隙間から、光が差し込む。 眩しくはない、ただ朧で暖かな光。 けれど葛西は、僅かに目を細めて、その向こうを見やった。暖房のきいた部屋で、肌に直接日が当たる。それは不思議な感触だった。 鍛えられた痩躯に光が染み込むような、優しい浸食。 なんだか面白くなって、もう一度煙草を銜えなおしたとき、ドアが開いた。 おたまを片手にエプロン着用という男がやると凶悪な格好をした坂本が、無表情で葛西を見つめる。 「・・・・・・・・・おはよう」 沈黙に耐え切れずに葛西が言うと、ツカツカと近づいてきた坂本は、高々とおたまを掲げると。 そのまま葛西の腹に振り下ろした。 おたまを。 「ってえ!!!」 「寝タバコは止めろって何べん言ったらわかるんだ、鳥頭。火事になったらどーすんだ、あ?死ぬか?死ぬか?俺を巻き込むなよ、死にてえなら一人で山でも登って来い。戻ってこなくていいからな」 淡々と話す坂本を腹を抱える葛西。 材質ステンレスのおたまだからしょせん、ひどい痛みにはならないがしかし、それでも痛いもんは痛い。 「そーいうことは、まず口でいえよ口で!」 「散々言っただろうが、鶏並に忘れてんのはどこのどいつだ」 「寝タバコくらいでおたま振り上げねえだろ、普通!?」 常識を説かれたくない男ナンバー1に涙目で言われて、坂本はポンポンとおたまの柄で手のひらを叩いた。 「これでも手加減してやったんだ。思い切りやったらおたまが壊れちまう」 「んな百円均一で売ってるおたまと俺の体とどっちが大事だ!?」 「おたま」 至極当然のこととして、坂本はあっさり言い切った。 これがなかったら味噌汁を作るのも大変なのだ。頑丈でちょっとやそっと殴ったところでガタがこない葛西より優先するのは、四人分の飯係としては当然の配慮である。 「さっさと起きて飯を食え、片付かねんだよ」 「・・・・へえへえ」 不承不承起き上がると、僅かに見える窓の向こうから、混ざりけのない青が見えた。 今日はいい天気になりそうだ。 ほんの少しだけ口元を綻ばせながら、葛西は煙草の火を押しつぶした。 葛西がざっとシャワーを浴びて出てくるのを見計らって、坂本はご飯をよそる。 (俺っていい旦那になれるわ・・・・・・) 我ながらいやになるが、いつの間にか家事一通りは完璧になっていた。味にうるさい万年欠食童子がいるせいで、ご飯の炊き加減一つとっても我ながら素晴らしくなった。ちょっと虚しい。 可愛い奥さんさえいれば。自分でも言うのもなんだが、けっこう尽くすタイプだし、収入も悪くないし、顔だって普通だ。 (なーんで彼女が出来ねえのかなあ・・・・) いや正確に言えば、一晩限りのお付き合いならいくらでもなのだけれど、長持ちしないのだ。 目の前で頭から水滴をポタポタと垂らしながら飯を食っている男よりは、ずっと好物件だと思うのに。 坂本はため息一つついて、クローゼットを開けた。手に取ったタオルを、そのまま金色めがけて投げつける。 「・・・っで」 「頭くらい拭け」 ああ本当に、かいがいしく世話をするなら可愛い女がいい。 こんないい歳した、頭は切れるが馬鹿で、腕は立つが役立たずで、わざわざ投げてやったのにタオルを頭に乗っけたまま無心に飯を食うような男の世話なんぞしたくない。したくないが。 もはやため息をつく気にもならず、坂本は黙ってタオルを手にとると、そのまま乱暴に葛西の髪をかき回した。 ほっとけない自分の性格を恨めしく思いつつも、手際はいい。一通り水滴を吸い取ると、暖房の温度設定を三度上げる。その辺りはもう無意識だ。 そういう世話好きのところが、女友達は増えても彼女が出来ない最大の原因だと、本人は全く気づいていなかった。ちなみに葛西は気づいているが、教えると世話をしてくれなくなるし、ご飯も作ってくれなくなりそうなので黙っているだけだ。 もくもくと飯を食う葛西にお茶を注いでやったとき、電話がなった。 「お電話ありがとうございます、葛西探偵事務所の坂本です・・・・・・・は?警察?」 ぬくぬくとだらけきっていた葛西の目が、一瞬で鋭利なものに変わる。 