付き合っていたのは、もう六年も前の話だ。
俺が高校二年で、あの人が三年だった。雰囲気に流されてうっかりセックスをしたのがきっかけで、何となくお付き合いして、一週間で別れた。
俺は捻くれすぎていたし、あの人は甘すぎた。俺の言葉を端から端まで、嘘もわがままも拾い上げようとして、あの人は疲れていった。そして俺は、そんなあの人に苛立ちを抑えきれなかった。
あとから考えれば、付き合うには最悪の相手だったのだ。その証拠に、別れを切り出したとき、あの人は目に見えてほっとしていた。
なんて無様
築二十年のわりにはきれいで、清潔感のあるアパートのチャイムを鳴らす。駅からは遠いけど、俺はいつも車だから問題ない。少ししてドアが開くと、お世辞にも歓迎しているとはいえない顔がのぞいた。
「帰れ」
「お邪魔しまーす」
ドアに指をかけて、力ずくで引き開ける。甘いでしょ。技師といっても筋トレしてるわけじゃねーんだから、プロ野球選手の腕力に勝てるわけがない。ホントに入れたくないなら、チェーンを外すなよ。外したからには入りますよ、俺は。
「今日は来るなっていったろーが」
「聞いてませんー。つか、ドタキャンしねーでください。俺のほうが先約でしょ」
「勝手に押しかけてきて飯食うだけのヤツに、先約もなにもあるか」
それは確かにその通りで、俺は新庄さんの休みを狙って飯をたかりに来ているだけだ。明確な約束さえない。でも、この元先輩はめったにドタキャンなんてしないのだ。都合が悪ければ事前に教えてくれるので、そういう場合は俺も大人しく引き下がる。
当日になって、説明もなしに来るなといわれるときは、たいてい。
「赤星くん!」
「今度は何したんすか、あの先輩は…」
あー、やっぱり。焦げ茶色のソファに座っている人を見て、俺はドアノブを掴んだまま溜息をついた。元マネージャーかつ現先輩の彼女だ。さっさと結婚しちまえばいいのに。お互いに遠慮しあってモタモタやってるから、こっちがドタキャンされる羽目になるんだっつーの。
「ゴメンね、赤星くん。もう帰るから」
「気にしなくていいぜ。コイツは飯食いに来てるだけだ」
俺の後ろから、新庄さんがそんなことをいう。
「人を野良猫みたいにいわんでください」
「猫のほうが可愛げがあるな。手ぇ洗ったら、その辺にあるもん好きに食ってろ」
へーへーと頷いて、俺はバッグを下ろした。新庄さんは、俺を甘やかさないのが上手くなったと、つくづく思う。
高校の頃の新庄さんは、宝物を抱きしめる子供みたいなところがあった。宝物は野球部で、守るためならこの人はなんでもしただろう。たとえ泥にまみれても、宝物を抱きしめていられれば、それだけで幸せだといってしまえる。そんな人だった。
だけど、プロ野球入りした俺が、安仁屋さん経由で再会したとき、新庄さんはずいぶん変わってた。高校三年間は、この人にとって、栄養を蓄える時間だったのかもしれない。不信に蝕まれた心に、水をやって、光を当てて、柔らかな土の中で眠って。
そんな風に考えてしまうほど、新庄さんは穏やかになっていた。かつて見え隠れしていた危うさが、今じゃ丸みを帯びている。いま、俺がワガママをいって嘘をついてこの人を傷つけようとしても、この人は簡単に受け流してしまうだろう。ちょっと悔しい。
「で、今度は何をやらかしたんですか、安仁屋さんは」
作り置きされていた揚げ豆腐をつまみながら、俺はマネージャーに尋ねた。揚げ豆腐がうまい。マジで美味い。なにこれ。初めて食べたんですけど。すげえ、高校のころ俺にサトウのご飯を出してくれた人とは思えねえ。
「また約束破ったのよ。日曜は前から約束してたのに。なんの連絡もなしによ?ひどいと思わない?」
強気なマネージャーは、こういう時には泣かない。でも、声は微かに震えていて、それに新庄さんが気づかないはずがないのだ。新庄さんは無言で、マネージャーの前にコップを置いた。
