力を振りかざして手に入れた場所が失われたとき、一瞬だったが、新庄は安堵していた。
 激しく苛立ち、殺意に近いほどの憎しみを抱きながら、それでも、心のどこかでほっとした。
 新庄は、失われなかったものを知らない。周囲の環境のせいで、時には新庄自身のせいで、全ては失われてきた。最後に新庄の手の中に残るものは痛みだけだった。なにが悪かったのだろうと考えもしたが、やがて諦めを覚えた。失うことにも、その痛みにも慣れることはできなかったが、諦めることはできたからだ。
 初めから失われるとわかっていれば、最後の痛みも少なくてすむ。新庄は居場所を手にしたときから失う日のことを信じていたし、それゆえに怯え続けていた。




表と裏のように




「久々に帰ってきたと思ったらよくしゃべるじゃねーか。くだらねー事を」
 階段に座り込んだ安仁屋にそういわれて、新庄は内心で小さく笑った。
 確かに学校に来たのは久しぶりだが、ここに新庄の居場所などもうなかった。帰ることなどできない。新庄の帰る場所はどこにもなかった。それでいいと新庄は思っていた。
 味方だといってくれた川藤の声や、言葉や、あのときの温度を思い出すだけで、この先を生きていける気がした。もともと新庄は多くを求めない。たった一つ信じることのできるものがあれば、それで十分だった。
 それでも、安仁屋は違うようだった。若菜たちのような頑なさが安仁屋にはない。帰ってきたと、新庄に対して簡単にいえる。不思議ではあったが、安仁屋ならあり得るかとも思った。
 安仁屋は簡単には揺らがない。安仁屋には自分自身への深い信頼と愛情がある。それは安仁屋が今までに培ってきたものだ。今は少し腐っていようと、過去の積み重ねは消えはしない。安仁屋が努力し、積み重ねてきたものは、今でも安仁屋の支えになっている。
 だから余計に迷うのかと、不意に新庄は気づいた。
 安仁屋の中には確固たる積み重ねがある。だから、簡単には踏み切れない。長い時間を野球に賭けてきた分だけ、安仁屋の中のよどみは深いのだろう。
 新庄は逆だった。新庄には自分を信じることも愛することも困難だった。新庄の手の中には何もない。積み重ねてきたものも、培ってきたものもなく、今は川藤の存在だけが新庄を支える全てだった。
 それでいて、二人は同じように、野球部に戻れないでいるのだった。
 安仁屋は、仲間のためには戻れない。今まで築き上げてきたものが、そんな曖昧な理由で野球に戻ることを許さない。自分自身が望んで、自分自身のために戻るのでなければ、安仁屋はとうてい動けない。
 そして新庄は、自分のためには戻れない。不信と、嫌悪すら感じる自分自身のために戻ることなど許せない。新庄が動けるのは、仲間のためになるときだけだ。だから、喧嘩をするのなら、新庄はいつだって先頭に立てた。そこに自分の存在意義があるのだと信じていたし、仲間を守っているという実感は新庄の心を水のように満たした。けれど、今の野球部は、野球をするためにある。なにより、仲間だった彼らが望んでいないのに、どうして戻ることができるだろう。
 安仁屋は自分のためでなくては動けないが、新庄は仲間のためでなくては動けなかった。その意味で、新庄は安仁屋よりずっと弱かった。弱いことを、新庄自身よくわかっていた。
 だから、新庄はこのままでいいと思っていた。川藤が待っていてくれることは知っていたが、それでも野球部には戻れない。そのうち本当に一人になっても、川藤のくれた言葉があれば、当分は穏やかな思いで生きていけるだろうと思った。新庄はわずかなもので満足することに慣れていた。

 逃げていく女を追おうとする安仁屋を、新庄は引き止めた。
「おまえらはおとなしく野球やれ」
 そういって殴りつけて、新庄は女の後を追った。
 




 新庄の場所が失われたのは新庄自身のせいだったが、川藤のいうように、その場所はもともと不安定だった。仲間を本当に信じていたわけではなく、信じられていたわけでもなかった。
 絆なんてものは存在しなかったのだと、新庄にもわかっている。失うことに怯え続けていた頃から、本当はわかっていた。
 それでも、今の新庄は、彼らがとても好きだ。
 怯え続けていた頃はわからなかったのに、離れた今になって、自分がどれほど野球部の連中が大事だったのかがわかる。傍にいたときに気づければよかったと後悔はするが、心は穏やかだった。

 ──── 安仁屋はきっと、戻るだろう。
 安仁屋にはそれだけのものがある。多くのものを持っている安仁屋は、より多くのものを得るために歩いていける。
 新庄は戻れない。それでも、安仁屋が戻ることを楽しみに思える自分が、少しだけ好きだと思った。










 「帰ってきた」という言葉に驚いて萌えて書いてみた話。
 スリーラン行け!といわれる安仁屋と、気楽にアイ〜ンだといわれる新庄が好きです。