あの男はどこか危うい。
西島は時々そう思う。それはたとえば、屋上の隅で行き倒れの死体のように寝ているのを見つけたときや、雲ひとつない空の下で皮肉気に笑っているのを見たときに、思い出したようにそう思う。
坂本はどこか危うい。
頼りないわけではないのだ。葛西ほどではないが、坂本だって十分喧嘩慣れしてる。あの男が強くないとは言わない。
だが、どこか欠けている。
なにか、生きる上で重要なものが壊れてしまっている。
割れた陶器と土の関係
夕日が差し込む教室の中で、葛西は職員室へ反省文を出しに行った坂本を待っていた。反省文なんてものをきちんと書いてくるのは坂本くらいのものだったが、本人に言わせれば「お前らが誰もかかねえから俺だけでも書かなきゃって気になるんだろうが!」という恨みのこもったものである。別に誰も書かなくても教師連中だって今さらとやかくいわないだろう、特に葛西に近い坂本には──── と、西島は思うのだが、坂本は妙な所で律儀だった。
西島も手持ち無沙汰に椅子に座って坂本を待っていた。葛西に付き合ったわけでもなく、特に理由のない成り行きだった。ここ最近派手にもめていたから、たまにはのんびりしたくなっただけかもしれない。
だらだらと放課後の時間を潰しながら、なかなか帰ってこない坂本を待っていた。そのとき不意に、いうつもりのなかった言葉が喉から滑り落ちた。視界の端でリンが雑誌から顔をあげるのがわかったが、言っていちばん驚いたのは自分だ。
だが葛西は驚かなかった。
「そうか、お前にはそう見えんのか」
葛西はおかしげにいった。唇は苦笑しているが、目は笑っていた。
葛西の言葉は否定でも肯定でも、まして怒りでもなかった。それは余計に西島を動揺させたが、葛西はその動揺を別の意味に解釈したようだった。やや考えて、葛西は言った。
「つまり、生活力はあるけど生命力がねえってことだろ?」
西島は答えに困って口を閉じる。葛西の表現は何か違う気がしたが、その違いを的確に表す術を知らなかった。
「確かにあいつと無人島に行くのは不安だよなあ」
何がそんなにおかしいのか、葛西が小刻みに肩を震わせている。西島が口を開こうとした時、葛西の背後のドアが開いた。
「無人島が何だって?」
「お前と二人で漂流したら、食料代わりに食われそうで不安だって話」
葛西があっさりとでまかせ言えば、ようやく戻ってきた坂本は嫌そうな顔をした。
「人肉なんか食えるかよ。まずそうじゃねえか」
「お前な、問題はそこか?じゃあ、ほかに食うもんが何もなかったらどうすんだよ」
坂本は、ただの一秒も迷わなかった。迷わずにきっぱりと言い切った。
「お前の腕を食う」
パックのりんごジュースを飲んでいたリンが、ごふっと奇怪な音を発して噴き出した。
不幸な事に吐き出されたりんごジュースは先ほどから彼が嬉々として見入っていた水着の女の上にかかり、一瞬にしてよれよれになった雑誌を前にリンは声にならない悲鳴をあげていた。
「安心しろ。そのときは俺の腕も食わせてやるから」
なぜか胸を張って坂本はいう。とうとう葛西は、たまりかねたように、体を二つに折りまげて大声で笑い出した。目には涙まで滲んでいる。
相当笑いのツボを刺激されたらしい葛西とは反対に、西島はまるで笑えなかった。むしろどこをどう解釈したら笑えるのか教えて欲しいくらいだった。坂本は百パーセント本気だ。本気でいっている。
(できねえだろうが)
西島は眉をひそめ微かにため息をついた。この友人にそんな力があるものかと思う。そんな逞しさのある人間なら、仲間の腕一本人質にとられただけで無抵抗に殴られはしない。病院のベッドの上で、包帯だらけの顔で、真っ先に言う言葉が葛西への制止なんて事はありえない。いかに本人が信じていようと、坂本は漂流したら真っ先に死ぬタイプだ。
「…俺ぜってえお前とは飛行機に乗らない…」
台無しになってしまった雑誌を悲しげに閉じて、リンがぼそりと呟いた。
「いいじゃねえか腕の一本くらい。飢え死によりはましだろ。それに、俺なんかよりも西島のほうが怖いぜ」
「あぁ?なんだよ、俺を引き合いに出すんじゃねえよ」
「だってお前、葛西と遭難したら、自分から葛西に食われてやりそうで怖えーもん。一番なにやるかわかんないタイプだろ」
坂本にだけはそんな事を言われたくなかった。
西島が憮然とすると、しつこく笑っていた葛西がようやく顔を上げた。
「坂本はな」
悪戯な光を帯びた目が、西島を捕らえる。
「お前がそのうちあっさり死んじまいそうで怖えんだと」
「葛西!」
あわてて親友を睨む坂本を、見つめた自分は、さぞかし間の抜けた顔をしていたと思う。
怖い?
(坂本が、俺を?)
そんなことは、考えたこともなかった。こんな普通の、どこにでもいる、少しばかり喧嘩が強いだけの男の何が怖いというのか。怖いのは自分の方だ。あっさり死んでしまいそうなのは坂本のほうではないか。
(俺のなにが怖いんだ)
西島が問い掛けるように坂本を見れば、坂本は小さく唸りながら顔をそらした。葛西を見る眼つきは凶暴で、あとで殴るつもりなのが見て取れた。
「西島」
「はい」
正道館の頭の呼びかけに、サングラスの男は友人の追及を止めて向き直った。
葛西の目は珍しく優しかった。いつもなら容赦なく人を射抜く苛烈な目が、今だけは静かだった。
「心配すんな。お前もこいつも、そんな簡単にどうこうなりゃしねえよ」
それにな、と葛西は続けた。
「俺は怖いとは思わねえ。欠けてるとも。情が深すぎて困ると思うだけだ」
葛西の眼は、ひどく優しかった。
この人は。
西島はなんといっていいのかわからなかった。この人は。
(あれを優しさと呼ぶのか)
坂本のあの欠落を。あの危うさを。優しさというのか。
わずかに視界がぶれ、眩暈にも似た感覚に襲われた。この人は。優しさというには行き過ぎた行為を。過度ゆえに毒とも思えるそれを。
わかっていてなお、優しさだと。
この人は。
この人は、坂本がそれほどに大事だったのか。知らなかった。知っていたはずの事は間違いだった。これはまるで、まるで、これは ───
──── 愛しているかのようだ。
たまには葛西を格好良く書こうと思った、わけじゃないんですけど(笑)
西島視点だからかな?