肩を抱いて慰めたりは絶対しないのがこの人らしいけど、俺としてはコップの中身がココアな事に文句を言いたい。俺が冬場に飲みたいっつっても、買ってくれなかったじゃねーか。差別だ。
「それに、また、週刊誌にも出てて…。あんなの嘘ばっかりだってわかってるんだけど、恵ちゃんが、日曜日に、デートしてたとか…」
なるほど。自分がすっぽかされた日に、ほかの女とデートしてたと騒がれれば、さすがのマネージャーも疑心暗鬼になるか。俺は揚げ豆腐を食べる手を休めて、テーブルに肘をついた。でもねえ、マネージャー、たぶんそれ。
「日曜日って、先週の?」
「そうだけど…?」
「待ち合わせは、夕方?」
頷くマネージャーに、俺は目を細めた。安仁屋さんは相変わらず、要領が良さそうに見えて悪いよな。
「じゃー、大丈夫。後輩の相談に乗ってただけですよ」
「え?それって…」
「俺じゃないっすよ。俺はたまたま見てただけ。スランプの奴がいてねー、そいつが突然やめるっていいだしたの。そんで安仁屋さんがずーっと相談に乗ってたわけ。それが確か、日曜の夕方だったよーな…」
ぴたりと動きをとめたマネージャーの向かいで、新庄さんが唸るようにいった。
「赤星、おまえそれ、本当だろうな?」
「マジですって。それなりに深刻そうだったんで、言えなかったんじゃないすか?安仁屋さん、そういうとこで妙に律儀だから」
俺がひらひらと手を振ると、新庄さんはマネージャーに向き直った。
「八木」
促すような呼びかけに、マネージャーがぎくしゃくと動きを取り戻す。大急ぎでココアを飲み干したかと思うと、あわただしく立ち上がった。
「新庄くん、ごめん、帰るね!赤星くんも、ごめんね、ありがとう!」
「ああ、気をつけてな」
「安仁屋さんによろしくー」
こういうときの新庄さんは、とろけそうな優しい笑みを浮かべている。
なんつーか、詐欺だと思う。これで新庄さんがマネージャーに片想いしてるっつーなら、俺はいくらでも俺のために動けるのに。彼氏の相談を、ほかの男の部屋でするなんてどーよと言えるのに。
新庄さんは、マネージャーに優しい。マネージャーもそれを知ってるから、つい甘えるんだろう。でもこの二人が一番大事なのは、安仁屋さんなのだ。
新庄さんにとって、野球部時代の男友達は本当に特別で ── それはもちろん俺を含めてだけど ── なにがあってもこの人は、野球部仲間の彼女に恋愛感情なんて抱かない。
それをわかっているから、マネージャーは新庄さんに相談するのだ。恋情と友情の違いはあっても、自分と同じくらいに、安仁屋さんを大事に思ってる人だから。
ああ、本当に腹が立つ。これじゃ俺はなにもいえねーじゃん。いったら俺がダサイでしょ。
テーブルに片肘をついてぶすくれていると、新庄さんが玄関から戻ってきた。
「腹減って死にそうなんすけど…」
「我慢しろ」
そういいながらも、新庄さんは青いエプロンを手に取った。知ってるんですよ、俺。そのエプロンは前に若菜さんに押しつけられたやつでしょ。なんでそんなに物持ちがいいかな。
「この揚げ豆腐、すげー美味いです」
「そうか」
「嫁に来て下さい」
「諦めろ」
新庄さんがあまりに簡単に流すので、俺はつい、意地の悪いことをいいたくなった。
体を斜めにずらして、鍋の火力を調整している新庄さんに、ふてぶてしく笑いかける。
「そんなこといっても、俺のことが好きなくせに」
新庄さんが、鍋をかき混ぜながら、ちらりと俺を見た。
「俺のこと、好きでしょ?好きじゃなかったら、休みのたびに飯食わしてくれるわけねーもんな」
新庄さんは、まっすぐに俺を見て、とても不敵に笑った。
「好きだぜ?おまえも、八木も、安仁屋も、みんな愛してるよ」
あああ、ちくしょう!ちくしょう!!
俺が見惚れてどーすんの!なにあの人!なんであんなに格好良いかな!!昔は簡単に俺に振りまわされてたくせに!
ああ、くそ。
なんて無様だ。
俺はあの人に、俺だけを愛して欲しいと思ってる。
気持ちだけは星新です…!でもどうみても星→新ですね!うう、いつか星新リベンジを…!