葛西が校舎に飛び込んだとき、校内は依然として静けさを保っていた。
玄関口からはなんの騒ぎも聞こえてこない。
(どこだ──── !?)
まさか校外ではやらないだろう。だが空いている教室を探すとなると。
(数が多すぎる!)
使ってねえ教室なんかみんな燃やしちまえと胸の内で毒づきながら、階段を駆け上がろうとしたとき、遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「葛西さーん!葛西さーん!」
「……リン!?」
「あ、いたー!!!」
スキンヘッドの頭が近づいてくる。だが、何であろうと関わっている暇はないと、葛西は階段を上ろうとした時、叫び声がいった。
「坂本が大変なんスよ!!」
「──── どこだ!?」
条件反射
坂本は簡単には腹を立てない。
時々、あの平和そうな顔を崩してやりたいと思い、実際手を出してみることもあるが、それも結局はじゃれあいで終わる。葛西とて後戻りできなくなるほど怒らせたいわけではないから、余計に坂本は笑うのかもしれない。
坂本は簡単には怒らない。
時おり、本当に時おり、こいつはもう怒ることに疲れているんじゃないかと思う。そのぶん、坂本は笑う。
坂本は簡単には殴らない。
やられてもやり返さないほどではないけれど、自分からはまず手を出さない。なにをいわれようと、涼しい顔で笑う。そのわりに葛西なら簡単に殴るのだが、葛西以外には冗談でもあまり手を出さない。
訳を聞いたことがあった。胸糞の悪い言葉をすれ違いざまに投げられて、それでも動かない坂本に苛立ち、絡んできて連中を全員地べたに這わせた後で葛西は聞いた。
どうしてこんな連中相手に黙っているのかと問えば、坂本はごくごく真面目な顔で答えた。『だって、痛ぇだろ』
葛西は沈黙した。
返す言葉なんてなかった。坂本は、相変わらず火星のエイリアンだった。つまりさっぱり言葉が通じない。
黙りこんでしまった葛西に何を感じたのか、坂本は慌てて付け加えた。『殴られたら痛ぇだろ?痛ぇのはいやだろ。俺も、たぶんこいつらもマゾじゃねえと思うから、痛ぇのは嬉しくねえだろ?』
エイリアンは脳みそが半分解けたような事をぬかした。これで坂本が弱ければ臆病者と笑えばすむことだったけれど、あいにくそうではなかった。坂本は強い。葛西は誰よりもそれを知っている。だから誰よりも、『馬鹿かてめえは意味わかんねえよどういう思考回路でそうなるのか一から説明してみろこのアホ痛ぇのがいやだから殴んねえっててめえが痛いわけじゃねえだろうが繋がってねえんだよ話が!』と、怒鳴りつけたい気持ちでいっぱいだった。
しかし怒鳴りつけても叱りつけても無意味な事を葛西は過去の経験から知っていたので、ただ、小さくため息をついて、呆れ顔で坂本を見返した。
坂本は簡単には殴らない。痛いのがいやだからという、葛西にはまったく理解できない理由で、坂本は簡単には。
「坂本」
血塗れの両手があまりに親友にそぐわなくて、葛西は眉根を寄せた。
葛西の呼びかけに、坂本はまったくの無反応だった。遠巻きにこちらを見ている連中がいっそうざわめいて、葛西は舌打ちした。
(当然だろうが)
ここまでこの男を怒らせておいて、今さらなにを驚く。この状態で坂本に敵味方の区別なんてない。全て敵だ。
右手首から絶え間なく滴り落ちる血と、おかしな方向に曲がったままの手のひら。何があったのか、浮かんだ想像を葛西は打ち消した。そんなことは後でいい。今考えてしまえば、知ってしまえば自分まで我を失いそうだ。
「坂本」
一歩、血だまりに足を踏み出す。そのわずかな音で、黒耀の目がこちらを向いた。
乱れていた息は静まり、ただ心臓だけがうるさく鳴った。全身が粟立つような眼差しを怯むことなく見据えて、ただ悲しかった。苦しかった。
(わりぃ)
声にはせず、口の中、息だけで呟いた。巻き込んだ自覚はある。それでも、謝ってしまえば坂本は許すしかなくなる。いや、許すしかないのではなく、そんな事を考えもせずに許してしまう事を葛西は知っている。だから声にはしない。許さなくていい。呟いたのはただ、区切りをつけたかったからだ。
二度とこんな真似はさせない。
もう一歩、親友に近づく。坂本の眼は相変わらず、眼差しだけで心臓を止められそうなほどきつい。
時おり、怒らせてみたいと思うことがあった。
今はただ苦しい。息が詰まって、葛西は無理やり口の端を上げた。ほおを歪めて笑う。
笑うべきだと思った。
こいつが笑えないのなら、今は自分が笑うべきなのだ。
さらに一歩踏み出せば、完全に坂本がこちらを向いた。テリトリーに踏み込んだのだろう。怪我を感じさせない身軽さで、親友が近づいてくる。親しみも優しさも、温かなもの一切を消し去った目で葛西を捕らえて近づいてくる。
短く振り上げられた左腕を、じっと見つめた。
(俺はおまえを殴れねえから、殴られてもいいんだけどな)
でもおまえは気にするだろ?
