新しいスパイクを買うのに付き合ってくれと頼んだのは、新庄だ。
生まれて初めて買ったスパイクは、適当に選んだせいか、それとも豊富な練習量のためか、すっかりすり減ってしまっていた。新しい物を買おうと思って、あちこちショップをのぞいたり、雑誌をめくってみたりもしたが、結局は混乱しただけだった。
(どれがいいかなんてわかんねーよ…)
野球を始めて一年にもならないのだ。目移りばかりして、まったく決められない。
迷い疲れた新庄が安仁屋に頼むと、野球部のエースは二つ返事で引き受けてくれた。
安仁屋はいいヤツだ。そう、基本的に安仁屋はいいヤツなのだ。
たまに横暴であったり、人の話を聞かなかったり、自分を過信して視野を狭くするときもあるが、そんなときですら安仁屋はいいヤツだ。新庄はそれをよく知っているし、疑ったことは一度もない。
だが、どんないいヤツでも他人のフリをしたくなるときがあるんだと、新庄はいま、身をもって知っていた。
「そのロンゲがうぜーんだよ!女みてーな頭しやがって!」
「ハゲだからって人の髪羨んでんじゃねーよ、死ねハゲ!」
「バカかてめー、切ってんだよこれは!てめーこそ高校球児らしく坊主にでもしやがれ!」
「てめっ、人の髪掴むんじゃねーよ!離せ、ハゲ!」
「ちょうどいいからバリカンで剃ってやるよ!丸坊主になりやがれ!」
「ああ!?やれるもんならやってみろ!そん時はてめーの頭を十円ハゲまみれにしてやっからな!」
休日のスポーツショップには、学生からお年寄りまで幅広い年齢層の客が来ていたが、お互いの髪の毛を掴んで罵りあっている客などもちろん二人だけだ。
近くで靴を見ていた、小学生くらいの女の子が吹き出すのを見て、新庄は絶望的な気持ちになった。
(帰りてえ…。なんでもいいから帰りてえ…)
スパイクを選ぶどころではない。他人のフリをするので精一杯だ。江夏が売り物のバリカンを振りかざすのを、止める気持ちにすらなれない。この際、安仁屋が丸坊主になろうと江夏が十円ハゲになろうとどうでもいいから、この無意味な(そして人目を引きまくる)争いをやめてくれないだろうか。
「おまえ、スパイク買いに来たのか?」
二人から少し離れた隅っこで新庄がどんよりしていると、いつの間にか河埜が隣に来ていた。
「ああ、一応な…。…どれがいいかわかんねーから、付いてきてもらったんだけどな……」
その先をいわなくとも、河埜は察したようだった。
「お前は?なにを買いに来たんだ?」
「俺はただの付き添いだ」
新庄は目をぱちぱちと瞬かせて、思わず江夏を窺った。
「……一人で買い物に行けねータイプには、見えねーがな…」
「俺だって見えるか。そうじゃなくて…、あいつ、自分の用事に人を付き合わせるのが好きだろ?」
「いや、俺はあんま、江夏とは付き合わなかったからな…」
安仁屋なら、いろいろと苦い思い出を抱えていそうだが、新庄は江夏と会話した記憶さえ曖昧だ。
あのころの自分は、力ですべてを押さえつけることに必死だったから、江夏も関わってこなかったのかもしれない。江夏と安仁屋の違いを、一言でいうなら、江夏のほうが要領がいいのだ。
「…そうか、でも、なんか、悪かったな」
妙に申し訳ない気持ちになって新庄が謝ると、河埜がわずかに眉を上げた。
「なんでお前があやまんだよ」
「……なんでだろうな…?」
新庄が首を傾げると、河埜が小さく吹き出した。口を押さえて笑いをこらえている様子は、正直にいって、悪巧みをしているオッサンのようだ。いや俺だって人のことを言えるツラじゃねえだろうと思いながらも、新庄はつい吹き出してしまった。
とたんに、首を絞められた。
「ぐっ…!」
「なーに笑ってんだ、新庄。こんなオッサンとだべってんじゃねーよ!オッサンがうつったらどーすんだ」
