し指で、とんとんと自分の胸を叩いた。心臓の少し左、喉の少し下辺り、胸の中心。
「おれの幸福はここにある。だから、心配しなくていい」
社長室を出てから、わしはかすかに微笑んだ。
勝てるわけがないではないか。
あの人は真の楽園を知っとるのじゃから。わしは知らんが、でもあの人は知っとる。ルッチの差し出す幻想を偽りと断じる事のできるあの人は、本当の幸福を知っておるのだ。それはあの人の胸の中にある。あの人は机でも会社でもなく自分の胸を叩いた。そこに幸福があるのだといった。
(ならこの地上のどこにもないんじゃな)
失われてしまったのじゃろう。目に見える形としては失われてしまったのじゃ。もはや触れる事も見つめる事も叶わぬこと。だからあの人は、自分の胸を差した。もうそこにしか存在せぬものじゃから。
のう、ルッチよ、おぬしが勝てるわけがないではないか。
あの人は真の楽園を知っとるのじゃから。
そしてそれを奪われ、踏みにじられてもなお、大切に抱えつづけておる。
壊れた楽園がもたらす痛みに、独りで耐えておる。
勝てるわけがない。あの人がルッチの手を取ることは、決してありえんじゃろう。
(喪失を知らぬ悪魔が作り上げた楽園なんぞしょせんその程度じゃ)
焼け落ちた楽園を、痛みしかもたらさぬ廃墟を、それでもなお、ただ一人で大切に抱きしめておる人に、悪魔の囁きが何の意味をもたらそうか。
あの人は地獄に耐えているのじゃから。
地獄と変わってしまった楽園の残骸を、そうと知りながら抱きしめているのじゃから。
愛を知らぬ悪魔よ。おぬしはあの人から何も奪えやせんじゃろう。
わしはとても幸せな気持ちで、廊下を歩いていった。
カクは好きな相手でも、矛盾なく殺せてしまう人なイメージです。