「──── 坂本!」
だから殴られてはやれない。
振り下ろされた拳を手のひらで受ければ、乾いた音と同時に痺れのような感覚が右腕を襲った。
右手に入った拳を握り締め、額が重なるほど近くでその目をのぞきこむ。
「坂本」
柄にもなく、出た声は必死だった。切羽詰った祈りのようだった。
それを恥だとは思わなかった。自分にはもう、この男しかいない。この手だけは離すわけにはいかない。
漆黒の闇のようだった眼が、わずかに揺らいだ。
「……………葛西……?」
坂本が笑うなら、その他の全てをなくしても、自分は笑える。
向けられていた左手から力が抜けていき、殺意すら含んでいた眼差しはゆっくりと穏やかさを取り戻した。
「………葛西?」
「──よお」
怪訝な顔で目を瞬かせる坂本に、葛西はいつもと同じように笑いかけた。そうして掴んでいた左手を放し、その空いた右手で親友の頬に赤黒く固まった血の跡を拭った。こめかみから流れていた血がようやく止まったことにほっとしつつ、坂本の頬を指先で乱暴にこする。
その動作をぼんやりと見つめて、坂本ははっと葛西に向き直った。
「大丈夫か!!?」
「─── あ?…ああ」
ちゃんと止めたし痛くもねえから気にするなと、いう前に、坂本がいった。
「三年がおまえんとこいったろ!?怪我治ってねえのに!無事か!?へーきか!?病院行くか!?」
こいつはただのアホかもしれない。
葛西は拳を震わせ廊下中に響き渡るほどの声で、
「病院行くのはてめえだこの馬鹿!!!」
怒鳴りつけた。
なんの話かと思えば、三年だ?無事かだ!?
「全部こっちの台詞なんだよ!自分の右手見てみろ!」
怒鳴りつけられた坂本はむっとした顔で、右手に目をやり。
目をまるく見開いた。
「おお……なんだこりゃ…」
「気づくのがおせえ!」
「か、葛西……なんか、痛い。むちゃくちゃ痛い。死にそうに痛い」
再び怒鳴りかけたのを全精神力で抑えて、葛西は深い息を吐いた。
「うわあ、血が血が!もったいねえ!俺の鉄分が流れ出てるー!」
「とりあえず止血して病院に──── 」
行くぞといいかけて止血するものが何もないことに気づいた。保健室にと考えて、ここからの距離に舌打ちする。仕方なく葛西は自分のシャツの袖を引きちぎった。あまり清潔とはいえないが、ないよりはましだろう。
「手ェ出せ」
坂本は大人しく従ったものの、布が触れた瞬間飛びずさった。
「痛ぇ!」
「当たり前だろうが」
裂傷だけではない、たぶん脱臼している。葛西は横目で床に転がっている連中の顔を見やり、それらの顔を脳裏に刻み込んだ。
「止血はなしでいいから!」
「いいわけねえだろ!────西島」
「はい?」
「抑えてろ」
短く命令すると、サングラスに隠されながらも男の顔が引きつったのがわかった。
至極真っ当な反応に内心同情しつつも無言の圧力をかけると、恐る恐るといった風に西島が血塗れの男の腕を抑えた。
「待て葛西!落ち着け!話し合おう!流れてるのは俺の鉄分であって俺がどうしようと自由なはずだっていうか待ってお願い!」
「うるせえよ」
一秒後、坂本の悲鳴が廊下中に響き渡った。
「で、結局、脱臼してた骨を入れられて合計八針縫って包帯だらけでこいつが登校してきたときには、誰も目を合わせなくなりましたと」
「ひでえよな、しばらく手錠の男とか陰で呼ばれたんだぜ。誰も好きでやったわけじゃねえのに」
リンの締めくくりに坂本がぼやく、と、一年の一人が無邪気に聞いた。
「その話はどこまでがリンさんの創作なんですか?」
「全部本当だっ!」
「またまたー」
「なっ、疑ってんのかてめえら!本当だぞ!こいつはこんな優しい先輩の振りしてるけどな、本当は鬼のように恐ろしいんだよ!」
鬼というのはさすがに酷いなあと坂本は思ったが、キレると多少見境がなくなる自覚はあったのでいわないでおいた。
「しかしよく退学にならなかったよな」
「停学にはなったけどな」
信じない一年に騒ぎ立てるリンを横目に西島が呟くと、坂本は肩をすくめて軽く頷いた。
教師の目の前で四人も病院送りにしたのだ。手を出してきたのは相手が先とはいえ、あの時はさすがに退学を覚悟した。
首を傾けて隣を見る。昔よりは雰囲気の和らいだ男は、リンの話に特に口を挟むことなく黙って聞いていた。
坂本はわずかに口を開き、けれど出たのは息だけだった。
葛西と眼が合う。薄い笑みを崩さない男を坂本はじっと見つめた。
葛西は答えないだろう。
坂本が停学ですんだ理由に噛んでいたとしても。どんなに問い詰めても葛西は答えないだろう。
手首にうっすらと残るこの傷跡を、本人より、誰よりも気にしているのはこの男だと坂本は知っていた。
なんだか困ってしまって、葛西が変なところで優しいから困ってしまって、坂本は笑った。
あの時、理性の箍が外れた理由を、この男は知っているのだろうか。
知らなければいい。恥かしいから。
知っていればいい。痛くなかったのだといえるから。
思考より先に体が動くことを反射というなら、これはきっと条件反射だ。
馬鹿馬鹿しいほど単純で、自分でも呆れてしまうほどの。
完結です〜。コンセプトは怒る坂本&流血でした!たぶん!
書きながら、やっぱり私は笑ってる坂本が好きだなあと、しみじみ思いました。
原作ではあんまり笑わないから余計そう思うのかもしれません。まあ原因は葛西だからね!もう仕方ないんでしょう!(笑)