新庄はいま、今まで生きてきた中で一番幸福だ。
 御子柴の言葉はわからない。わからなくても新庄は御子柴のことが大切で、仲間のことが大切で、だから安仁屋の言葉も一応は守る。
 だけど最終的には、新庄はただ、仲間を守れればいい。大切な彼らを、大切にできればいい。
 心の底から大切なものなど、今までなかったから、大切に思えるだけで新庄は幸福だ。これ以上ないほど幸せだ。




どこかの星の王子様




 安仁屋は眉をひそめた。どうしたと問いただすより先に、見覚えのあるボールが差し出される。
「おまえ、それどこで…!」
「……落ちてた。戻しておいてくれ」
 落ちてた?このウイニングボールが?御子柴が部室に鍵をかけて、大事にしまっておいたこのボールが?
 落ちているわけがなかった。それでも安仁屋は、黙ってそのボールを受け取った。新庄の顔が、わずかに和らぐ。ほっとしたように力を抜いた新庄に、安仁屋はふつふつとこみ上げるものを感じた。
 新庄が自分に向けているのは、紛れもない信頼だった。だけどそんな風に信じて欲しくなかった。だいたい、このチームメイトは自分をどんな人間だと思って、どんな風に信じているのだろう。昼休みの前まで、自分たちが先輩たちに謝りに行く前までは、絶対に新庄の顔にこんな怪我はなかった。
(ダチがいきなりケガしてても、見て見ぬ振りして、黙っててくれるっつー信頼か?ずいぶんと勝手だな、オイ)
 安仁屋は冷たい目で、新庄の後ろ姿を見つめた。新庄はせめて、なにを思っているかを口にするべきだった。そんなこともできないなら、勝手な信頼に応えてやる必要は、自分の中のどこにもない。
 安仁屋は無言で踵を返した。

 教室に戻っていた御子柴を、さりげなく廊下に誘い出して、ほかの連中から見えないところまで引っ張っていく。授業は出ておかないとと、不安を覗かせるキャプテンに、安仁屋はそのボールを渡した。
 御子柴の目が、まん丸くなった。
「安仁屋!これ、どこにあったんだ!?」
「落ちてた」
「ウソォ!?」
「って、新庄がいってたぜ」
 途端に御子柴の目が険しくなる。
 野球部のキャプテンは多少弱気ではあるが、甘ったれではなかったし、人をむやみに甘やかしもしなかった。ともすれば弛みがちになるチームメイトに、御子柴はいつだって、ダメなことはダメだとはっきりという。その真っ直ぐさで、御子柴はチームを率いていた。
「…新庄は?」
「屋上に行ったみてーだぜ。顔が腫れてたからな、見られたくないんだろ」
「わかった。新庄と話してくるよ」
 きっと、睨み付けるように顔を上げて、御子柴が歩き出す。大股で、勢いよく歩き出す姿からは、授業のことさえ抜けて落ちてしまったようだ。安仁屋は両手をポケットに突っ込んで後を追った。
 自分たちのキャプテンは、真摯で、真っ直ぐだ。そして川藤ほどには大人ではない。
 だから新庄は、御子柴に怒られればいいのだ。





