あなたが必要だというのなら、この誓いに命をかけよう。
そして、溶け行く雪に塗れた土の。
どうしてこんなことになったんだと、まっとうに生きてる幼馴染のように呟く日が我が身にこようとは、お釈迦様でもびっくりだろう。
(俺もびっくりだよ・・・・)
まっとうに生きてない自覚は山ほどあって、たいがいのことで驚くような可愛げは五歳の夏にドブに捨てました、そんな人生。
そんな人生でここまで途方にくれることがあるなんて、思わなかったぜどーしよー。
なんだってここまで途方にくれるかといえば、理由はただ一つ。
相手が男だからでもチームメイトだからでもどっか壊れちまった人間だからでもない、この俺が、誰かに本気になるなんて天地がひっくり返ろうと地球最後の日になろうとありえないこの俺が、ありえないことにどうやらありえてしまっているこの現実だ。
草薙京悟は、しばらく壁にもたれかかった姿勢で固まっていたが、やがてずるずると座り込んだ。
ありえない、ありえない、ありえない、ありえない・・・・・・・・繰り返して言い聞かせてみても、もはや体も心も支配を受け付けない。
「・・・・ちくしょーめ、なんだってこんなことになったんだ・・・・」
愛してもいない女に愛してると囁くのは得意だった。嘘をこの世でたった一つの真実と思わせるのも得意だった。
嘘ならいくらでも言えた。生まれたときから虚飾に塗れていた自分にふさわしく、一生贋物に塗れて生きるのだと思っていた。言えないのは本当のことだけで、それは当然だった。
空っぽの心に、ひとかけらの真実すらない空きビンの体に、真実なんて話せるわけがない。それでよかった。
生まれたときからビンの中は空っぽで、それを変えたいと思ったこともなかった。
空瓶はいつかゴミ捨て場に行く決まり、それまでせいぜい楽しくやれればよかった。本当に、空の自分を嘆いたことなどなかったのに。
なんだって、こんなことになったのか。
気づいたのは、ほんのついさっき。そう、三十分も前までは、まるで気づきもせずに、楽しくやっていたのに。
ふらふらと立ち上がって、その全ての元凶を見下ろす。
ソファに横になって、くーくー寝ているその生き物。
神谷、篤司。
(お前のせいだ・・・・)
その言葉を、繰り返す。
お前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のせいだ・・・・・・・・・
「お前の・・・・・」
けれど、声には出来なかった。
心の中で何百回となじっても、声には出来ない。それは、奴隷となった男の最後の矜持だから。
いっそ、このまま殺してしまおうか。
そんなことを考える自分は、きっと狂ってる。ああでも、とっくに壊れている奴が、今更人ひとり、躊躇うことがあるか?
そこらに転がっているからの酒ビンを、振り下ろせばいい。それで全て終わる。ああでも、それは汚い殺し方かもしれない。今更やり方に綺麗も汚いもないけれど。殺すのは同じだから、せめて派手に、生きていた証が残るように脳髄をぶちまけて殺してやろうか。それで全て、元通りになる。
空き瓶を拾う。手になじむ重み。これをこのまま振り下ろして、なにもかも元通りにやり直す。
リセットボタンを押す。
「はっ・・・はははっ・・・・・はっ・・・・はは・・・・」
いっそ思い切り笑い飛ばしてしまいたいのに、出たのは絶え絶えの息の音だけだった。
空き瓶を、ゆっくりと、音を立てないようにおく。
神谷は、いつの間に、ちょくちょく顔を見せるようになった。異国の地で同じ日本人、気安さはあったのだろう。でもそれだけじゃないのはわかっていた。
草薙は、愛してくれる人を捨てた。いまさらだといって。
神谷は、愛してくれる人から逃げた。もう遅いといって。
向けられる思いが重荷だった。寂しいという権利を手放す代わりに他人を一切拒んだ。神谷はだから、何も与えない草薙のそばで安堵した。
二人とも、向けられた思いに背を向けているところが似ていたから、だから、ともにいられたのだ。
互いを失っても何の痛みもないと知っていたから。
なのに今、気づいてしまった。
空だ空だと思っていた瓶の中には、いつの間にか液体が注がれていて、あふれる寸前まで自分はそれに気づかなかったのに、気づいたときにはもう、空の瓶ではなくなっていた。
なかには、薔薇色の液体が、たゆんでいる。
注いだのは、誰でもない神谷。ガキのくせに、老人のように疲れている男。
絶望を、知ってしまった哀れな人。
救いたいなんて、たいそうなことを思っていたわけじゃなかった。ただ、自分のようには、ならないといいと思っていた。
まだ神谷は、ここまできていないから。今ならまだ、退き返せる。退き返せよと、願っていた。そのための休息なら、今、わずかな安息の地を与えてやってもいいと、思っていた。
それが、このざまか。
ミイラ取りがミイラになったのか。与えてやったのは、自分の家というただの場所。それ以上は、何のつながりもない関係のはずだった。いつの間に、それが変わってしまったのか。
今日、ついさっき、寝ている神谷を見るその瞬間まで、気づかなかった。空瓶はいつの間にか、神谷によって満たされてしまっていた。気づかなかった!いつの間にか、どうして!