猫に見えていたそれが、真実虎の本性だったかのように。おそらくは本人にも変えられない、性が、見え隠れする。 電話を代わろうとする葛西を、坂本は目だけで制した。 裏への捜査にしては、口調が違う。 「ええ、そうですが・・・・・はい、・・・・・・・・はい・・・・・・・・は?・・・・・刺された!?鬼塚がぁ!!?」 坂本は思わず電話を落っことしそうになった。 「なんだって鬼塚の見舞いに俺らが行かなきゃなんだよ」 「しょうがないだろ、ほかに連絡先がわからねえっつんだから」 見舞いといっても一応の花束を買っただけである。果物とか着替えを買っていってやったほうがいいかなと悩み始めた坂本から、葛西が呆れ顔で財布を取り上げたのだ。 なんだって昨日偶然再会しただけの鬼塚、しかも金持ってそうなホストにそんなことしてやらなきゃなんねんだといわれると、さすがに坂本も言い返せなかった。 事務所のほうに連絡がきたのは、葛西にいわせれば本当に運が悪かったのだ。昨日の夜、葛西にあってから仕事熱心にも六本木に帰り、刺されたらしい。それはそれは恨みを買っていそうな男だから刺されたところで不思議はないが、運の悪いことに鬼塚の持ち物の中で連絡先が書いてあったのは、坂本が昨晩渡した電話番号入りの名刺だけだった。 「いつ刺されたって当然のことやってんだから、保険証でも持ち歩いてりゃいんだよ」 「決めつけんなって。そりゃ恨みはかってそうだけどよ、それをいうなら俺らも似たようなもんだろ」 「一緒にするな」 憮然とした葛西を横目に、坂本は病室のドアを開けた。 「きゃあ!!!」 閉めた。 思わず閉めた。 中から甲高い悲鳴が聞えると同時に視界に入ってきた姿に、思わず手が動いた。 「なにやってんだ?」 ちょうど見てなかったらしい葛西が不審そうな顔をすると、坂本はドアを勢いよく閉めたまま、呆然と呟いた 「・・・・・・・ええっと・・・・・・・・・・・・・刺されたんだよな・・・・・・?・・・鬼塚・・・・・・・・・・・」 「だからわざわざ来てんじゃねえか」 「・・・・・・・・・う・・・や・・・・でも、・・・・・・今おとり込み中らしいから、あとにしてやろ・・・・・・・・・・」 坂本が安堵と困惑と呆れの入り混じった表情で呟いた、と同時に中から勢いよくドアが開かれ、顔を赤らめた看護婦が小走りに去っていった。 「・・・・・・なるほど」 それだけで十分理解したらしい葛西の顔には、不機嫌に呆れがプラスされている。 刺されて重態のはずの男は、病室でも十分元気らしい。 「野暮なことすんなよおまえら」 「ああん?マヌケこきやがったテメエなんかに、わざわざ見舞いにきてやったんだ。手ェついてお礼いいやがれ」 「・・・元気そうで、なによりだけどな」 白い入院服を着て顔色もわずかに悪いようだったが、病院の看護婦に手を出す元気があるなら大丈夫だろう。 ついさっき、うっかり人の濡れ場を見てしまった坂本は、こっそりため息をついた。 「ハッ、モテねー男はこれだから」 「あいにく俺は、テメェみたく雑食じゃねえんでな。相手を選んでんだよ」 どうにもこうにも相性のよくないらしい二人が、さっそく口ゲンカをはじめたのはほって置いて、坂本はとりあえず花束を花瓶に移し替えることにした。どういう待遇なのか、部屋が余っているのか、鬼塚の病室は個室である。 (やりたい放題じゃねえか・・・・) 葛西のセリフじゃないが、刺されて入院なんてドジを踏んだ男に、どうしてこう簡単に彼女ができるのだろう。さっきの看護婦はどう考えても遊びだろうが、それにしたって手が早すぎる。なんで鬼塚ばっかりと、坂本がちょっぴり憎たらしい気持ちになるのも無理はない。 「で、誰に刺されたんだよ?」 花を移し変えて、隅にあった椅子を引っ張り出して座ると、坂本は二人の口ゲンカに歯止めをかけるつもりで尋ねた。 刺された本人が生きているのだから、とうに犯人はつかまっているのだろうと思っていた二人に、鬼塚は意外なほどに静かな顔で答えた。 