落とし物 8



 まっさらな状態というわけではないと、思うのだ。
 真っ白な、何も刻まれてない自分なんてものは、赤ん坊でさえ持ってない。だから今なにも思い出せなくても、今なにも感じられなくても、刻んできた全てを自分が失っているわけじゃあないと思う。
 ただ少しだけ、息苦しかった。
「・・・・・・・なんでアンタが、鍵持ってんだ?」
 思わず呟いたら、ものすごい目で睨まれた。
 しかしお前の家だと連れてこられたボロアパートのドアに、例の葛西が慣れた仕草で鍵を取り出して差し込むのを見れば、不思議に思わないほうがおかしい。
 友人というのは普通、合鍵まで持つものだろうか。
「テメエで思い出せ、そんなこと」
 思い出せねえから聞いたんだろうが、とはいいだせない雰囲気があった。
 ドアを開ければ、かってしったる様子で葛西が上がり込む。一人暮らしの、小さな一部屋だ。ざっと大雑把に見てしまえばそれ以上見るものもなくて、かといって思い出せもせず、坂本は所在なさげにたたずんだ。
 実感が、湧かない。
 息苦しさはそれだった。まだ鬼塚といたときのほうが、楽だった気がする。あそこは自分の場所ではないと、はっきりわかっていたから。
 戻ってくれば思い出せると、なんとなく思っていた。理屈を越えた確信があったから、不安など感じなかった。
 思い出せるはずだと思っていたのに、今、やけに怖い。
 空気が体に染み込んでこない。
 現実を前にして、足が動かなくなる。
「なに突っ立ってんだ、おい?」
「・・・・・ちくしょう、なんで・・・・・」
 小さく呟けば、いきなり引っぱられて座らせられた。
「・・・・そこが、お前の定位置。で、俺がたいていここだ。座ってろ、茶煎れてやるから」
「・・・・・・・は?」
 かけられた言葉に、思わず間の抜けた声を返した。
「お前が、お茶、煎れんの?」
「水道水はまずくて嫌だ、ミネラルウォーターは高くて嫌だ、コーヒーは目が醒めるから嫌だ、お茶くらい煎れろ」
 微妙な声色で言われた台詞に、坂本は顔をひきつらせた。
「それは、もしかして、俺の台詞でしょうか・・・・・?」
「もしかしなくてもお前だ。他に誰がいる」
「ええと・・・・」
「おら、飲め」
 ほかほかと気持ちよさそうな湯気がたっているお茶を、というかそのカップを目の前に置かれて、いっそう顔が引きつるのがわかった。

 世の中の男性百人に聞きましたアンケート、『仲のよい友人(男)とならお揃いのマグカップを買いますか?』

(買う、のか・・・・・!?!?)
 正確には、色違いでおそろいだ。
「これ、誰が買ったんだ・・・・?」
 お茶のいい匂いを立てるマグカップを、震える指先でさして問えば、葛西がやや顔をしかめて答えた。
「おまえ」
「・・・・・・・・・・・・お揃いに、見えるんですけど・・・・・・・」
 こわごわ、呟いた。黙っているのもあまりに怖くて、言わずにはおれなかったのだ。
 しかしそれは間違いだったかもしれない。直後に後悔するはめになった。
 指差されたマグカップをじっと見据えてから、葛西はふっと息をぬいた。それにつられて、坂本も力が抜ける。
 その瞬間に、頭を掴まれ気づけば唇がくっついていた。
(は・・・え・・・・あ・・・・・・んぎゃーーーーーーーーーーー!!!!!)
 呆然としている坂本をよそにキスは繰り返されて、おまけに舌まで入ってきた。
(うあああああああああ!!!!!)
 右腕でガンガン叩いてもびくともしない。かといって左腕まで使えば、このまま押し倒されそうな体勢だった。頭を押さえ込まれて、引っぺがそうにもうまくいかない。
(うぎゃああくすぐってえ!!)
 入り込んできた舌が、ぞわぞわと悪寒にも似た感覚を呼び起こす。このままだと男の生理的にとてもやばいことになりますよと本能が警告を発した瞬間、ようやく、ゆっくりと葛西の体が離れていった。
「・・・・・・・・・ってめえ・・・・っ!」
「思い出したか?」
「なにしやがるてめえ!!!」
「チッ・・・・・・・・キスだけじゃ駄目か」
「待て待て待て!ストップ葛西!!落ち着け、冷静になれ!!」
「お前が落ち着け。やんねえよ」
 壁まであとずさった坂本に、葛西がゆるく肩をすくめた。
「思い出すまで、もうなんもしねえから。落ち着け」
 寂しそうな目のわりに、声も態度も優しくて、なぜか笑わないとと思った。 
 笑ってやりたくて、無理やりに作った顔は、やはりうまくはいかなかったけれど。