「けっ、バカが。新庄なんか元からガキが二秒で泣き出すようなツラじゃねーか」
「んだとォ!!」
やめてほしい。何でもいいからやめてほしい。安仁屋に肩をつかまれた格好で、いや、正確にいうと、安仁屋の腕に首を絞められた状態で、必死に呼吸しながら新庄は思った。
けれど新庄の祈りもむなしく、安仁屋は新庄を右腕に捕獲した格好で、胸を張った。
「わかってねーな、江夏。新庄なんかな、三年にモテモテなんだぜ。新庄くーん!なんて騒がれててよォ、こないだも超可愛い先輩から差し入れもらってたんだからな!」
店内の客の視線が自分に集まったことに気づいて、新庄は死にたくなった。
「けっ、河埜なんかな、三年にも一年にもモテモテなんだよ!こないだだって三年に呼び出されて、アニキと呼ばせてくれなんていわれてたんだぜ!」
安仁屋と新庄は、仲良く動きを止めた。店内にも、重苦しい空気が立ち込めた。
「……江夏おまえ、そういうことはあんまり言わないでおいてやれよ…」
新庄も、首を絞められながらも、コクコクと頷いて同意を示した。そんな男子校の悲しすぎる事情はあまり聞きたくない。しかもなぜか江夏は自信満々だ。河埜はもはや、悟りを開いたような顔をしている。
ああ本当に、ニコガクに残ったのが安仁屋で良かった。新庄は、心の底からそう思った。
結局、河埜が選んでくれたスパイクを買って、新庄はスポーツショップを出た。
まだ江夏を罵り足りないといいたげな安仁屋の肩を引っ張って、街中を離れる。いつもの川原沿いの道に出たところで、安仁屋はようやく不満げな顔を改めて、新庄の手からビニール袋を奪った。
「……ふーん。まあ、いいんじゃねえの」
スパイクのケースを覗いてそういう安仁屋は、言葉とは裏腹に、冷ややかな目をしている。
「…なんだよ」
「いーや?わざわざ俺に付き添わせたくせに、河埜が選んだやつを買うなんていい根性してるじゃねーかてめえ、なーんて、思ってねえぜ?」
はっはっはっと、わざとらしく笑う安仁屋に、新庄は深くため息をついた。
「てめーが選んだのは、確実に予算オーバーだろ…」
なぜか江夏と二人でスパイクを選び出し、そして二人とも張り合って選ぶものだから、最終的に掲示されたのは、新庄が思わず『買えるかあ!!』と怒鳴ってしまったほどの一品だった。ゼロが一桁も二桁も違う、一流ブランドの最新モデルを勧めるほうがどうかしている。
「それに、反対しなかったじゃねーか」
「あぁ?」
「気に入らなかったら、お前はハッキリいうだろ」
「──── 俺がやめろっつったら、やめたのかよ?」
「ああ」
軽い口調で、新庄は答えた。それは当然のことだった。河埜を信頼していないわけではない。そもそも、そういう問題でさえない。
ただ単に、野球部の連中と、それ以外を、秤にかける気すら新庄にはないというだけのことだ。
ややあって、安仁屋は小さく息をついた。
「悪かったよ。アホなことを聞いちまった」
「別に…、俺は…」
「いいや俺がアホだった。てめーが底なしのアホだということを忘れていた俺がアホだった」
「ケンカ売ってんのか、コラ」
睨み付けると、安仁屋はいつもの、人をせせら笑うような笑みを浮かべて新庄を見た。
「売ってねーよ。売っても買えねーやつに、わざわざ売ったりしねーんだよ、俺は」
「……てめーはその性格の悪さだけは、江夏と張るよな」
「んだとコラァ!」
とたんにまなじりを吊り上げた安仁屋に、新庄は小さく肩をすくめて見せた。
一緒に買い物に来たのがじゃなくて安仁屋じゃなくて岡田だったら、新庄は江夏と仲良くやれそうだなと思ったりしました。というか、二人で仲良く、岡田vs河埜に怯えていそうです。