新庄さんちの3分間クッキング
朝から降っていた霧雨はやんで、空は白く覆われながらも輝きを取り戻している。窓を開ければ冷たい風が入ってくるが、教室の中にいる分には温かい。
これなら今日の部活は外で出来そうだと、新庄は座ったまま空を見上げて、そっと目を細めた。
「お、雨やんだな」
向かいの椅子に座って雑誌をめくっていた岡田が、窓の外の景色に優しく目を和ませる。新庄はただ頷いた。
岡田も自分も、若菜たちのように全身ではしゃいでみせることはしないが、それでもお互いに、思っていることは通じていた。口数は少ないが、お互いに目と目で、あるいは空気と空気で会話するような雰囲気を、新庄はとても気に入っていた。
再び雑誌に目を戻そうとした岡田が、不意に、顔をしかめてこちらを見た。
「おまえ、その指、どーしたんだ?」
新庄は反射的に、部活時並みの素早い動きで右手をポケットの中に入れようとしたが、右手首を取られる方が早かった。上からしっかりと押さえつけられて、少し力を込めたくらいでは引き抜けない。
「……喧嘩じゃねーよ」
「それは聞かなくてもわかるから。じゃなくて、なんだ、どっかに引っかけたのか?」
右手の中指、薬指、小指に、それぞれ絆創膏が貼ってある。ガーゼの部分は黒く滲んでいた。一目でケガをしたとわかってしまうそれに、新庄は内心でうんざりとした。少しでも部活に支障が出るのがイヤで、わざわざ張ってきたのだが、やはり剥がしておくべきだった。
「別に、なんでもねーよ」
「新庄」
「なんでもねーって」
仕方ないなといいたげな目をして、岡田は掴んでいた手を離した。
岡田はこういうときに、無理やり踏み込んでは来ない。あくまで新庄が話すのを待つが、話さなかったからといって気を悪くすることもない。この友人は、ときどきこうして、何か尊いもののように自分を扱う。
はっきりとはわからないが、たぶん、甘えられているのだと思う。岡田は自制心の強いところがあるから、それとわかる形では甘えない。この友人の甘え方は、自分とはまた違う方向に遠回しだ。岡田は誰かを、底が見えないほどに甘やかすときだけ、そっと息を抜いている気がする。
だから新庄は、尊いもののように扱われることを拒まない。それで揺らぐものはもう、新庄の中にはない。それに、友人が楽になれる場所が自分の中にあるなら、いくらでもそこに住まわせてやりたかった。
雑誌をめくり始めた岡田を前に、新庄は軽く右手を握った。数回手のひらを開け閉めして、痛みがないことを確かめる。
よし、剥がしてしまおうと決めたとき、イヤな気配がした。
「どーしたの、おまえ」
今度こそポケットに隠そうとした新庄より、野球部エースのほうが早かった。またしても右手首を掴まれ、新庄は正直にいって苛立った。この野郎とも思ったし、思い切り振り払ってやろうとも思った。新庄の中で安仁屋は、そういう扱いをしてもいい男だった。
「うわ、ダセッ!バンソーコーだらけじゃねーか」
「うるせーな、三枚だけだろ」
「まさか突き指したんじゃねーだろーな。突き指にバンソーコーなんてアホな真似してたら、おまえ殺すぞ」
新庄の右手は、怒りのあまり震えた。
「てめぇこそ殺すぞ、コラ。どー見たって出血してんだろーが。これのどこが突き指に見えんだよ」
「いや、初心者はどんなバカな真似すっかわかんねーからな。いいか、突き指はクセになるんだからな、きちんと」
「だから突き指じゃねーっつってんだろーが!」
安仁屋はけっこう人の話を聞かない男である。新庄は怒りに震えながら絆創膏をむしり取った。この男は目の前に現実を突きつけてやらないと、なかなか目を覚まさないのだ。
「おら、見ろ!切り傷だろーが!」
乱暴に剥がしたせいで、閉じた傷口がまた開いてしまっている。赤く滲み始めた指先に苛々しながら、安仁屋の眼前に右手を突きつける。目を丸くした安仁屋に、新庄は少しだけ溜飲を下げた。すると、柔らかな声がした。
「どうしたんだよ、その怪我」
新庄は、ひっそりと硬直した。顔には出さないが、頭の中では恐竜が右から左へ猛ダッシュしている。民族大移動並みだ。
ぎりぎりと、油の切れたゼンマイ仕掛けの人形のような動きで顔を回すと、予想通り小柄なキャプテンが近づいてきていた。
「切ったのか?あーあ、血が出てるじゃん。絆創膏あったかな…?」
「ちげーよ、御子柴。コイツ突き指したんだって」