 新庄は屋上のフェンスにもたれかかって、ぼんやりと空を眺めていた。
 血はとまったが、口の端は切れてぐずついているし、左頬はまだ赤みを帯びている。教室に戻れば問いただされるのは目に見えていたから、新庄は部活が始まるまで、ここで時間を潰すつもりだった。
(部活まで二時間くれーか…。消えっかな…)
 口の傷はともかく、殴られたあとが頬にあからさまに残っているのは困る。赤味さえ消えてくれれば、多少腫れていても誤魔化すことはできるだろうし、明日青あざになったとしても、寝相が悪くてぶつかったとでもいえばいいのだが。
 タオルで冷やそうかと思い始めたとき、屋上のドアが勢いよく開いた。
「新庄!」
「……御子柴…?」
 授業は始まっているはずなのに、なぜここにいるのだろう。小柄なキャプテンが風を切るように近づいてくるのを、新庄は呆気にとられて見つめた。
 御子柴は新庄の真正面に立つと、きゅっと眉間に皺を寄せた。
「どうして一人で行ったんだよ」
「……なにが…?」
「これ!取り返してきてくれたんだろ!どうして一人で行ったんだよ!」
 新庄の目に突きつけられたのは、小さなウイニングボールだった。息を呑んだ新庄は、御子柴の肩越しに、もう一つ影が近づいてくるのに気づいた。
「安仁屋、てめー」
「あん?なんだよ、黙ってろなんていわれてねーぜ」
「いうほどの事でもねーだろうが!」
「どうして言わないんだよ!」
   怒鳴ったのは御子柴だった。珍しく真剣に怒っているのがわかって、新庄は言葉に迷った。なぜ怒られているのかがわからなかった。
 黙っていたのは騒ぎにしたくなかったからだ。誰が持っていたかも、今となってはいう必要はないように思えた。それだけのことなのに。
「…大丈夫だ。もう、盗まれたりしねーよ」
 あの先輩は理解してくれた。だから、二度目はない。新庄が精一杯の優しい口調で言うと、逆に御子柴は叫んだ。
「そんなこといってるんじゃねーよ!誰が盗んだかとか、もう盗まれないとか、そんなことはどうでもいいんだよ!そうじゃなくて、どうして一人で行ったんだよ。心当たりがあるなら、どうして俺たちにいわないんだよ」
 どうしてと問われても、新庄は口を結ぶしかなかった。理由なんて見つからない。あえていうなら、そのほうがいいと思っただけだ。
 御子柴に話せば、絶対についてくるだろうし(御子柴は殴られれば簡単に吹っ飛んでしまいそうだ)、安仁屋には話しておこうかと思ったが(だが安仁屋はピッチャーなのだから殴られて万が一があったら怖い)、岡田や若菜たちも同じ事だった。
 殴られに行くのは一人でいい。そして自分は一番頑丈だ。それだけのことなのに、どうしてこうなるのかが新庄にはわからなかった。
「一人でなにやってるんだよ、新庄。また、一人で…。それ、殴られたんだろ…?」
 痛みに耐えているような顔で、御子柴が左頬を見上げてくる。新庄はようやく一つの可能性に思い当たって、微かに笑った。
「心配すんな。俺は手ぇ出してねーよ。一度もやり返したりなんかしてねえ。だから」
「新庄!」
 安心しろと言い終わる前に、御子柴に掴みかかられた。御子柴の顔が近い。歯を食いしばって、怒っているのに泣きそうなのがわかった。
(どうしてだ?)
 内心で弱り切って、新庄は安仁屋にそっと目を向けた。
 新庄はもともと、御子柴には弱い。負い目があるからというよりは、御子柴の真っ直ぐな性格が好きだからだ。弱いときも強いときも、御子柴は嘘をつかない。自分を守るために他人を傷つけることをしない、そのしなやかさが、新庄はとても好きだった。
 だから余計に狼狽えて、救いを求めるように安仁屋を見つめれば、野球部のエースはやれやれというように首を振った。
「その辺でいーだろ、御子柴」
「よくねーよ!」
「いま、それ以上いったって、新庄はわかんねーよ」
 バカだからと、付け加えられた言葉にむっとしたが、御子柴が手を離してくれたのはありがたかった。喉の奥から息を吐き出す。
 安仁屋はゆっくりと近づいてきて、軽蔑にすら似た眼差しで新庄を見た。
「とりあえず、二度と単独行動はすんな」
「なんだよ…」
「怒られたくねーだろ?」
「安仁屋!そういう言い方はよくないだろ!」
 割って入った御子柴に、安仁屋は小さく肩をすくめた。
「野球を見たこともねーヤツに、ストライクとボールの違いを説明しても無駄だろ」
「──── だからって、わかってないのにバッドを振らせるのかよ。それじゃ、何にも変わんねーじゃんか」
「いってもわかんねーヤツは、体に覚えさせた方が早いだろ。説明は、おいおい頼むぜ、キャプテン」
「……わかった。本当は、よくないけど、わかったよ」
 訳のわからない会話は、御子柴のため息とともに終了したようだった。諦めたように息を吐き出して、御子柴は新庄に向き直った。
「なにか冷やすもの、探してくるから」
「あ、ああ…」
 とりあえず頷けば、御子柴の顔にまた、痛みにも似た色が走る。いったい何をしてしまったのだろうと、御子柴の背中を見つめながら考えたが、答えは出なかった。
「さっきのは、なんだよ…?」
「あぁ?」
「バットがどうとか…」
 睨み付けても、安仁屋は怯まない。それどころか哀れむような顔になって、新庄の腫れた頬を軽く叩いてきた。
「おまえ、気遣われたことねーだろ?」
「なに…?」
「大事にされたこともねーんだろうなー。そりゃバッド握らせても振らねーわ。使い方さえわかってねーもんな」
「意味わかんねーよ。はっきりいえよ、てめー」
 低い声で凄んでも、安仁屋は新庄を見もしない。フェンスにもたれかかり、空を見上げたまま、淡々といった。
「おまえがとってもアホで、御子柴が困るくらいアホだって話だよ」
「なんであいつが困ってんだよ…」
 眉根を寄せた新庄に、安仁屋はまた、呆れたように呟いた。
「ったく、目に見えねーものが大事っつっても、それだけ大事にしてどーすんだよ…。どこのアホの星の王子さまだ、おまえは」
 新庄にはやはり、その意味が掴めなくて、ただ顔をしかめた。




 安仁屋は、一方通行な幸福なんて認めない。
 大切に思うのなら、同じだけ大切に思われていることを、新庄は知るべきだ。だが新庄が不慣れなことも、安仁屋は気づいていた。気遣われたことがないから、気遣われても受け取り方がわからないでいる。
 本当は、御子柴のように、真っ直ぐな言葉をぶつけてやったほうがいいのだろう。
 けれど今の新庄はあまりにもわかっていないから、安仁屋はいちいち説明しない。ただ「するな」とか、「しろ」とかいうだけだ。
 それでもいつか新庄は、自分が握っているものの意味に気づくだろう。
 安仁屋は、そう、願うように信じている。



 だけどいま、新庄は、今まで生きてきた中で一番幸福だ。









 ウイニングボールのあの後はどうなったのかなという話。あと新庄が御子柴に弱かったらいいという願望です。でもなんだか御子柴が新庄のオカンみたいになってしまった。ま、まあ、キャプテンですからね!