青空には薄い雲がかかっていた。
実際は雲ではなく排気ガスや埃やらの集まった物だったのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。薄い白に覆われた青は、見慣れた日常の空だった。
その春の空の下で、西島は初めて、坂本を見た。
葛西の隣を歩く背中はわずかに丸まって、ひょろりとした印象をいっそう強くしていた。薄い体だと思った。西島が思わず自分の目を疑ってしまったほどに、”葛西の親友”は、弱そうな男だった。
どこぞの生徒会役員ですといっても通るような、よくいえば優等生、悪くいえば坊ちゃん坊ちゃんした男。悪名高い正道館の制服がまったく似合っていなかった。「あれが?!」とあとで友人に呟いてしまったくらい、その男はそこにそぐわなかった。
よくいえば優しそうな、率直にいえば頼りない、平和そうな男。
それが西島にとっての第一印象だった。
その眼の名は炎といった。
彼をそう思ったのはなにも西島だけではなかった。弱そうな男は、誰の目にも弱そうに見えていた。それでも葛西を恐れて口を噤むのはまだ可愛い方で、陰で、あるいは葛西がいないときに限ってあからさまに嘲笑う人間のほうが多かった。
西島はそのどちらでもなく、どちらの側も軽蔑していた。だが正直、扱いに困っていたのも確かだった。
西島にとって葛西は正道館で唯一認めた、自分より上の男だ。葛西の舎弟であることに異論はない。だが坂本は。
(あの男はいったい何だ?)
葛西の親友だという。葛西が坂本を特別扱いしているのは端から見ても良くわかる。それはもう、いやというほど。
葛西に取り入るために坂本におべっかを言う連中もいたが、西島はそんなのはごめんだった。なにがあっても、なにを言われることになったとしても、自分が認めた人間以外に膝を折る理由など自分にはない。そもそも、媚を売るような真似が出来るのなら、西島は正道館に来ることはなかっただろう。
いっそ、坂本が情けない男ならよかったのに。
葛西の威を借る、自分一人ではなにも出来ないような情けない男。それなら自分はただ軽蔑するだけで良かった。それかいっそ、葛西の親友というイメージにふさわしい凶暴な男だったらこうも煩わされることなどなかっただろう。
実際の坂本は、そのどちらでもなかった。穏やかな眼差しと冷静な思考は、正道館にあってはあまりに異色だ。”葛西の親友”は普通すぎて、平凡すぎて、それゆえにこの学校では異様なのだ。
坂本は、周囲の評判が耳に入っていないはずがないのに、顔色一つ変えなかった。喧嘩が出来ないわけではないらしいのに、力を誇示することもなかった。そして、西島はふと気づいた。
坂本がひどく冷静な目で周囲を見回していることに。
あれは。あの目は、多分。
深く息を吸い、吐き出す。それを理解することは西島には困難で、不快だった。
あの眼は。坂本は。
選別しているのだ。もしくは見極めを。
それに気づいたとき、一瞬ぞっとしたのは確かだった。この男は、噂されているほどヤワではないと確信した。あの、冷静な目。
沈黙したまま、彼を侮蔑する視線や噂さえ本心を覆い隠すための盾として、坂本は密かに周りを見ている。信頼に足る相手か、どうかを。
彼にとっては未だに、葛西以外の連中は味方ではないのだ。一度の敗北で親友を捨てた連中を、彼は、じっと冷えた目で、観察している。
仕方のない、いや、当然の事なのだろう。坂本にしてみれば、西島を含む全ての連中が裏切り者に見えるのかもしれない。簡単に信じられなくて当然だろう、けれど。
(ここは、そういう場所じゃねえのか?)
西島は奥歯を噛みしめて、空を見上げた。坂本のあり方が不快だった。
強いものが上に立つ。どんな馬鹿でも理解できる単純な掟だ。どんな綺麗事よりも力に価値があることを認める場所。それがいやなら、そもそも正道館に来るべきではないはずだ。甘ったるい言葉や優しさが、例え上辺だけでも、価値を認められる場所へ行くべきだった。
坂本は、それがわかっていない。
(甘いんだよ、てめえは)
心の中で、そう吐き捨てた。けれど同時に、自分があの男を微かだけれど怖れている事も、認めざるを得なかった。自分はあんな態度を取り続ける事はできないだろうと思った。あんな風に生きることはできないし、したくもなかった。
そして、本人が否定せず、そもそも気にもかけなかったために、悪意に満ちた噂は事実として決定していった。葛西が隣にいなければ、坂本を見る目に嘲笑が浮かばない日はないほどだった。
それでも坂本はまるで気にしない。気づかないふりで生活している。
歯がゆかった。実力を示さない男が、穏やかな笑みを崩さない男が。なにより、偽りの姿を信じ込んでいる連中が。
だからある日、西島は坂本の真正面に立っていった。
「騙してんのは、気持ちいいか?」
「西島?」
「何も気づかねえ連中なんざ、馬鹿みてえに見えるか?楽しいか、そんな嘘続けてて」
晴れた日だった。
たまたま葛西が坂本のそばにおらず、屋上の隅に二人だった。照りつける太陽の下を、夏の風が遊んでいた。頭から爪先まで湿った空気に覆われて、生温い風がそれでも心地良かった。