満たされたいと願ったことなどなかったのに!
深く、深く息を吐く。
殺せない。時間は戻らない。ごみ箱行きの空瓶だった草薙京悟はもうどこにもいない。そこで寝ている男に消された。ここにいる自分は、馬鹿な男に捕らわれた、愚かな人間。薔薇色の液体に満たされてしまった、奴隷。
「冗談きついぜ・・・・・・」
オイオイどーして、こんなことになったんだ?答えがあるなら教えて欲しい。
それがないならせめて、この液体の捨て方を教えてくれ。嘘で刹那で駆け引きで快楽の世界にこの体を戻してくれ。
誰か。
神谷を見てるだけで泣きたくなる俺なんて殺してくれ。
薔薇色の液体が、瓶の中でチャプンチャプンとたゆたっている。
ここまで来て、今更、新しくやり直せというのか。いまさら、恋に命をかけるような奴になれと?
そんなこと、死んだって無理だ。
草薙はソファを見つめる。そこに寝ている人間が目を覚ましたら、すぐに追い出そう。そして二度と、こいつには会わない。
家は明日にでも引っ越そう、荷物は捨てていっても構わないから、すぐにこの国を出て、チームも移籍して。どうしても駄目なら、サッカーをやめてやる。悪くない遊びだったが、神谷に会うよりはいい。
無理だ。
無理だ無理だ、無理なんだ。
ならいっそ、この体にもどれない傷をつけて、ここらで幕を引いてしまおうか。
それはいい考えに思えた。少なくとも、神谷を傷つけるよりはよほど、可能な気がした。
「・・・・・・きょーご・・・・?」
なんてタイミングで目を覚ますんだよお前は。見ろ俺の手を。今にも銃をこめかみにあてようとしてたんだぞ。どうしてくれる、この手を。どうしてくれる、これが最後のチャンスだったのに。
護身用の銃を今持っている俺がそんなに不思議か。まだ寝ぼけているくせに。寝惚けた目なんかで俺が止められると思うかよ。ああくそ、おまえなら止められるよ。
ちくしょう。奇麗に終わる、これが最後のチャンスだったのに。
銃から、ゆっくりと指が抜けていく。
(あー・・・・・・・生きてるのか・・・・生きてるんだな、俺)
微かに笑った。不意に、液体の捨て方がわかったからだ。
薔薇色の液体。もういい、捨ててしまおう。
それでも元には戻れない。捨てた薔薇色の変わりに、土に塗れた泥水で満たされる。
濁った汚れた、泥の色水。それでいい、雪解けのグチャグチャの泥水。生きているのだから、奇麗な幕引きが出来ないのなら泥水を吸い込んで生きる。薔薇色の液体などいらない。
あれは、神谷の水だから。苦痛の色水。それはそれは奇麗な薔薇色だったけれど、神谷が堪えられないというなら捨ててしまえばいい。
新しい色を、草薙がやるから。奇麗でも透き通ってもないが、確かに生きている色の液体を。
「篤司」
うん?と、寝惚けた顔でこちらを見やる男に、笑う。
「夢を見た」
「・・・・なんの?」
「俺がお前を殺す夢」
神谷は、笑った。
「生きてるよ」
「夢だからな、でも正夢にしてやる」
この手で。
こんなことを言われて、困惑より安堵の目をするお前は、どうかしている。
だから、殺してやるよ。
「俺を殺すのか」
「ああ」
当然の報いだよ、篤司。
「亡霊に縋っているお前を殺してやるよ。泣けもしないお前の痛みを消してやる。篤司の大事な大事な悪夢を殺してやる」
それは厳かな誓い。
空瓶の俺がお前に消されたのと同じことを、お前にしてやろう。
ようやく戸惑いと怒りを持ち始めた顔に、嘲うような顔を作って告げた。
「せいぜい今のうちに、亡霊との別れを惜しんでおくんだな。お前が必要だというなら、この言葉に命をかけるから」
これでもう二度と篤司が俺を許さなくても、構わない。
愛してるよ。一度お前に殺された俺は、ようやくそれを自覚したらしい。
愛してるよ。今この瞬間から、俺はお前を苦しめるものになる。
愛してるよ。生きている色に塗れて、どうかあなたも生きてください。
- 終 -