「しらねえな」 「見たことねえやつだったのか?」 「ああ」 怨恨だろうと決めつけていた坂本は、意外そうに横に目をやると、葛西は呆れきった顔をしていた。 醒めた目で鬼塚を見下ろして問う。 「女か」 「さあ?覚えてねーんだ、怪我のショックでよ」 「かばうような相手なワケか」 「いったろ、覚えてねえって」 鬼塚は静かだった。その気配に欠片の動揺も見られず、ただ人を喰った笑みを浮かべている。 言わないのだと、その表情で坂本は理解する。 女の顔も名前もわかっていて、けれど決して言う気はないのだ。墓場まで沈黙を守る顔だなと、坂本はぼんやりと思った。 葛西にもまた、そういう面があるからだ。それは葛西なりの、生きる上でのルールだ。ただ一人、己のみを縛る制約。後ろ暗いことも非道なことも顔色一つやり遂げる男だからこそ、必要であり絶対なのだろう。 葛西なりのルールを、葛西は絶対に、そして静かに守る。鬼塚もそれはきっと同じだ。 女を喰いものにする仕事についていて、それでも自分を刺した女の名は決して明かさない。もしかしたら、刺されたときもそうだったのかもしれない。あえて、避けなかったのか。わからないがそれは、鬼塚なりのルールなのだろう。なら聞くだけ無駄だ。 この手の人間は、とことん我儘で、自分の意志を曲げることなど絶対に許さないのだから。 坂本は小さく嘆息した。本当にこの二人は、嫌なところまでよく似ている。 「鬼塚おまえ・・・・・サツにもそういったな?」 嫌なことに気づいて、坂本は顔をしかめた。 鬼塚が話さないとすれば、警察はほかの交友関係を当たるだろうし、そうなれば真っ先に事情を聞かれるのは当然。 「俺を巻き込むんじゃねーよ!」 「まあまあ、これもなにかの縁だと思って」 「なんの縁だ!?サツとこれ以上関わり合いになんのは真っ平だかんな、俺は帰る」 坂本が立ち上がってしまうと、鬼塚は少し困った顔で言った。 「いいけどよ、ここで帰るとあとでサツが池袋までおしかけると思うぜ」 「ああ、大丈夫。葛西置いてくから」 「俺かよ!?なんで俺が、こんなむさい野郎と二人でサツ待ってなきゃならねーんだ!!」 冗談じゃねえと病室から出て行こうとする葛西に、坂本は伝家の宝刀を突きつけた。 「掃除洗濯炊事に買い物、おまえがやるか?」 葛西の足が止まる。 「やるか?」 食べるのは好きだが、作るのも片付けるのもいやなのだ。 「どうする?俺はべつにいいけど」 「・・・・・・・・待たせていただきます」 しぶしぶと戻ってきた葛西に、満足げに頷いて坂本は病室を出た。 さっそく口ゲンカの始まった病室のドアをきっちり閉め、エレベーター乗り場のほうへ足を向ける。 一回に点灯していたランプがゆっくりと上がり、五階に着くとゆっくりと重たい扉が開いた。 病院のエレベーターは狭い。花束を持った女性が完全に廊下に出てから、坂本は箱の中に乗った。 (見舞いか・・・) 平日のこんな時間帯から、妙齢の女性が花束を抱えるとなると、やはり相手は恋人だろうか。いいなあと羨んだところで、やけに甘い匂いが鼻についた。 花束の残り香にしてはずいぶんきついと首をかしげて、顔色が変わる。 とっさに全階のボタンを押した。一階に着く前の手前の二階でなんとかエレベーターが止まり、坂本は重い扉を押し開くようにして飛び出した。廊下に出ると同時に大きく息を吸い、そのまま上に向かって階段を走り出す。 甘い、匂いがした。一瞬で血の気がひくのがわかった。おそらくは、あの花束に仕込んであるだろう、その香り。覚えのある匂いだった。 間違いなく、薬物の匂い。それも確かあれは、即効性が強いはずだ。 いっそ間違いであってほしいが、五階にほかに犯罪者でもいない限りおそらく。 標的は、鬼塚だ。 (くそ・・・・・・!) 鬼塚が重症でも葛西がいる限り、大事にはならないはずだ。 そう思いながらも、いやな胸騒ぎに坂本は足をいっそう速めた。 もうどこから謝っていいのかわからないのでツッコミは不可。 病室の鬼塚氏がどこまでヤっていたかはご想像にお任せします。 |