他に何もいらない、とはいわない。
 だが、この関係と引き換えにできるものなど何もない。



爪先 2





「ここは仮定法過去完了だから…って聞いてんのかお前」
「聞いてる聞いてる」
「じゃあこの手は何だ」
「俺の手だろ」
「そーゆー事いってんじゃねえー!!」
 ちゃぶ台をひっくり返す勢いで──── しかし実際にひっくり返すのは何とか我慢したらしい──── 坂本が叫んだ。目が据わっている。
「ま、じ、め、に、やれ!」
「やってんだろ」
「人の髪を引っぱりながら鉛筆ぶらぶらさせるだけのどこが真面目なんだ!?ああ?いい加減にしろよ、葛西」
 声がどんどん低くなってしまったので、葛西は大人しく謝った。
「……絶対反省してねえよな、お前」
 坂本が疲れたように呟く。
(反省ねえ……)
 精一杯しおらしくして見せてもいいが、そうすると今度は「気持ち悪ィ」とかいうのだこの男は。
 開かれた教科書には無機質な字だけが並んでいる。その冷たさは不快ではない。
 文字をぼんやりとなぞっても温かみはない。葛西は密かに苦笑した。無機質な冷たさは、自分の内にもある。
「や、れ」
 ぼんやりしていたら、頭を軽く叩かれた。目線を上げれば坂本が怒った顔でこちらを見ている。
 どうせ、表情ほどは怒っていないのだ。
 それでも一応真面目な振りで、問題を解き始めた。坂本は怒っても怒りが持続しない男だが、あまり怒らせたくはない。
(………どうかな)
 本当は怒らせたいのかもしれない。
 安心できるから。失っていないのだと実感できるから。
 この声も、目も、手も、なに一つ失っていないのだと感じられなければ、自分はきっとおかしくなるのだろう。
 たいがいの事においてはどこか冷えてしまっている自分が、おかしくなると、妙な確信を抱いているのもまたおかしな話だけれど。

 凶暴な衝動に浸っても、どこかで計算をしている。
 熱にのまれる自分を、もう一人の自分が冷静に見ている。完全に熱に飲み込まれることなく、どこかが常に冷静で、喧嘩の最中でもそうだった。
 だからこそ負け知らずだったのかもしれない。
 意味のない文字のように、自分もどこか冷たい。
 坂本はたぶん逆だ。
 醒めているように見えて、その実誰よりも激しい。誰の言葉も聞かない凶暴さを隠し持っている。
 一度荒れ狂ったら、手がつけられない。

 だから時々、本当に時々、怒らせたくなる。キレた坂本の眼は奇麗だ。他の全てを燃やし尽くす怒りだけが、そこに映っている眼は、ひどく奇麗だ。打算も、見栄も、優しさも、そこには存在しない。
 荒れ狂う怒りだけがある。
 そうなると本当に手がつけられないが、その姿に安堵する自分がいることも、事実だった。
「葛西?どした?」
「なにが?」
「変な顔してるぞ」
「…失礼だな、お前」
「違くて!なんつーか、なんつーか、……変な顔?」
 言葉の足りない子供のように、坂本が首を傾げた。自分の中ではハッキリしているのに、どう伝えていいのかわからない、そんな顔している。
 葛西は呆れたような顔をして、また教科書に目を落とした。
 実際は、親友のいいたい事はわかっているのだが。
 坂本がそれを言葉に出来ないというのなら、そんなもの一生言葉にしなくていい。変な顔。確かに、自分を嘲っている顔なんて見れたものじゃないだろう。
(前は……)
 鉛筆を走らせながら、考えた。
 前は、一番怖いことは負けることだった。明確にそれは一番だったけれど、なら今は、どうなのだろう。
 一番の怖れ。
(決まってる)
 葛西の物よりは数倍使われた跡のある教科書を、ぼんやりと眺めているこの男が、一番怖い。
(お前の優しさが一番怖えな)
 毒だから。
 じわじわと体を蝕む毒だ。坂本の優しさは甘さでもある。悲しいほどに、この男は今でも自分に価値を見出せないでいるから。
 自分自身へ向けるべき優しさまで、坂本は他人へ与えてしまっている気がしてもどかしい。
(…そんな必要がどこにある)
 キレた坂本は、そのときだけ優しさを深く沈める。だから、自分は安心してしまうのだろう。
 この眼に、何も見透かされないことに。
 優しさが、自分の醜さを見ないことに。
(──── ……違うか)
 それだけでは、ないのだ。
 自分の事は自分でどうにでもできる。この男に軽蔑されたくないと思うなら、それだけの人間として振舞えばいい。どうにも出来ないのは、むしろ、このやっかいな親友のほうだ。
 いつか。
(お前の優しさは、お前を追い詰めるんだろうな)
 その時が来ないことを願っているけど。
 坂本も、頑固だから。 
「馬鹿だよなあ」
「誰が」
「お前が」
「んだとてめえ……俺がこんだけ一生懸命教えてやってるっつーのに、バカとはなんだバカとは!!」
「俺の勉強なんかに付き合ってるのが馬鹿だろ」
 なにげなく返した言葉に、坂本は目を瞬かせた。
「えーと、つまり、それはー。もの凄く遠回しな感謝の言葉か?」
「なんでそうなる」
「だって、そうだろ?」
 全然違うといってやろうと思ったが、坂本が笑っているのでやめた。
「なんだ、そーかそーか、お前もやっぱり留年はいやだもんな」
 別にどうでもいい、とはあえていわないでおいた。
 黙り込んだ葛西に、坂本は小さく笑って、いった。
「俺も嫌だぜ?お前が同じクラスにいないのはさ、いやだ」


 ああ本当に。
 お前は馬鹿だ。
 どうにかしてくれないか、こいつを。
 自分がなにをいったかなんて、わかっちゃいない。何も考えちゃいないんだろうお前は。だから困るんだ。
 何気なくいわれた言葉に、息が止まりそうになったなんて。
(俺のほうが馬鹿じゃねえか)






 怒り狂う姿が好きだ。でも本当は笑っていて欲しいのかもしれない。どちらでもいい。どちらでも構わない。

 お前がここにいるのなら。


 だからどうか、どうか、もう少しだけ、この手を強く掴んで欲しい。





















 前編とテンション違い過ぎでごめんなさい…!(逃走)
 てかこれ1を書いたのはいつだ…何でこんなに時間が経ってるんでしょう、人生の神秘?1のコメントに、次は砂吐く甘さを目指しますとか大嘘書いてあるのも人生の神秘?
 ああちなみに、この話の正道館高校は三年間クラス替えはなしということでお願いします(吐血)(あるのかそんな高校!)(探せばアルカモ!)