1 プロローグ
前田がいれば。
そう呟いた薬師寺を諌めたのは自分だった。いない人間のことを考えてもしかたないだろうと、諦めを促した言葉を吐き出したのはこの口だった。
だが、鬼塚はいま、誰よりもそう嘆きたかった。天に向かって叫んでやりたかった。
前田がいれば。
2年前のあの大災害の時から、男の行方は失われていた。吉祥寺は特に抗争の激しかった場所だと、ずいぶん後になってから鬼塚は伝え聞いていた。
行方不明者は多い。確認されている死者数の倍以上だ。そこには実際に失われた命も含まれているが、大半は、生きていながら今までどおりの生活を送れなくなった人間だ。自分自身が黒の側に選ばれなくとも、身内がなってしまったために、揃って姿を隠している連中も少なくなかった。
あの男がどうだったのかはわからない。光人でないことだけは確かだったが、黒の側に入ったのか、あるいはどちらでもない人間のままだったのか、真実を話せるものはいなかった。
前田は変わっていないのかも知れないと思う、その考えは、願望が作り出しただけの根拠のない代物だ。変わっていなければいい、どちらの側にもつかずに、変わらない人間として、ふてぶてしい顔で生きていて欲しい。あの男にはそんな生き方が似合うのではないかと夢想しながら、鬼塚は口を歪めた。
押さえつけてもなお込み上げるこの恐ろしい感覚の名は、絶望というのだろう。
吐き出すことも、飲み込むことも出来ずに、鬼塚は壁を殴りつけた。痛みは一瞬だけ気をそらすことに成功したが、助けにはならなかった。
正義など初めから信じていない。どれほど足掻いても望む結果を得られるとは限らないと知っている。多くのものを背負う気は初めからなく、身動きが取れなくなるような泥沼に嵌るのもごめんだった。最小限のものだけを得るために、自分はここにいるのだと割り切って働いてきた。
それでも。
鬼塚は奥歯をきつく噛みしめて、薄明かりの部屋の中で目を閉じた。かつて、自分の目を開かせた男の顔を、思い出そうとした。縋りつくような思いだった。決して口にはしない、表に出すことのない感情が、胸の内を占めていた。
口の中に生温く暖められていた息を、舌で押し出すようにして吐き出した。
前田がいれば、こんなことにはならなかった。
白い壁に挟まれた廊下を歩き出す。
牢獄へと続く道は、細く長かった。
続きます。