坂本が自分をどう判断しているのかなど知らないまま、ナイフの切っ先を向けるように鋭く切り出した。
葛西とはまったく別の意味で、誰に対しても態度を変えない男は、少し黙った後で答えた。
「そんなつもりは、ねえんだけどな」
困ったように眉を寄せて、坂本はじっと西島を見つめた。
そのころの自分は、坂本のその表情が嫌いだった。怒るべきところで笑うような、感情をハッキリと表さない曖昧な態度をひどく嫌悪していた。
今は違うのかといわれれば、それほど変わってもいないのだが、当時ほどの嫌悪がないことも確かだ。一人の友人からそういった強さや、戦い方もあるのだと教えられたから。
だが、今はともかく、当時の自分にとって、その曖昧さは忌むべき誤魔化しでしかなかった。
「ざけんな。確かに俺たちは馬鹿の集まりだけどな、てめえみてえな卑怯モンに馬鹿にされる覚えはねえんだよ」
激しい怒りをはらんだ声に、坂本は答えなかった。答えずになお、穏やかな笑みを崩さなかった。
今でも良く思い出せる。あのとき自分は、殴ろうとした。その衝動をとめるものはどこにもなかった。怒りが体中を渦巻いて、はけ口を求めていた。そのにやけたツラを潰してやると、手を振り上げた──── けれど、振り上げた右手は、当の本人の視線一つで止められてしまった。
穏やかな笑みの、奥にある目が赤かった。
凄まじい炎だった。笑いながら、それでもはっきりと坂本はいっていた。無言のまま、その目一つで。
やる気なら、容赦しないと。
人の目一つで。視覚を操るただの器官でしかないその白と黒の物に、身動きすらとれなくなったのは後にも先にもその一度きりだ。
ただの目に。だが確かに炎が見えた。
敵意でも悪意でもなかったけれども、燃え盛る火だった。
心臓を掴まれたかのような感覚に、西島は息まで止めていた。想像もしていなかった熱に呑まれて動けなくなった自分に、毎日のように中傷を浴びながら顔色一つ変えない男は、ぽつりといった。
「俺は仲間だと思ってる」
意味がわからなかった。なにを言い出すのかと不審な顔をした西島に、坂本は、その炎の塊のような目を隠そうともしないで言い募った。
「仲間だと思ってる。少なくとも葛西の周りにいる奴らはみんな、仲間だと思ってる」
拙さすら、感じさせる口調だった。
目を逸らすことなく、非難から逃げることなく、己の心から目を逸らすことなく、向かい合う心からも目を逸らすこともなく、ただ真っ直ぐに。
(──── なんだ)
真っ先に浮かんできたものは、反発でも感動でもなく、笑ってしまいそうなほど深い納得だった。
(コイツ、馬鹿なのか)
何かを貫いた人間は、ときにひどく馬鹿馬鹿しく見える。笑ってしまいそうなほど、馬鹿馬鹿しく、愛おしく……そして人を圧倒する。
西島も、認めたくはなかったが、圧倒されていた。坂本の、その馬鹿さ加減に打ちのめされながら、受け入れざるを得ないところに立たされていた。
坂本の言葉に納得したわけではなかったけれど。坂本の本心を理解できたと思えたわけでは、全くなかったけれど。坂本の目が、声が、気配が、あまりに真っ直ぐで、この男はこの男なりに本気なのだとわかってしまったから。
そのやり方も、態度も、西島にはなにひとつ共感できないもので、不快さすら覚えるものだったけれど、坂本は本気なのだと。侮っているのでも、嘲っているのでもなく、本気で戦っているのだと、言葉がなくとも理解できてしまったから。
視線を逸らし、西島は独り言のように、「わかんねえよ」と呟いた。その意味を正しく理解したわけではないだろうが、坂本は少しだけ、表情を和らげたようだった。
「わかんねえよ。俺にはお前がバカにしかみえねえ」
「そうか」
くつくつと笑いながら、坂本は西島を真っ直ぐに見返していった。
「でも俺は、西島が好きだよ」
「葛西を裏切る心配がないから?」
「……そんなに、葛西のことばっか考えてるわけじゃねーよ。そうじゃなくて、西島は、仲間思いだから」
坂本はにこりと笑っていった。なので西島はつい、突発的に、目の前の男を殴ってしまった。
(やっぱりコイツは甘ったれだ、そのうえ大馬鹿だ!)
心の内での絶叫は、誰の耳にも届かずに、青空へと吸い込まれていった。
今になって思えば、あれは、自分と正反対のあり方をする相手への反発だったのだ。坂本のあの眼に、自分を否定されるような気がしていた。
そんなことがあるはずがないと、今ならいえるけれども。
救急車で運ばれていった友人に、西島は、紫煙で空を白く色付けながら囁いた。
(馬鹿だな、おまえは)
一年の頃から変わらない。結局、変わらなかった。あの炎のような眼のままで、葛西を見ていた。
だから、葛西と対峙せずにはいられなかったのだ。西島はそれを知っていた。
(結局、おまえだけが、あの人と対等でありつづけた)
坂本は坂本の望みを貫いた。それを、せめて自分だけは理解してやりたいと思った。
久しぶりの更新なのに妙に薄暗い話になってしまいました…。西島が!西島が武士っぽいから!(関係ない)