「うーーーーあーーーーーーー」
 声に出してうめいてみても、いっこうに落とし物は帰ってきてくれなかった。
 「メシを買ってくる」といって葛西が出ていってから、もう二十分が過ぎようとしている。そろそろ帰ってくるだろう、その前にわずかでも他の人間でも他の記憶でもなく葛西のことを、思い出したかった。
 ついでに自分がホモかどうかも。
 葛西となんでだかそういう関係らしいのはもう疑いようがない、ないがそう簡単に信じたくもない。
 気がつけば、あんなに違和感の合った自分の部屋にもなじんでいた。
 染み込んでこなかった空気が、いつのまにか楽に息ができるようになった。
 なんのおかげかなんてことは、考えるまでもなくて、坂本はまた深く溜め息をついた。
「葛西、葛西、葛西、葛西、んーーーーー、駄目だ」 
 わかることはわかる。
 感覚は覚えている。その雰囲気も、気配も、喋りかたも、目も、何百人の中からでも探し出せるだろう。それと、あの男がそういう存在であることも覚えている。
(でもそこからがなあ・・・・・・・)
 事柄がなに一つ思い出せないのだ。今まであったことが、ごっそり抜け落ちている。
 そもそも、葛西はあんな優しい男だったろうか。
 喫茶店の中まではともかく、この部屋にはいってからやけに態度が優しい。きちんと話はしてくれるわメシは買いに行ってくれるわ、おまけに本当にあれ以来指一本触れてこない。
 とても、とても失礼な言い草だとは思うのだが、ぶっちゃけいっていいだろうか。
 気味が悪い。
 イメージ像で言うなら葛西はもっとむかつく男だったはずだ。我儘で、ガキで、手はかかるわ言うことは聞かないわ、という散々なイメージしかない。
(気をつかってんだろうな、やっぱ)
 不意におかしくなって、坂本は本人がいないのをいいことにくつくつと笑った。
 この部屋に入ってから葛西は、不安も動揺も一切見せなかった。それはさほど無理をしているふうでもなく、ああこういう一面もあるんだなと、ぼんやりと思ったのだ。
 いつもとまるで逆の、真っ当に良い男である葛西というのはやけに新鮮で、思い出してもおかしかった。 
 しかしそのギャップのありすぎる葛西のせいかおかげか、記憶はいっこうに戻ってこない。疲れてごろんと横になると、ポケットががさがさと音を立てた。
「・・・・・あ」
 煙草だった。
 それもおそらくは、これを買うために渋谷にまで行ったと思われる、珍しいメーカーの。
 今日渋谷を出る前に鬼塚に渡されたのだが、すっかり忘れていた。
 慌ててライターを探し、いそいそを火をつける。
 うまくすれば記憶が戻るかもしれないと、一縷の望みをかけて深く吸い込んで、むせた。
 思いっ切りむせた。
「げほっふっ・・・・ごほっうえっ・・・」
 珍しいメーカーだけはある、きつかった。ひどくきつい、これを本当に吸っていたとは信じられないほどにきつい煙草に、喉が焼け付く。
「飲め!水だ」
 目の前にコップが出されて顔をあげれば、いつの間にか帰ってきていた葛西が青い顔をしている。
 涙目でコップを受け取って、一気の喉に注ぎ込むと、幾分楽になってほっとした。
