夕溶け


 手を開いて。
 指先の一つ一つから空気を知る。




 鈍い音とともに、黒い制服が地べたに這いずり回って呻く。
(今日の夕飯は食えねえだろうなあ、あれ)
 吐き出した紫煙が空しか知らないように上に流れていった。
「まだやるか?」
 心なしか楽しそうに、葛西がいう。
「葛西」
「なんだよ?」
 ああ本当に楽しそうで、困る。
「その辺で勘弁してやれば。もう、俺とお前しか立ってないだろうが」
 なんだってこんなことを言わなくちゃならないのかと、思いながらいわずにはいられない。
 そんなだから、正道館の良心だとか気持ちの悪いことをいわれてしまうのだが。
 葛西はそれでも、まだ名残惜しいのか、転がっている男たちを爪先で蹴っていた。
「葛西」
「・・・・足りねぇな」
 なにがだと、聞きたくもないような目をする。


 葛西は確かに落ち着いた。
 前のように追いつめられてはいない。
 そして、獰猛な本性を隠すのが上手くなった。


 噛みつくようなキスに蹴りで返したが、痛そうな顔一つ見せなかった。
「理不尽だ」
「なにが」
 なぜか一人で満足している葛西に、坂本は深くため息を吐いた。
 なんでこんな男と一緒にいるんだろうと、疑問を感じる一瞬だ。
「ストレスを感じるんだけどなぁ、誰かさんのせいで」
「解消してやろうか」
「死ね、エロガキ」
 不安になるんだと、いってやろうか。
 時々不安になるんだと。お前のせいで。俺は。
 どこまでお前と行けるのか不安になるんだと。
 血を見て笑うお前とどこまで行けるのか不安になるのだと、いってやろうか?
 ・・・・・・死んでもいわねーけど。





「坂本」
「なんだよ」
 赤い太陽よりも葛西の目が痛い。
「ここに、いろよ」
「・・・・・・やっぱ馬鹿だろおまえ」
 離れたいと思ったら俺が迷ったりしねえことを、お前が一番よく知っているだろうに。
 怖いのはそんなことじゃない。俺はお前といるだろう。俺の心は俺を裏切らないだろう。いつか俺を裏切るのは、きっと俺の身体だ。
 心が痛みを叫んだらいつか、俺の身体は俺を裏切って、お前が向ける切っ先の前に立ってしまう気がする。
 それだけが不安なんだ。



「帰ろうぜ」
「坂本」
 声とともに後ろから羽交い締めにされた。
「・・・・・・オイ」
 くつくつと笑う男に、肘鉄を入れてやろうとしたが上手くいかなかった。
「なに考えてる」
「それは俺の台詞だ、放せボケ!」
 人の耳元で声を出すなと叫んでやりたい衝動を何とかこらていった。
「マァ、いいけどな」
 ゴツイ手の平でいきなり目の前を覆われて、坂本がもがいたがあいにくびくともしなかった。
 密かな笑いすら含んだ声が、冷たく囁く。
「坂本」
「放せ」
 呼ぶなよ、そんな声で。
(俺を支配しようとするな)
 どうあがこうとも、坂本は坂本のもの。誰を選ぶかは彼が決める。
 けれど、長い付き合いになる親友は、ただ喉を鳴らして笑うだけだった。
 堅い指先が、ゆっくりと下りてきて、坂本の頬をなぞる。
 そうして暗闇の中で、冷えた声が耳元を撫でた。
「最後に俺とお前だけが立ってりゃ、それでいいさ」


 その声の冷たさよりも、伝わる熱の高さが怖かった。












 久しぶりなのに短くてごめんなさい。