「え、突き指!?」
「してねーよ!!まだいうかてめーは!」
「じゃあ何やったんだよ。紙じゃこんな風に切れねーだろ」
目を眇めた安仁屋に、新庄は口を結んだままにらみ返した。岡田にさえ言いたくなかった原因を、安仁屋に話してたまるかという気持ちだ。安仁屋はたいがい、新庄にとって余計なことをしてくれる。
黙ってにらみ合っていると、御子柴にぽんぽんと腕を叩かれた。
「まあまあ、いいじゃんか、安仁屋。たいしたケガじゃねーし」
でも、絆創膏はもらってきたほうがいいなと、御子柴が眉をひそめたので、新庄はとうとう耐えきれなくなって言った。
「喧嘩じゃねーよ」
「うん、わかってるよ。それで、どーしたの、これ」
言葉に詰まった新庄の横で、岡田が小さく吹き出した。笑いながら、『さすがキャプテン、すげー持っていき方するな』と呟くのが聞こえたが、新庄はそれどころではなかった。
御子柴がじっとこちらを見ている。問いただすというほどに厳しくはなく、気遣うというほどに優しくもなく。ただ、自分が答えるのを当然のこととして、こちらを見ている。
これだから御子柴は苦手なのだ。いや、苦手というと語弊がある。別に嫌いなわけではなく、むしろ好きであるし、大事な仲間だと思っている。ただ、御子柴はあまりに真っ直ぐで、眩しいほどに率直だった。これで安仁屋のような傲慢さをひとかけでも持っていたら、乱雑に扱うこともできたのに、自分たちのキャプテンはむしろ謙遜が過ぎるくらいだ。
御子柴を相手にしたら、自分ができることなんて一つしかない。
新庄は重い口を開いた。
「別に、たいしたことじゃねーんだよ……」
新庄は一人暮らしである。当然、食事を作ってくれる人はいない。それでもとくに不自由はなく、今までずっと、コンビニと外食ですませてきた。
けれど、野球に打ち込むようになってから、新庄は考えていた。スポーツマンにとって食事は基本中の基本である。三食をコンビニと外食ですませていたら、栄養は偏ってしまう。これは良くない。
そして昨日、とうとう新庄は料理の本を開いてみた。『三分でできる』という言葉を信じて、麻婆豆腐に挑戦してみた。しかし『三分でできる』という本は、説明が大雑把すぎてよくわからなかった。
『豆腐は崩れやすいので、手のひらにのせて切りましょう』という説明通りに、右手にのせたまでは良かったが、そのあとに『さいの目切りにする』と書いてあって、新庄は豆腐をのせたままパニックに陥った。
さいの目!?サイの目!?なんだそりゃあ!と、料理の本を軽く殴りたくなったが、いかんせん豆腐が右手の上で震えている。仕方ないので新庄は、よくわからないまま豆腐を切った。
そして、豆腐と一緒に右手も切った。豆腐は赤く染まった。
「……だから別に、喧嘩じゃねーんだって」
ぼそぼそと話し終わって、ちらりと反応を窺うと、岡田がいきなり雑誌を机に叩きつけた。
「あっぶねーな!!何やってんのおまえ!!米を炊いたこともねーくせに麻婆豆腐になんか挑戦するな!初心者はサトウのご飯とインスタントみそ汁から始めとけ!バカかおまえは平塚か!」
「あ、ああ…、わかった」
身を乗り出して叱りつけてくる岡田に、引け腰になりながらも頷く。すると、隣に立っていた男が体を折って笑いだした。
「だーはっはっはっは!!!おまっ、おまえ、なにやってんだよっ!!ぎゃははは!!バッカじゃねーの!!」
「るせー!!黙れ!」
腹を抱えて爆笑する安仁屋に拳を震わせたとき、御子柴がノートを差し出してきた。
「新庄、さいの目切りっていうのはね、こういう形で…」
わざわざ図を書いて説明してくれる御子柴に、別に教えてくれなくていいとも言えず、新庄はとりあえず黙った。
こういう時に上手くかわしてみせるには、自分には絶対的に経験値が足りない。新庄はおのれの経験不足を十分自覚していたので、大人しく『さいの目切り講座』を受講した。
岡田はまだ怒っているし、安仁屋は笑い転げているし、御子柴は真剣だ。新庄は早く休み時間が終わることをひたすらに願った。
窓の外では、いつの間にか、雲の切れ間から青空が顔をのぞかせている。
今日は、なかなかの、部活日和になりそうだった。
おちなしやまなしいみなし!真のやおいでごめんなさい。でも書いていて楽しかったです!新庄は御子柴に料理を教わって、岡田と一緒に買い出しに行って、安仁屋にまずいと文句をいわれればいいと思います。