「サンキュー・・・」
「なにしてんだおまえは」
 へなへなと座り込んで、葛西が疲れた顔で呟いた。
「いや、煙草が・・・・久しぶりに吸ったらやけにきつくてさ」
「煙草ぉ・・・?」
 しめされたほうをうろんげに見やった葛西が、そのパッケージを目にして眉をひそめた。
「なんでこれがここにあんだ?」
「なんでって・・・・・・俺がさっき、吸ったからだけど」
「おまえがぁ?どうしたんだおまえ、大丈夫か?」
「って、これ俺がいつも吸ってるやつだろ!?」
 朱色の入ったパッケージを指差せば、あっさり否定された。
「お前じゃねえよ。俺だ」
 いいながら、慣れた手つきで一本取り出す。
「俺は好きだけどな、もうこの辺じゃ売ってるとこねえだろこれ。どうしたんだ?」
「鬼塚に貰ったんだよ」
 とっさに嘘をついた。
 まさか、葛西の愛用だとは思わなかったのだ。
(人の煙草を、わざわざ買いに行く俺って・・・・・・オイオイオイ・・・・・・・)
 悲しいしやら恥かしいやら。お前の煙草を買いに行って吹っ飛ばされて記憶なくしました、なんて、いえば案外喜ぶかもしれないが死んでもいいたくない。恥かしすぎて穴を掘って入りたいくらいだ。
(うあーうあーうあー・・・・・・・・なに考えてたんだよ俺は)
 恥かしさに心の中でのたうちまわる坂本をよそに、葛西はうまそうにタバコをふかせている。
「お前はもっと軽いやつ吸ってたんだぜ、肺がんになるとかいって」
 その言葉に、穴に入りたい気持ちのまま顔を上げると、葛西がひどくガキっぽい顔で笑っていた。
 それでわかってしまった。
 馬鹿みたいだ。
 この顔が見たかったのだ。一番好きな煙草を吸って、緩んだ顔で笑う葛西が見たかったのだ。だからわざわざ買ってきたりしたのだ。ああ本当に、馬鹿みたいだ。
 けれど、葛西は本当にうまそうに吸うから、馬鹿でもいいかもしれない。
 記憶にはないけど、これを買いに行った自分の気持ちは、やっぱりわかる。やはり自分だ。馬鹿でもいいと思えるだけの自分で、そして葛西だ。
 体の力が抜けてしまって、ゆるく息を吸う。部屋に回りはじめた変わった匂いは、けれどかぎ慣れたものだった。
(あーそうだ、これだ・・・・・・)
 四肢をだらしなく伸ばして、ゆっくりと息を吸う。慣れた匂いが、肺に入って、血管に入って、体中にまわる。
 そうして、深く息を吸って、吐いた時には、落とし物がようやく手の中に戻ってきていた。















-End-


 完結しました。
 長々とお付き合いくださった皆さま、本当にどうもありがとうございました!
 心から感謝と愛を!!(いらんて)
 最終話は途中でエロに転がりそうになりましたが堪えました。
 結局鬼塚はどうなったんですかと思われる確率大(私も思ってるから!)。先にお答えしましょう。彼はちゃんと渋谷に帰りました。五体満足で帰った彼に須原たちはきっと涙したことでしょう。
 鬼塚と坂本を会わせたいだけではじまったこの話も、予定よりずいぶん長くなってしまいましたが、最後までお付き合いくださってありがとうございます。その後の三人は、ええと・・・・ご想像にお任せしますv(笑)